大野が椅子ごと離れたことを確認すると大野に背を向けて、できるだけ聞こえないように電話に出た。
「はい、もしもし」
『ごめん、今大丈夫? 仕事中だった?』
「うん、休憩してたから平気。どうしたの?」
『言い忘れたことあって。メールでも良かったんだけど、どうせなら声聞きたいと思って』
うっ、嬉しい。でもダメ、ニヤニヤした顔をちょっとでも大野に見られたら、また奴の思う壷だ。
そう思って必死に、にやけそうになる頬を見えないように覆った。
「そっ、それで、用件とは」
う、可愛くない。なんかもっと良い言い方があったはずだろうに、アタシってば。
『うん。今度、いつもどおりの服装で来て欲しいんだ』
「え……もしかしてこの間の格好、嫌だった!?」
ひっ、引かれた頑張りすぎた!? やっぱおかしかった!?
『全然! 嫌じゃない、可愛かったよ、すごく!』
「よ、良かった。てっきり不評だったのかと」
『違うんだ、そういうことじゃなくて……いつもどおりでいて欲しいから』
「いつもどおり?」
『そう。服装も、話も、行動も、ジョニーのいつもどおりでいて欲しい。変に気を使ったりしなくていいんだ。じゃないと俺達、きっとお互いをもっと知れないと思ったんだ』
「……」
確かにね、カッコつけたり可愛こぶったり、遠慮だってしたりしてた。基くんが好きで、嫌われたくないから。
素のアタシの何割を受け止めてもらえるんだろうなんて考えたこともあったけど、自分がダメなところ多すぎて諦めた。
でも、今なら多分、アタシは基くんの前で素でいられる気がするよ。
基くんがアタシを知ろうとしてくれてるのが分かるから。多分受け入れてもらえるんじゃないかって思う。
アタシだって、もっと基くんの素を知りたい。
「うん。そうかもしれないね。分かった」
その日はお気に入りのTシャツとジーンズで行こう。きっとそれがアタシのいつもどおり。
「あ、そういえば当日はどこに行くの?」
『うーん、そうだなぁ……。でも言ったら来てくれないかもしれないし』
「え、なに、そう言われたら余計怖いじゃん」
『俺だって怖いけど、一緒に行きたいんだ』
アタシも怖くて基くんも怖いって……まさか実家? いや、まさか。
『大丈夫、きっとどうってことないよ』
「何かあるの?」
『当日のお楽しみかな』
「えー、本当に楽しみなことなの?」
『きっとね。そうだと思ってくれたら俺は嬉しい。それじゃあ、遅くにごめんね』
おやすみと言って、声を聞いて電話を切ると、なんだか安心したような温かさがあった。基くんの声を聞いたからかな。
どこに行くのかとか怖いことってなんだろうとか、次会う時の不安はあるけど、なんだか嬉しかった。
不思議な温かさに浸っていると、間もなく後ろから勢い良く椅子を滑らせてくる音。
「終わった?」
クソッ、なんでまだいるんだコイツは。一気に現実に引き戻される。
「彼氏の前だと、ああなんのね」
「黙れ」
見てたのか……。コイツの言う“ああ”とはどんなのか知らないが何を言われるのも嫌だ。
アタシは再びパソコンに向かった。
「いや、別に普通だって。まぁ、お前も女だったんだなぁとは思うけど」
「うっさい」
「でももっとトークに可愛いげ出したら? 二番目じゃなくなるかもよ?」
「はぁ……アンタといると凄い疲れる」
数年前、大野とは入社式でたまたま隣同士だった。
配属も隣の部署で最初は何度かお昼を一緒にしてたけど、こんなに嫌みでしつこくて人を馬鹿にするような奴だとはね。同じ部署になってから初めて分かったことだった。
よく周りには「良いライバル」なんて言われるけど、本当に勘弁して欲しいかぎりで。
私にとって大野は嫌な奴以外の何物でもない。
ふと、大野が缶コーヒーを指で弾いた。その音は中身がないせいか、高く小さく響く。
「……アンタ飲み終わったんでしょ、いつまでいんの」
大野はわざとらしく大きくため息をつくと、しかめっ面で腕を組んだ。
「お前本当にひどいね。一ミリ良いと思ってもすぐに一メートルくらい冷たいもんね」
何言ってんだ、コイツは。
「良くした覚えもないけど」
そう言ってアタシもため息をついた。
「……そうだなー。まぁ、そうやっていつも通りならいいんだけど」
「なに?」
「最近お前おかしいからさ。なんつーか、余裕ないの? みたいな」
おかしい、とコイツに言われるほどおかしくなった気はしない。それに、スケジュールも予定通りに進んでる。
「別に仕事は余裕持ってできてると思うけど」
「そうじゃなくてー、雰囲気? 痛いよ。お前に寄ると痛い」
「なにそれ」
「どーでもいいけど、仕事にプライベートの空気そのまま持ってくんなよ。きっちり仕事する気あるんなら、その目とか傷とか、どうにかしとけ。周りに気ィ使わせんな」
……悔しい。ムカつく。
だけど大野の言うことは大体当たってて、この傷を見る人は気にして声をかけてくれる。それか気を使って何も聞かない。
確かに気を使われているのも、使わせてしまっているのも分かっていた。
今回の目の腫れはパソコンのやりすぎだけど、泣きまくって腫れた目は化粧で隠しきれるわけもなく。みんなが何も言わないのも分かっていたんだ。
「……」
一番言われたくない奴に図星を突かれて、ぐうの音もでないとはこのことだ。
「浮ついてるお前なんか、マジで失敗すればいいよ。入社以来俺のライバルなんだから、お前がそんなレベルだと俺までそういう風に見られる」
「あ、自分の為」
「そうだよ。仕事で大怪我していなくなるとか、無様な消え方すんなよ。両手上げて笑って、ざまあwwwって喜んでやるけど」
「じゃあアタシも言ってやるわ。この企画成功して悔しがるアンタを見下して、ざまあwwwwって。っていうかライバルでもないんですけど」
「俺は思ってるよ。ガツガツ来る同期なんてお前くらいしかいないから。同じ部署になって余計に思うよ、マジで蹴落としてやるって」
「逆に蹴落とされるんだから命綱しといたら?」
「言うねぇ。まぁ、その調子で頑張ったら?」
大野は立ち上がり、またニヤリとアタシの嫌いな笑みを放った。
あぁヤダ。何がやだって励まされたみたいな叱咤されたみたいな感覚、まさか大野に言われるとは思ってなかったから。
アタシはただパソコンから視線さえも移さず舌打ちで答えると、大野はハハッと楽しそうに笑った。
「じゃあ帰るわ。お疲れ」
「お疲れ」
大野は空になった缶を私の分まで持って行くと、数メートル先のごみ箱に放り投げた。大きく弧を描き、それらは音を立てて中に入る。
大野が小さくガッツポーズした背中を、私は見ていた。