記憶はもう、あやふやだった。
大羽と話して、あの後も飲んで飲んで悔しくてまた飲んで、それでも酔えなくて……どうしたっけ。
あぁ、そうだ。良いページ作って大野を蹴落とし出世してやろうと思って、編集部に戻って来たんだ。
帰ったと思っていた松本編集長がデスクに戻ってきたかと思いきや、黙ってパソコンのキーボードを叩いていた。その音が、やけに頭に響く。
「……違う」
パソコンを前に突っ伏しながら、次の企画を付箋に殴り書きをしては片っ端から捨てていった。
駄目だ、こんなんじゃ。自分自身が満足する記事なんて、これじゃあ書けやしない。
アタシがやりたいこと、読者が知りたいこと、一番になれる記事って何だ。
数年前から漫画やドラマや映画の影響で、若い子のレスキューへの関心が高まっている。
しかしアタシが感じたその関心は、仕事への関心ではなく働く人間へ向けられたものだ。
「仕事の魅力と働く人間の魅力……かぁ」
重くなるまぶたをこじ開けてキーボードを叩く。頭が痛い。眠いしだるい。ああ、明日休みで良かった。
でも今日の内にここへ戻って正解だ。きっと明後日に出社したときには、この熱は冷めていただろうから。
何時間経ったか分からないが、企画書が出来上がった頃にはほとんどの人間が編集部から姿を消していた。いつの間にかブラインドは下がり、外の明かりも隙間からは見えない。
回転椅子を一回転し、腕の先から足先まで全身を伸ばすと、プリンターから出てきた紙をまとめて立ち上がった。
「編集長。新しい企画書を作りました。読んで下さい」
「ん」
ああ、なんか一番とか出世とかどうでも良くなってきた。企画書を書いている内に、素直に知ったり取材をしたいと思った。
自分の命を懸けながら他人の命を救おうとするレスキューマン。今や追っかけがいたりする彼らは、一体どんな気持ちでどんな信念を持って働いているんだろう。
仕事にはどんな魅力があって、どんな魅力的な人達が働いているのか。漫画やドラマでは知れないことを、アタシは伝えたい。
きっとたくさんの魅力が溢れ出てくるんだろうな。やりたい、この企画。きっとアタシだから書ける記事になると思う。
明日の企画会議で取り上げられるくらいのチャンスは欲しい。
「夕方上がりだったのに戻ってきたと思ったら、こんなの書いてたのか」
こんなの、と言われてドキッとする。そんな風に言われたら望みは薄いと感じてしまう。
「……波乗り。お前、今朝二ノ宮班長に怒鳴られてただろ、資料不備の原稿で」
編集長は目線をそのままに、言葉だけをこちらに投げ掛けた。
いつもは無口な編集長がそのことを口にするなんて、よっぽどアタシの評価が下がってしまったのだろう。恐る恐る頷く。
「あいつァ、二ノ宮はよ、悪い男ではないが自信過剰なんだよ。自分が見たものが全てで、自分の世界のものしか信用しない」
「……」
「その点お前は、自信が無さすぎる。そこに漬け込まれて言いたい放題言われてる。見た目は冷徹そうなのにな」
「はぁ」
「二ノ宮はまァ、半分正解なんだよ」
「え?」
「ものを作る人間にはなァ、自信がないと駄目なんだ。なぜだか分かるか」
「納得いくものが作れないから、ですか?」
「いいや。自分に自信がなけりゃあ、他人にものを勧められないからだ。だからあいつは半分正解。でも正直、これから足りないものを補ってここを引っ張ってくのはお前だと、俺は思ってるよ」
まさか、編集長がアタシをそんな風に見てくれていたなんて思ってもみなかった。
言葉にならない。というか、驚きと嬉しさで頭が真っ白だ。
「大野はずる賢くてひねくれてやがる。俺から灸据えておくから、お前はとりあえずこの企画、一人でやってみな」
「え? あの……企画会議に、通さなくて良いんですか?」
「とりあえず誰にも文句は言わせねぇよ。俺は編集長だからな」
「あ、ありがとうございます!!」
深々と頭を下げると、涙が落ちそうになった。
報われない苦労なんてない。自分が誠実であれば、きっと誰かが見てくれているのだ。
「ただし連載でな」
「れ、連載!?」
「あぁ。まず六ヶ月間、毎月一人ピックアップしてインタビューでもレポでも何でも良い。三ページ記事を書け。八月号は連載開始ってことで五ページやるから。ただし取材許可から撮影、レイアウトも、何から何まで全部一人でやれ。入稿するまで全部がお前の仕事だ」
「は……はい、全部」
「全部、一人でだ」
トントン拍子に進む話に、だんだん夢なのではと思ってしまう。
「出世のチャンスだと思って必死になれ。結果次第では大野に任せることもあり得るからな。次の出勤日の午前中までに、スケジュールを提出すること。すぐに動いてもらうからな」
「はいッ!」
「お前の抜けた穴は別の班から一人補充する。引き継ぐことも特にねぇだろうから、安心して取材に行ってこい」
「はい、解りました」
「あと、酒は飲みすぎるなよ。ろくなことねぇからな。ここに来る前どんだけ飲んだかは知らねぇけど、酒臭い女は嫌われるぜ」
胸にナイフが刺さった気分だ。この痛みは決して夢じゃない。
「き……気を付けます。それじゃあ、そろそろ帰ります」
「お疲れ」
お酒が入っていたこともあるだろう。アタシは編集長が言ったことの意味の深さを、あまり理解していなかった。ただ、認められたのだと嬉しくて舞い上がっていた。