18.微睡みから現実へ
──良かった。
ぐにゃりと歪んだ視界が真っ白な世界を作ったとき、無責任にもそう思った。もうなにも見なくていい。苦しまなくていい。一時でも、何もないまっさらな時間が訪れるのだと、ひどくホッとしたのだ。
ふわりふわりと揺りかごみたいに優しく揺れる心地を体に感じながら意識が朧に消えていった。
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「──起きたか」
ぱちりと瞼が開くと、ぼやーっとしてはっきりしない黒い影が映った。
「身体は?」
からからに渇いた口からは一欠片だって声が出てこない。それなのにその影は無遠慮に次から次へと私に質問を投げかけてくる。
「何も食ってねえだろ、腹は? 粥食えるか?」
すっかり動きが悪くなってしまったらしい私の頭はまだ最初の質問を噛み砕いて理解しようとしていた。矢継ぎ早に降ってくる言葉に反応しようと口だけは開いてみたが、案の定そこから声が出てくることはなかった。
代わりに返事をしたのは掛け布団がかけられた私の体の一部。きゅーっとか細い悲鳴のような音がお腹から響くと、「待ってろ」という声を残して黒い影はいなくなってしまった。
薄ボケて見えていた視界が少しずつ精細になってくる。ピンクの掛け布団、花柄のクッション、白いローテブルに白いラグ。……私の部屋だ。
なんで? 頭の中にはまだ問いかけられた言葉が整理されないまま転がっていた。
ドアの向こうからピーッと電子レンジの音が聞こえてくる。カチャカチャと食器を出す音。食器棚や冷蔵庫を開け締めする音。やがて静かな足音と共にやってきた姿に目を瞠った。
「……なん……で」
口から出たのはひどく掠れてガラガラの声だった。
「お前学校で倒れたんだよ」
ぽかんと開いた唇がわなわなと震え出す。……なんで? 声に出した言葉が頭の中を何度も駆け巡るも状況が全く理解できない。
「救急車呼んだりでてんやわんやだったんだぞ。酷い貧血と栄養失調ぎみだってよ。一応点滴打ってもらって、入院する必要ねーって言うから家戻って……」
「じゃなくて……!」
一気に流れ込んでくる言葉を堰き止めるように手を前に出して突っ張った。聞かなくちゃいけない、分かってる。けれどとっくにキャパシティをオーバーしている今の私の頭はそれらを受け入れられる状態でない。そしてなによりも、目に映るものが信じられないのだ。
突っ張った手を更に奥へと伸ばすと大きくてゴツゴツした指に絡め取られた。冷たい指先にじわりと熱が移ってくる。
「ひさし……くん、」
別人みたいに掠れて細くなってしまった声に「おう」と、いつもの大きな返事が返ってきた。それだけで心の中がじわっと温かくなっていく。ピン、と張っていた糸が緩むように心が解れていく。
同時に溢れ出した涙を優しく拭ってくれた寿くんは、「とりあえず何か腹に入れろ」とスプーンで掬ったお粥を私の口元へ運んだ。
*
──まるで病人みたい。
でも……私、倒れたんだ。それなら病人に違いない。寿くんにお粥を食べさせてもらいながら妙なことに納得する。
「うまいか?」
優しい瞳に見つめられて、何も考えずに頷きそうになった自分の頭をピタリと止めた。この状況自体は物凄く美味しい……有り難いけれど、お粥の味はと聞かれればノーだ。
「……何でだよ」
私が首を振ると寿くんは顔を顰めた。これが寿くんが作ってくれたものならば文句なんて言わないけれど、長年食べて来たから分かる。この米感の全くないどろどろしたお粥はママが作ったものだ。
「ママが作ったの、いつも糊みたいだもん」
寿くんはお粥が入った器に視線を落として、誰が作ったかすぐ分かるんだな、と何故か感心していた。それなら何か味つけてくるか、と言ってくれたけれど有り難くも遠慮させてらった。
「まだ半分も食ってねえぞ」
「うん。けど、お腹いっぱい」
ここ何日かあまり食事を取っていなかったせいか、少量でも十分お腹は満たされていた。寿くんはまだ何か言いたそうな顔をしていたけれど、小さく息を吐いて私の頭を撫でた。
「だったら横になってろ。まだ本調子ってわけにはいかねえだろ」
コクンとひとつ頷くと、食器を持った寿くんが立ち上がった。部屋を出ていく背中を眺めていれば、あっと言う間に瞼が落ちてくる。
真っ白になった視界の中に、ジャーッと水を流す音やカチャカチャと食器が重なる音が入ってきた。もしかして器を洗ってくれてるのかな、申し訳ないな。そう思うけど、閉じた瞼は開かないし体もピクリとも動かない。
そういえば何で寿くんこっちに帰ってきてるんだろう。さっき聞けば良かった。大学、大丈夫なのかな。部活は……? 部活と言えば、私は何で倒れたんだっけ。倒れてからどれくらい経ったんだろう。休むなら学校に連絡しなきゃ。電話…………!
ぱちり、と開いた瞳が映し出したのは、私を覗き込んでいる寿くんの驚き顔だった。「うお!」と大きな声をあげた寿くんは大袈裟に体を震わせた。……そんな驚かなくてもいいのに。
一体どのくらい寝てたんだろう。ぼんやりしながら部屋を見渡すと、目当てのものが寿くんの手の中に収まっているのが目に入った。
「……ああ、床に転がってたから拾ってやったんだよ」
私の視線に気付いた寿くんはスマホを差し出した。受け取ったスマホの電源を入れると、真っ暗なディスプレイがパッと眩しい光を放つ。表示された日付は、私が倒れた日の翌日。もう午後の授業が始まっている時間だ。
「今日……私、学校は」
「そんなんで行けねえだろ。学校にはお袋さんが連絡してくれてるし、気にせず今日は休んでろ」
「……寿くんは?」
「一日二日休んでも変わんねえからお前が気にすんな」
「……」
そうは言われても気にしないなんて無理な話だ。部活だって足を捻ったせいでずっとお荷物状態だったのに。
「納得いかねえって面してんな」
「だって……」
「こっちは連絡取れねえ彼女が心配で来てんだよ。無事を見届けてからじゃねえと帰れねえ。まだ体調悪そうな面してっからな」
「れん……らく……」
一瞬、真面目に誰のことを言っているの、なんて考えてしまった。首を傾げながら手に持っているスマホへと視線を移して数秒後、私はようやく意味するところを理解した。
「ご、ごめんなさい……!」
「お前、電源切ってたことも覚えてねえのかよ」
「覚えてるけど、そこまで意識が回ってなかったと言うか……」
「俺のこと忘れてたってことか」
「そんなわけないでしょ!」
大きな声を上げてみたけれど、冷静になって思い返してみれば私ってばとんでも無いことをしでかしているのではないか。何の連絡もせずずっと電源を落としていれば寿くんが心配するこなんて考えなくたって分かるのに、私はどれだけ周りが見えていなかったのだろう。
ムスッとして口をへの字に曲げている寿くんの前に、私は恐る恐る自分のスマホを差し出した。寿くんは一瞬不思議そうな顔をしたものの、開いておいた着信履歴を黙ってスクロールし始めた。彼の指の動きと共に、元々薄く入っていた眉間の皺がくっきりと濃くなってなっていった。
「同じ番号で埋まってんじゃねえか。誰だよ、一体」
「……分かんない」
私の答えに更にぐっと眉間に皺を寄せた寿くんに、何度か電話に出たけど無言だったこと、夕方以降の時間は殆どひっきりなしに電話が鳴っていたことを話した。そんなわけで、持っているのも嫌になってしまい、スマホの電源を落としたままずっと部屋に置きっぱなしにしていたのだ。
「いつからだ、その電話」
「えっと。……最初に変な手紙が届いた次の日からだから……」
十日くらい前かな。と、言おうとした口をぽかんとあけたまま慌てて手で押さえた。そういえばこの話も言っていない気がする。びくびくしながら顔を上げると、寿くんは驚くでもなく呆れたように溜息をついた。
「いい。その話は流川から聞いた」
「……ごめん」
連絡が取れなくて来てみれば私が倒れていたんだ、きっと物凄く心配させてしまった。てんやわんやだった、なんて言っていたけれど、私が起きたときも責めもせず冷静に見守ってくれて……。
なんてことをしてしまったのだと、今更思ったところで何か変わるわけでもなく。今はとにかく包み隠さず全てを話すしかない。私はスマホをケースから取り外して、中に入れていた写真を寿くんに手渡した。
「二通目の手紙……これが入ってたの」
「……こんな写真撮ったか?」
「撮ってない。たぶん、隠し撮りってやつだよね」
一通目、マンションの集合ポストに入っていたのは寿くんと樹里さんが抱き合ってる写真と別れろと書いた便箋だった。そしてニ通目は私の靴箱に入れられていた。中には前に付き合っていたときの寿くんと私が寄り添い歩いている写真が入っていた。つまりは私がまだ中学生の頃のものだ。
そして、これと一緒に入っていたのが「ずっと見ている」と書いてある便箋。その日の夕方から電話攻撃が始まり、手紙も日を開けず毎日投函されるようになった。マンションのポストや靴箱だけでなく、私の席に置かれていたり通学バッグに入っていたり、場所は様々だった。
二通目の写真を見たときにすぐに感じた。これは樹里さんではない、それどころか犯人はもっとずっと近くにいる。便箋に書かれた言葉通り、何処にいたって誰かに見られている気がして、次第に参っていってしまったのだ。
私の話に黙って耳を傾けていた寿くんは、思い立ったように自分のバッグに手を伸ばして中から取り出したものを私の前に出した。
「こっちは昨日流川たちが見つけた、部室のロッカーに挟んであったやつ。んで、こっちは俺が貰ったファンレター」
「……えっ?!」
何度も見た同じ形状の白い封筒がまたもや出てきたことよりも、寿くんが発した言葉に耳を疑った。
「てゆーか待って……。寿くんのところに犯人来たってこと?」
「犯人かどうか知らねえけど、俺のこと押したヤツは男っぽかったな」
「押した……?」
「手紙貰った帰りに誰かに背中押されたんだよ。つってもちょっと蹌踉めいただけだけどな」
ぞくりと冷えていく背中に汗が流れていく。ちらちら降る白い雪を照らした眩しいヘッドライト。私が車の前に押し出されたあの日の光景が、一瞬寿くんに差し替わって見えてしまったのだ。
押し出されてしまった背中を追いかけるように、大きく手を伸ばしてしまった私の体はぐらっと傾いてしまった。幻の中の寿くんを助けるどころか、気付けば彼に抱き留められていた。しっかりと私の体を支えてくれている腕の温かさに涙が込み上げてくる。
「ごめ……。ごめんなさい……!」
「……馬鹿。なんでお前が謝ってんだ」
もし、何か少しでも違っていたらどうなっていただろう。今私は、こうやって寿くんに抱き締めて貰えることさえ出来なかったかもしれないのだ。
何故、自分ばかりでなく寿くんに被害がいくことを考えられなかったのか。そもそも、もっとずっと前から話しておけばこんな風にならなかったのではなかいか。
後悔ばかりがうず巻くなか、寿くんのパーカーにしがみついて、私は小さな子供みたいにわんわん声をあげて泣いた。
・
「名前」
「……ん、」
散々泣いて腫れぼったくなってしまった瞼を撫でられて身を捩る。これからのことを考えなくちゃ、と思いながらも、未だにリアルから目を背けたくなってしまう自分がいる。
寿くんの胸元に頬寄せて目を閉じれば、髪の毛をふわふわ撫でてくれる手の温かさを感じる。よく考えれば会うのだって久しぶりだし、いつもだったらもっとイチャイチャしてくっついただろうに。そんな場合ではないのに無性に甘えたくなってしまう。
ずうっとこのまま、抱き締めていてくれたらいいのに。そんなことを思いながらそのまま目を閉じていると、またもや睡魔が襲ってくる。
微睡みはじめた私を呼び起こすかのように頬をむぎゅっと掴まれて目を開ければ、寿くんの顔とは違う別のものが飛び込んできた。
「お前、なんでご丁寧に自分のスマホケースん中入れてたんだよ」
寿くんの指の中でひらひらと揺れる写真は、スマホのケース内に収まるように小さくカットしてあった。……確かに、そこまでして何故他人がこっそり撮ったようなものを残しておいたのだろう、と自分でも不思議に思っていた。
けれど、理屈ではないのだ。寿くんの指から引っこ抜いた写真を優しく撫でて再びケースの中へと戻した。
「……捨てられなかった。このときの寿くんも、ずっとずっと……好きなんだもん」
昇降口で封筒をこっそり開けて、これを目にしたときは正直気味が悪かった。撮ってすらいない写真が存在しているのだから。
けれどこの中にいる私達には何の罪もない。私はすごく幸せだった、すごく好きだった。写真の中からだって伝わってくるそんな私の表情。そして、仏頂面ながらも私を見る目が何となく優しい気がする寿くんの瞳。 何処かへ消し去ってしまいたい、そんな気持ちはすぐに無くなってしまった。
「お前さ……」
寿くんは小さく溜息を吐いて呆れた顔をした。気持ちが悪いと思われても仕方がないかもしれない。
「そういうの、反則だろ」
聞こえてきたのは予想に反した声の響きだった。くしゃくしゃと言うよりも、ぐりぐり思い切り頭を撫でられて、乱れた髪に手を伸ばしながら上を見上げると、ツンと突き出した唇が目に入る。
「まぁ……、俺はお前のそういうところも、ずっと好きだけどな」
拗ねるみたいに突き出た唇で、モゴモゴとそう言った寿くんの頬はほんのり赤くなっている。ふにふにと私の唇をつついていた指に変わり、突き出していた寿くんの唇が私を啄んでいった。
「寿くんこそ……反則だよ」
この人はたまにこうやって物凄く可愛い姿を見せてくるんだから本当にずるい。
再び落ちてきた唇に瞳を閉じた。長い長いキスをして、温かい腕の中に包まれて。
寿くんがいるなら頑張れる。寿くんがいてくれるなら大丈夫。今度は大事なものを見失わないようにと、繋がる手をキツく握り返した。