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17.近づく影と手折れた花


 奇妙な手紙が届いた翌朝。マンションのエントランス前で待っていてくれたのは流川だった。

「言ったじゃねーか。あの女だって」 

 写真を一瞥した流川はそう言って便箋に目を通す。長い睫毛の上にある眉がピクリと僅かに皺を寄せる。流川はその眉を保ったまま、手紙を私へ差し出した。

「先輩は?」
「……」

 言葉足らずのその言い方でも何が言いたいのかはすぐに分かって口を噤むと、頬をムギュッと掴まれて反らした顔を元の位置へと戻された。

「何黙ってやがる、このどあほう」
「えと、言ったほうが……」

 ──言え。私が言い切るのを待たずして滑り込んできた言葉にバツが悪くなって、私は嫌になる程見た封筒の方へと視線を戻した。
 十二月の代々木体育館。熱気で満ちたあの場所で戦う寿くんの姿は今でも目に焼き付いている。一方で、修羅場と化した場所でもあって、それを引き起こしたきっかけでもある寿くんと樹里さんの抱擁も未だに頭の中から消えることはない。手元にあるこの写真みたいに、頭の片隅にしっかり写り込んで残ってしまっているから。

「……あの人なら。こんな回りくどい事しないで直接言いに来ると思ってた」
「だから違うって言いてーのか」
「そういうんじゃ、ないけど」

 たぶん最初から感じていた違和感の根源はこれだと思う。態々神奈川まで私に会いに来た樹里さんがこんな事するだろうか。あの人ならもっと分かりやすく白黒はっきりつける方法を選ぶのではないか。そんな風に彼女の事を言える程私は樹里さんの事を知らない、と言えばそれまでだけど。

「こんな事するほど、思い詰めちゃったのかな」

 便箋に書かれているのは学校に来たときも言われた「別れろ」という端的すぎる一言。それこそ樹里さんが犯人なのだと示している証拠なのだと言えるのかもしれない。だけど私は、そこまでしなくてはならないほど追い詰められてしまった彼女の心情をつい考えてしまったのだ。

「おめーは自分が何されたか分かってんのか」
「分かってるけど……」
「だったらさっさと先輩に言え。これ以上何かあったらマジでタダじゃおかねー」

 出来れば寿くんに心配をかけずにひっそりと丸く収めたい。そう思っていたけれど、流川の圧に負けて「分かった」と一旦納得して返事をしたその日の朝練後──事はまた違った方向へと動き始めた。





「名前、おはよう。足はどーよ」
「おはよう。ボチボチ良くなってきたかな」

 いつもの朝の様に思えた。学校に来てしまえば嫌なことは起きない、そんな安心感があったのだ。
 玄関口で会った友達と一緒になって靴箱の方へ入ると、彼女は上靴を出しながら首を傾げた。

「名前の靴箱、何か入ってるよ」

 彼女に言われて自分の靴箱を覗き見れば、上靴の上に紙切れの様なものが乗っていた。恐る恐るそれを引っ張り出せば、それは見覚えのある真っ白な封筒だった。

「ラブレターってやつ?」
「マジかよ、モテるなお前」
「この子昔っから地味に人気あんだよね」

 靴箱に入れられた手紙というシチュエーションに色めき立つのは仕方のないことなのかもしれない。私だってきっとそう思っていた。今までの一連の出来事がなければ、少しだけ頬を染めながらその封筒を開封していたかもしれない。
 けれど真っ白な封筒を持つ私の手は震えていた。昨日とは違って丁寧な筆跡で書かれた私の名前を確認して、糊付けされていない封筒をほんの少しだけ開いた。

「ねぇ、誰から?」
「何て書いてあったんだよ」

 いつの間にやら増えていた私を囲む友人達から手紙を隠して、「こういうものは他の人には見せれないよ」と鞄に仕舞い込んだ。

「名前は本当真面目だよね」

 冷やかす声や残念がる声は、次第に全く別の話をする声に変わっていき私の元を離れていった。そこから動けなくなってしまった私の手足は、封筒を開く前よりも大きく震えていた。
 誰にも気付かれなくて良かった。そんな小さな安堵を大きく覆い隠す恐怖と、激しく音を立てる心臓をひた隠しにして。





 意味分かんねー。ずっとそうだ。

 先輩が居なくなって、涙いっぱい溜めて泣くの我慢してる名前を初めて見たときから。

 先輩一人居ねーのがそんなに寂しいのか。何でいつまでもグズグズしてんのか。会いたいなら会いに行きゃいいじゃねーか。辛いくせに大丈夫ですって面しやがって。意味分かんねー。
 そういう俺自身は何でこんなに苛々してんのか。何で名前の事ばっか目で追ってんのか。苛つくなら見なきゃいい。分かってんのに気付けばアイツは視線の中にいる。泣いてる名前を何で抱き締めたのか。自分でも意味が分かんねー。
 先輩と別の女が抱き合ってんの見て逃げてんじゃねー。俺を見て泣きそうな面してんじゃねー。いつまでこんなに胸が焼けるように痛いのか。腹が立つ。
 だけど全部をどうでも良くなるくらいの力を持っていた。

 ──名前が笑った顔は。



「先輩に言ったか」

 妙な手紙の存在を知って数日経った。あれから何のアクションも無く、俺から見れば平穏で何もない日々。だが名前の様子にどうにも引っ掛かって、急かすような言葉を投げ掛けた。

「うん」

 冷たい水道の水でタオルを洗う赤い指が一瞬だけピタリと止まった。此方を振り向くこと無く返ってきた答えに嘘があることくらい俺でも分かる。
 結んでない髪の毛の間から見える肌はいつもに増して色白い。思わず手を伸ばして撫でたくなる程落ち窪んだ目元は睡眠が取れてないことを物語っている。本来ならば「嘘つくんじゃねえ」、そう責めるところだが、その言葉に耐えうる様な状態には見えなかった。何か一つ、バランスを崩せば折れてしまう、ギリギリの状態だった。


「先輩の連絡先教えて」

 練習がが終わった後、俺は一足早く部室に戻っていた奴に声を掛けた。

「……先輩って、どの?」
「三井先輩」
「あぁ、うん。ちょっと待って」

 深くは言わなくとも心得た様に書いたメモを差し出して、まだ誰も入って来ないドアを見ながら桑田は眉を顰めた。

「名字さん、この所ちょっと様子が気になるよね」

 名前の様子がおかしいのは、きっと誰の目から見ても明らかだ。もっと早く動けば良かった。先輩に連絡した所で何か変わるかも分かんねぇ。だけどこれしか方法が思い付かない。俺はあの女の事を何も知らねーから。
 元気がないと言っても前はもう少し余裕があった。名前を出来る限り一人にはしない。そうすれば守れるんじゃないか、尻尾を出すんじゃないか。簡単に考え過ぎていたのかもしれない。ここ数日で名前の様子は一変してしまった。

「はえーな、おめーら」
「桜木くんお疲れ。名字さんは?」
「名前さんなら一年と片付けしてるぞ」

 一人部室に入ってきた桜木はロッカーから出したタオルで汗を拭うと、眉間に皺を寄せて俺を見た。

「つーかよ、キツネ! 名前さん学校休んだ方が良いんじゃねーか?」
「おめーに言われるまでもなく分かってる」
「あ? なら何で!」
「家に居たくないって譲らないんだよ」

 食ってかかってきた桜木の前に桑田が入ると、ヤツは納得いかなそうな面をして壁際にある椅子にドカリと座った。休めなんて台詞は言い飽きる程口に出しているが名前は頑として聞かなかった。出来るのならベッドにでも縛り付けて休ませたいくらいだがそういうわけにもいかない。桜木も名前が言い出したら聞かない事を分かってか、それ以上言うことはなかった。

「名前さんが元気ねーとチョーシ出ねぇな」
「……そうだな」

 口を尖らせた桜木がポツリと言った言葉に殆ど無意識に返事をすると、息を合わせた様に二人同時に目を見開いて不思議そうな顔で俺を見た。

「……何見てやがる」
「いや、おめーがそんな返事するとは思わず」
「だ、だよね……」
「熱でもあんのか?」
「ヤメロ」

 おでこの方へ伸びてきた気持ち悪い手を振り払うと、何故か頬を赤らめている桑田と目が合った。「流川くんも名字さんのこと心配してるんだよね」と、何のフォローなのか分かんねぇ言葉に更に居心地が悪くなった。
 二人からフイ、と視線を逸らすと使われてないロッカーが目に入る。別に特段違和感のない光景の筈なのに、いつもと違う。それをマジマジと見つめている俺に疑問を感じたのか、後ろにいた二人もその視線の先を追った。

「ぬ?」
「あれ、それいつからあったんだろ」

 ロッカーの隙間から飛び出ている紙切れ。使われてない筈なのに、誰かここを開けたのか。

「ここ鍵かかってんのか?」
「さぁ、どうかな。前に三井先輩が使ってやつだね」

 何者かに仕組まれた様な気がしてならず、扉に手をかけるとロッカーはいとも簡単に開いた。そこからヒラヒラと落ちてきたのは見覚えのある白い封筒だった。前に名前が持ってきた奇妙な文字ではなく、丁寧に書かれた「名字名前様」という宛名が見える。

「! おい! 勝手に開けていいのか?!」

 桜木の大きな声は聞こえていたが俺は躊躇なく糊付けされていない封筒を開いた。

「……おい、これって、」
「名字さん、だよね?」

 中に入っていたのは写真。十数枚ある全てが名前が写ったものだった。今と違う制服と少し幼い顔で中学の頃のもだと分かる。卒アルから抜き取ったみたいに、入学から卒業までの名前が順番に並んで入っていた。
 皆其々それの異様さを認識したのか、部室の中はシンと静まり返っていた。先輩に抱き着いていた女の事は頭から消え失せていて、全く別の影が浮かび上がってくる気配がした。

「キャプテン! 名前先輩が……!」

 ──倒れました!

 沈黙の中に突如割り込んできた言葉に目眩を覚えそうになる。いつからか全く見れなくなった名前の笑顔が浮かんで一瞬のうちに闇に消えていった。

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