※拍手シリーズ喫茶店ヒロイン





「今年は海、行かなかったな」

珍しくおれが日暮れ時に店に行った時だった。夏らしい爽やかなメロディーの洋楽が店内に流れていた。カウンターを挟んで目の前に座るおれと、2つ隣の椅子に座って同じようにサッチとカウンター越しに話しているマルコ以外の客はおらず、リラックスした口調で漏れた呟きだった。

「海ならそこにあるじゃねぇか」

中世の海賊船の船内を模したこの店の丸窓からはいつも通りに海が見えている。綺麗という程でもないが夕陽が映える程度には大きな海面。そちらを視線で指すと、洗ったカップを拭いていた手を止めて苦笑された。

「そうじゃなくって、海水浴とか遊びに行くような海にって事」

確かに港町ではあるが、海水浴場は少し遠い。夏ももう終わりつつある中、人に気を使うくせに普段あまり自分の希望は言わない奴だ。その彼女が不意に零した言葉は妙に耳に残る音で届いた。別に言外に連れて行けと言っている風には思わなかったけれど、きっと今年は最初で最後に休日を海で過ごすこいつの隣にいる図を思い浮かべたおれの下心を誤魔化すには丁度よかった。

「じゃあ、行くか、海」

再びカップを拭き始めていた彼女が、きょとんとして顔を上げた。この店の定休日は毎週木曜日。来週の木曜なら大学も何とかなる。返事を待たずに、頭の中でその段取りを考えていると、小さな照れ笑いが聞こえた。

「本当はそう言ってくれないかなってちょっと思ってた、って言ったら嫌な女?」

恥ずかしそうにおどけて白状する彼女が嫌な女に見えるわけがなかった。それに加えて、そんな事を言う相手がおれというのに期待を持っていいのか、と頭を過ったせいで返事に詰まった。今、思えばそこでさっさと返事をしていれば、海へ向かう車内がこんな事になる事はなかったというのに。

「海か、いいな。おれも何年も行ってねぇなァ」
「行く相手もいねぇだろい」
「あ、じゃあ、マスターとマルコさんも一緒に行きましょうよ!」

ね、エース!ときらきらした笑顔で振り返られてノーと言えるはずもなく。しっかりこちらの会話を聞いてやがったオッサン共を睨むしかなかった。かくして、本日、木曜日。打ち砕かれたおれの淡い期待を知るよしもない彼女とおれを後部座席に、サッチを助手席に、マルコが運転する車で海へと向かう事になった。だが、終始笑顔で話し続けるこいつがいるのだから、それが全てだ。



贅沢な休日を膨らませる



夏の盛りはとっくに過ぎているが、到着した海には名残を惜しむように泳ぐ人々が意外といる。まだまだ絶妙にエロいビキニも健在だ。濡れた髪を掻き上げるのもたまらない。鉄板はズレた水着を指先でくいっと直す仕草。あれはいい。

「…マスター、今、スケベな事考えてません?」
「バレた?」

隣を向いた瞬間に顔に海水が飛んできた。海水というのは目に入ると結構染みる。知ってるのか知らないのか、かけてきた本人はエロオヤジーなんて言って笑ってる。悪戯っぽい笑顔に、濡れた髪、薄いピンクを基調にしたビキニとパレオの水着。エロさには欠けるが、溌剌とした明るさでよく似合う。着いてからはしゃぎっぱなしだというのに、こいつは未だににこにこしたまま。エースと話す時のようなお姉さんっぽさも、マルコの話を聞いている時のような少し背伸びをしている感じもない。バシャバシャと音を立てて足元の波を楽しんでいるのは、丸っきり子供の表情だ。

「マスター、マスター」
「ん?どうし、た…っ!?」

呼ばれた方を向いた瞬間にガクンと肩が揺れた。何事かと考える暇も無く、気付いた時には尻もちをつく格好で海の中に座り込んでいた。遠浅の海で砂浜からそう離れていない所だったおかげで、座り込んだところで水は胸の辺りまでしかこないが。目の前では、肩まで海に浸かって同じように座り込んでいる女は相変わらずガキっぽい笑顔で、声を上げて笑っている。とりあえず、こいつに腕を引かれて転ばされた事はわかった。

「せっかくなんですからびしょ濡れでいきましょう」

とぅっ、と両手を水中から振り上げて水飛沫を散らす。昔、アイドルのプロモーション映像でよく使われていたようなシーンだ。どれだけ海に来たかったんだ。そう苦笑してみたものの、そこまで素直に楽しまれると、こちらもつい嫌味なく頬が緩む。

「エースもマルコさんも海には入れたら良かったのに」
「ああ、あいつら揃って難しい体質らしいからな」

気遣うように振り返った彼女の目線の先、海の家で焼きそばを頬張るエースとのんびりとこちらを眺めるマルコ。こいつが手を振ると、すぐさま気付いて手を振り返してくる。おーおー、目は離してねぇぞってか。気を使うこいつの性質を読んで、ここへ着くまで体質の事は言わなかった2人だが、気にするなと言ったところで気にしないはずもない。はしゃいでる最中でも不意にこうして気にかけてみせる。

「でも…」
「それだけ愛されてんだろー?遠慮なく愛されとけ」

片手で軽く水をかけると、ひゃっと身を縮めた後で、こちらを見て照れたように遠慮がちに笑う。それから照れ隠しに3倍返しに水をかけられた。あの2人の方から見れば、典型的な海辺のアハハウフフの様だろう。そっちの事もいいようにフォローしてやったんだ、おれにもこれくらいの美味しい目はみせろ。



贅沢な休日を味わう



「寝ちゃいましたね」
「食って寝るガキと、年甲斐も無く遊んだオッサンだからな」

窓から海が見えなくなってきた頃にはもう寝息が聞こえていた。普段、会社に行き来する程度にしか使わず1人で乗るのが当たり前になって久しい愛車。よもや4人も乗って、海へ行くのに使うとは思っていなかった。帰路を辿る車内にどことなく漂う潮の匂いが、妙に可笑しくて小さく笑った。

「お休みの日にわざわざありがとうございました」
「楽しかったかい」
「はい、とっても!」
「お前が楽しかったのなら、それでいいよい」

運転席の後ろから身を乗り出して、出発前から終始変わらない笑顔。ほぼ真横、至近距離にある頭をぽんぽんと軽く撫でる。まだ湿っている髪に触れた瞬間に潮の匂いが深くなった気がした。交差点を曲がって、高速道路の上り口に入る。アクセルを徐々に踏み込んでスピードに乗る。あとはこのまましばらく高速を道なりに進めばおれ達の町に帰り着く。ふと静かになったので、ルームミラーで隣にある表情を見ると、俯き加減で唇を尖らせている。

「でも…今度は皆で楽しめる所に行きましょうね」

何だ、やはり気にしているのか。時折、当てつけのようにこちらを向いてニタニタと笑っていたのが不快なサッチだったが、盛り上げ役には充分役立ったはずだが。海はだめだと自覚のあるおれ達がそれでも来ている意味がわからない訳ではないだろう。

「言葉を変えてやるよい」
「え?」
「お前が楽しんでる顔が見れりゃ、こっちも楽しくなれるんだよい」

下手すりゃどこのキザ野郎だという台詞だが、こいつにはこれくらいで丁度いいだろう。実際、度々海から上がっておれ達のいる海の家へやってきては嬉々として話をする顔にはつられて口角が上がったものだ。やられた本人は悪戯だと笑って言ったが、サッチのセクハラまがいの話は別にして。

「だったら、私だってそうですもん」

再びルームミラー越しに見ると、真剣な目をした彼女と目が合った。小悪魔的に言うでもなく、可愛らしく言うでもなく、張り合うように宣言する。これだからこいつには敵わない。こちらが少し色味を付けたところで、こうも真っ直ぐ返されたらそのまま受け取ってやるしかないだろう。

「わかったよい。じゃあ、またどこか連れてってやるよい」
「ほんとですか!また4人で遊びに行きましょうね」

素直に喜びを浮かべて、4人で、言う。一瞬だけ視線を助手席に投げてサッチを見、ルームミラーの端でエースを見、心の中でそっと溜め息をついた。これは誰がどう仕掛けようと効果はないかもしれないな。まぁ、それでもおれが運転手でいる限り、気を遣うこいつが欠伸を噛み殺して到着するまで眠らないでいる頑張る姿を唯一見られる。それを気付かれていないと思っているのだからつい笑みが零れる。今はそれでよしとする。帰り着くまでは、あと15分。


贅沢な休日をまた

requested by Tachibana-san
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