「ヒマだったら本棚にあったはずだから見ていいよ」
「なに?」
「卒業アルバム。昨日は見せられなかったから」
「うん」
「具合悪かったら寝てていいから。行ってきまーす」
「行ってらっしゃい。頑張ってね」
「うん」
結局、昨日アタシは困った基くんに何を話すでもなく、彼は何も言わないままアタシを抱き締めてくれた。
不安だらけのアタシは頭の中がぐちゃぐちゃになり、いつの間にか泣き疲れて眠ってしまったようだ。
普通の男なら、突然泣いたりして「わけわかんねー」と言うだろう。それでも基くんは今朝も同じように笑ってくれた。本当にいい人だと思う。
「……最低」
見送った後に見た洗面所の鏡の中には、見れたもんじゃない女がこちらを見ていた。
まぶたは腫れ目は充血し、髪はボサボサでメイクも何がなんだか……。丸一日以上着ていたYシャツとパンツはシワだらけでみっともない。
好きな人を見送れた素敵な朝なのに、なんだか心は昨日から晴れない。
「あーあ、やだやだ」
二日酔いも治ったというのに。きっと一人で音のない世界にいるからだ。窓を開き携帯のミュージックプレーヤー開くと、大好きな洋楽を流した。
基くんの勉強机に置いて、ほんの少しだけ音量を上げる。
天気は晴れて今日は湿っぽさもなく、暑いくらいだ。一瞬の渇いた風が髪を揺らすと、なんだか気が引き締まった。梅雨が終わり、夏が来たのだろうか。
基くんが帰ってくるまでの間、せめて何か役に立とうと家の中を歩き回る。が、綺麗だ。
元々荷物が少ないこともあるだろうが、男の一人暮らしと思えないほど部屋は片付き掃除もされ、洗濯物も見当たらなければ洗い物はさっき食べた朝食の分だけ。
三分で終わってしまいそうな仕事に、そして完璧な彼にがっかりしてしまう。
なぜかって? アタシの方が基くんよりずぼらだからだ。自分の部屋を思い返すとひどく落ち込む。
とにかく落ち込んでいてもしょうがないので洗い物を片付けることにした。部屋の向こうから聞こえてくる陽気な曲に気を紛らわしながら、見慣れない食器を洗っていく。
今の今まで結婚とか興味なかったし、結婚したいと思う人もいなかった。だけど、内緒だけど基くんは別だった。初めてこの人の子供が欲しいと、この人となら家庭を持ちたいと思えたんだ。
まぁいつか、結婚とか、そんな風に彼も思ってくれたらとても嬉しい。まだ仕事を辞めたくはないから、口にはしないけど。
案の定洗い物はすぐに終わってしまい、アタシは洗面所に行ってメイクを落とすことにした。
編集部で泊まり込むこともあるアタシのバッグには、普通は持ち歩かないだろう洗顔料から乳液まで入っている。邪魔だし重いとは思うけど、こういう状況では役立つものだ。
部屋に戻って窓際であぐらをかくと、爽やかな風が吹いた。
すっぴんをさらし、やっと気が抜けた感じだ。そのまま寝転んで天井を見つめる。
今日は久々のデートなんだ。嬉しい。どこに行こうかとても悩む。
デート用のメイクをして、髪も整えて、お気に入りの服を着て、行きたいのに!!
行きたいのに、アタシの馬鹿!
泥酔せずに、そのまま家に帰れていたなら。いや、あれがあるから今日のデートがあると言われればそうかもしれないが……。それでも自分の愚かさを呪うしかなかった。
メイクと髪はいいとしよう。でも服が……服がシワシワのスーツって! どこに出掛けられるというのか。
一度家に帰るといっても、シャワーを浴びる時間も服を選ぶ時間もなさそうだ。
いっそ近くの友達に連絡を取って服を借りるのが手っ取り早いだろう。趣味が違うから、借りようか借りるまいか即決はできないが。
「どうしよう!」
畳の上でドタンバタンと転げ回る。ふと、転げ回った先の本棚に一冊の卒業アルバムを見つけた。高校時代のものらしい。
「これが言ってたやつか」
アタシは何の気なく本を取り出しページを開いた。校歌や先生のページをめくってめくって、あるクラスに基くんを見付ける。
「わぁー、基くんだ。高校生だー」
全然変わらない、でも今より幼い感じの基くん。どんな高校時代を過ごしたんだろう。楽しかったらいい。
「さすがに都会は可愛い子がいっぱいいるなぁ。あ、この子めっちゃくちゃ可愛いな。ちくしょう、天使か」
同じページの隅っこに、とても可愛い笑顔でふわふわの栗毛の、言葉通りのお姫様がいた。まるで絵本から出てきたような子だ。
見とれていると、その顔の下に「川端姫子」の文字があることに気付いた。
他のクラスのページをもう一度見回しても同級生で「姫子」という名前は彼女一人で、基くんの元カノが彼女であることは明白だった。
「……どーりで。可愛いはずですよ」
それはもう、アタシなんかが勝てるわけもなく。「守りたくなるようなバイオリンが弾ける姫子ちゃん」だということは見た目だけでも分かるような気がした。
基くんはこの子を好きになって、この子も基くんを好きになって。付き合いはアタシと付き合う数ヶ月前まで続いていた。
悔しかった。とても。アタシは比べることすらおこがましいと思える程度のルックスで、男勝りで酒好きで。それでも好きだと告白してくれた基くんさえ、彼女を忘れられずにいるなんて。
本当に自慢だっただろう。これだけ可愛い彼女ならなおさらだ。
悔しくて、涙が出た。
勝てるわけがないかもしれない。それでももし、アタシが基くんと同じ時間に同じ学校に通っていたなら、アタシは友達として近くにいたかもしれない。少し……あるいは、そこから一歩踏み出して……。