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[6]Misattribution of arousal
by あさの
2012/05/05 03:25
あっと思った時はもう遅かった。


ばっしゃーん、とものすごい音がしてガボガボと沈んでいく。
でも肺に残っていた空気を温存してもがくのをやめていたらしだいに体は浮き上がった。水面だ。ブルッと髪を振って水気を切り、顔をぬぐう。そのまま立ち泳ぎする。
遥か上に星を溜めた穴が見えた。僕は井戸に落ちてしまった。

落とし穴とかはよく落ちるけど井戸っていうのは初めてだな、とぼんやり思った。
井戸に水をくみに来たときは僕はちょうど生薬を煎じていて―――なんか、何にも無いのに、落っこちてしまった。井戸をのぞきこんだまま、その姿勢で前へぐらりと。ぼんやりしてたんだろうか。あんまり身体のバランスがよくないのかもしれない。わかりきったことだ、高所歩行の授業とかいつも命綱だもの。よく転ぶし。

しかし、落ちるかなあ、井戸に、と僕は頭をかきたくなった。
これからおちおち井戸も覗き込めなくなるわけか? なんだかなあ。
こう、不運とかとは別に普通の日常生活遅れるくらいには身体能力が欲しいんだけども。出過ぎた願いなんだろうか。

立ち泳ぎを続けながら、誰か通らないかなあと待っていた。
壁を登ろうかと懐をまさぐってみたが、苦無は落ちたひょうしに井戸の底へ沈んだらしい。
留三郎が、お前はしょっちゅう穴に落ちるんだからとりあえず苦無は持っとけと拝むように言ったのを覚えている。
ごめんよ留三郎、お前の忠告、忘れたわけじゃないんだけど肝心な時に役に立たなかったよ。トイレットペーパーで壁を登る訓練でもした方がいいのかもしれない。


でもよく考えてみたらそもそも僕は自力で穴から出たことがない。
何故か穴に落ちた時に限って必ず苦無を持っていないのだ。
いっつも通りがかりの人に助けてもらっている。

ということは。僕は思った。
今こうやって深夜夜遅くに・保健室側の・井戸に落っこってるのってよく考えたら結構やばいんじゃないだろうか。
いや、だろうかじゃない。やばい。本気で誰も通りかからない可能性がある。
夜明けまで二時。起床までさらに一時。それまでの間ずっと井戸で立ち泳ぎしとかなきゃいけないのかもしれない。僕は遭難者か。うわ、やばいなあ。

他人事みたいな調子でそう呟いてから、そんな風に言ったらまた文次郎が怒るかなと思った。
何がやばいなあだバカタレ、お前は自分の状況がわかってんのかバカタレ、俺たちが来なかったら一体どうなってたと思ってんだバカタレ、あのしつこいお説教を聞くかと思えば文次郎には助けられなくてもいいかなって気になってくる。
まあ僕が自分の不注意に関して寛容(?)なのを、よく思う人なんてそうはいないのだけど。気にしないのなんてあいつくらいなもんだ。

最悪あと三時はこのままでいないといけないという計算が出たとたん、僕はあっさり立ち泳ぎをやめた。
膝を折って井戸のなかで仰向けに浮かぶ。あ、何かいい感じだ。膝がしんどいからずっとは無理だろうけど時間稼ぎにはなるかもしれない。
暗い筒のなかで丸く切り取られた星空と向かい合っているとどっちが上でどっちが下かわかんなくなる。宇宙船ってこんな感じかもしれない。

昔ソ連に捕虜の五感をふさいでプールに浮かべる拷問があったなあ、と耳に水が入ってくるのを感じながらぼんやり考えた。日本もずっと井戸に浮かべとく拷問とか、導入すればいいのに。卒業したら特許でも取ろっかなあ。
そんなどうでもいいことを考えていた矢先だった。

ふと気づいた、腕が熱い。
バシャッと水音を立てて起き上がると肘の辺りがジンとしびれた。
浮いたり沈んだりしながら濡れた衣をまくりあげると、肘に擦ったような外傷ができている。
井戸へ落ちた時にできたものだろうか?
しかしこの、変にちくちくするような感覚は普通の怪我とは違う。何だ。何か嫌な予感がする。

不安が解決しないまま懐へ手をやって、僕はアッと気がついた。竹筒を引っ張り出して、やっぱりと思った。
もみくちゃにしたせいで栓が抜けている。
中身は……固形化実験にまわすつもりだった試作段階の痺れ薬だ。

僕は慌て井戸の水をかき混ぜた。少しでも周りの水で薬が希釈されるように。
傷はどのくらいの濃度の薬にさらされたのだろう? 薬は服薬用であって点滴用じゃない。直接血管に入って長時間ほっとけば、最悪傷口が壊死してくることだってありえる。

僕は壁の岩に爪を立てた。登れるだろうか、この高さを?素手で?
力を込めると患部がジンジンと熱くなる。……力が入らない。無理だ。頭がだんだんとパニックになってくる。

とりあえず患部を水に曝さないようにしなくては。僕は回らない頭で水から腕を引き上げた。
いや待てよ、こうすると心臓の方が下になるな。駄目だ。でも水につけるわけにもいかないし。
こういう場合、どうするんだ?下げる?上げる?どっちだ?わからない。畜生わからないよ!!



「さあユリコ、もう長屋に戻ろうか。」


ふいに頭上から声がした。
僕は井戸口を見上げた。
ゴトゴト、ザクザクと何かを運ぶ足音がする。確かにする。

「ちょっと!!」
僕は叫んだ。叫びながら壁をバンバン叩いた。必死である。

「待って!ちょっと!」
「………」
相手は沈黙している。
「聞こえる?!わかる?!こっ、こっちだよ!!」
「……ユリコお前、やっと喋れるように」
「そっちじゃない!!!」
僕はかすれてきた声で必死に突っ込みを入れた。


田村は喋ってるのが石火矢でないことを確認するのに5分くらい費やし、そのあとやっと面倒臭そうに井戸をのぞきこんだ。
その頃には僕はもう頭が朦朧としていて、しびれがきつくなってきた腕を気づかう気力もなかった。
何故か石火矢にも発言権のある奇妙な会話にいらいらしながら―――限界近い頭で絞り出した言葉がなぜ―――「もういい、はちやを呼んで。」だったんだろう。



鉢屋は寝間着が濡れるのもいとわずにザブンと井戸に入ってきた。僕はこの辺りから本気で眠かった。しっかり肉がついた腕が腰にまわってきて目をあけると、鉢屋の化粧をしていない黒いまつげがすぐそこにあった。

「片手しか使えないんだから、つかまっててくださいよ」
声が反響する。ぼんやり聞き流していると鉢屋はこっちを向いて顔をしかめ、「置いてきますよ」といい募った。
僕はというと、鉢屋の黒いまつげから何故か目がはなせなくって、阿呆のように鉢屋の言葉を聞き流していた。
すると鉢屋は苛立ったように僕の手を取ると、自分の首へまわした。頬に押し当てられた耳も本物だった。

力強く縄を掴んで鉢屋は僕を上へと運びあげた。
井戸から這い出すなりたおれこむと乾いた土に水溜まりが広がった。
起き上がれないままにもつれあった身体を離そうともがくけど、濡れた服同士がきしんでうまくいかない。鉢屋が僕の腕を取ってからまりあった袖を引き離した。

「先輩、ここ?」

鉢屋はまだ血の乾かない腕の傷を見た。そうだ、忘れてた。
必死で事情を説明しようとするが、目の前はかすむし舌がもつれて切れ切れにしか言葉が音にならない。

何とか「傷から毒が入った」的なことを伝えると、鉢屋は迅速に手拭いで僕の腕を縛り、傷に歯を立てて血を薬を吸い出した。
僕は地面に寝かされたままぼーっとした頭でそれを見ていた。
今気づいたけど夜の鉢屋はかつらを着けていなくって、水滴が滴る長くて細い黒髪がぺたりと頭にはりついている。上半身は鍛えられてるのに髪はいいとこの女みたいだ。

――やらしい。

水を滴らせながら薬を吸い出す鉢屋に、不覚にも胸がきゅんとした。
くそ、何だこいつ。やらしいぞ。というか、何というか、これは……。

傷口を犬歯で軽くしごかれ、首筋を理解しがたいものが駆け抜けていった。
唇がわなわなと震え、指と舌が痺れてくる。
処置が終わった腕がジンジンと熱い。
鉢屋はというと、黒髪を右耳の横へ回してグッと水気を切ると、両手でザッとひたいの後ろへ流して塗れた顔を一枚はぎ捨てた。

自分の髪みたいだよなー、と僕は当たり前のことを思った。
慣れた様子で塗れた黒髪をまとめる鉢屋は、日頃不破の鬘をかぶっている時間の方が絶対的に長いはずなのに、まるで普段からその髪ですごしているかのように無造作に振る舞っている。
軽く頭を振って髪をなでつける仕草にどきどきした。

鉢屋は痙攣している僕の指先を目にとめると、髪をほっぽりだして脈を取ろうとした。
でもいかんせん手が震えているので、鉢屋は苦戦したあげく覆い被さるようにして僕の頸動脈へ指先をあてた。
大きな手のひらで首をおおわれると、囚われた獲物のように感じる。
僕は、普段なら絶対に鉢屋に対して感じないであろう種類の感情を発見しつつある自分を呪った。

鉢屋は脈を取り終えると、両手を頬に添えて赤目をまくった。
さっきから異な体制になっていることにこいつは気付いていない。
舌を出させようと震える唇に親指をあてられたとき、我慢できなくなって情事の最中のようなため息がもれた。
薄目を開けると鳩が豆鉄砲食らったような顔で鉢屋がぽかんとしていた。
そんな鉢屋の黒髪が一房、耳から垂れて僕の頬をぺちんと叩く。
体がまた勝手にビクッと反応した。

「あんた、またロクでもない薬作ってたでしょう」
鉢屋はあきれたようにため息をついた。
「どこで誰と居合わせるかわからないんですから、不用意にそういうもの持ち歩かないでっていつも言ってるじゃないですか」

違うよ、そういうややこしい話じゃないんだ。
でも僕にも何がどうなっているのかよくわからない。
抱き起こされながら、僕は勝手に鉢屋の鎖骨くぼみに頬をすりつけた。
黒髪に鼻をうずめ、耳朶に吸い付く。
勝手に体がその気になってくる。
歯を立てると、「あいたた」と鉢屋が声を上げた。
僕はたまらなくなって、しばらく夢中で鉢屋の耳をかじり続けた。



明日になったら全てなかったことにしよう。僕はそう腹に決めた。
僕がこの手のときめきを自覚してしまうと、この関係に何かと差し障りが出る。
ああでも、そしたらさっき「もっと好きってして!」とか何とか口走って今無茶苦茶に感じているのをどうやって撤回したらいいんだ。
何て言い訳しても鉢屋の白い目が向けられるさまが容易に目に浮かぶ。

あれだけ怖い目にあったんだもの、死ぬかもしれなかったっていうドキドキと恋のときめきを取り違えたって仕方がないじゃないか。

・・・・・・ちょっと無理があるな、やっぱり。

鉢屋の褪めた目を思い出しながら、僕は一生懸命説得力がありそうな論理構成に頭をしぼった。





Misattribution of arousal 【吊り橋効果】




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