その瞬間、自分の腹ごと引き裂いてしまいたい衝動に駆られた。背筋がぞっと嫌な凍え方をした。笑顔を浮かべていた船医が、困ったように曖昧に表情を消していった。いけない、と気付いてもいつものように取り繕える程の気力が無い。医務室を出る前に、辛うじて礼を言った。誰とすれ違ったかなんて覚えていない。船尾の船縁に辿り着いたら、あとはもう広がる海しかない。私は躊躇などせずに海へ身を投げた。

「………またか」

そこで目が覚めた。私が横たわっているのは海底なんかじゃなく、見慣れた部屋のベッド。何度も見る夢にいい加減慣れて、もう寝汗をかく事すらない。ただ、いつも思う。、夢の中の通りに海へ沈んだ方が利口だったのかもしれない、と。あの日、一抹の未練に引かれて、踏み止まった私の腹は今や見てすぐにそれとわかる程大きくなっている。2ヵ月程前からは戦闘では足手まといにしかならなくなった。

「お前も、不幸な子だね」

自分のものとは思えない腹を撫でた。船医に告げられた時、産むつもりなどなかった。それができないなら船を下りるつもりでいた。けれど、どちらとも親父やクルーに止められた。そういう所がこの船の美点であって、そこに惚れ込んだのにも関わらず、それが苦痛だった。そんな時でさえお互いに上手く視線を合わせる事のできない私達に、返す言葉などなかった。記憶に蓋をするつもりで乱雑に布団を払いのけて、上半身を起こしたところで、ドアをノックする音がした。

「起きてるのかい」

聞き慣れたはずなのに、どこか遠いな響きの声。ドアを開けたマルコと不意に目が合って、それを私から逸らした。動きにくい体を緩慢に捻って、ベッドの淵に腰かける形に正す。マルコがドアを閉める際に、とっくに朝を過ぎた午前の涼やかな風がすべり込んだ。

「なかなか起きてこねぇから、様子を見て来いって言われてな」
「そう、悪かったわね」

短い会話が途切れると、波の音やクルー達の声や足音といった室外からの音が入り込んでくる。恋や愛だと思える感情はかつて確かにあった。例えば、マルコが見張り番の夜にそこへ潜り込んでみたり、或いは戦闘中のちょっとしたフォローでだって、宴会のふとした隙の瞬間でだって。それが思い出と呼べる程の年月が酷だったのだと思いたい。何が悪かったのでも、どちらが悪かったのでもない。近づき過ぎた事に気付かないまま疲れていた。そう思うといつも溜め息しか出ない。今もまた気付かれない程度に小さな溜め息が漏れる。

「朝飯、どうするんだよい?」
「いい。いらない」
「…じゃあ、少し話さねぇかい」

予想していなかった言葉に返事をする暇もなく、マルコは私の隣に腰かける。その分、ベッドが沈む。その現実的な感触を掴み損ねたように、驚きと不安がせり上がってくる。話す事など思いつかない。私は最早、何が正しい言葉なのかなんてわからないのに。

「後悔してるかい?」
「…何を?」
「子を成した事、俺に抱かれた事、これまでの年月」

思わずマルコの方を見た。真正面から目が合ったのは久しぶりだった。そうだ、こうして目が合うと、いつも私は捕らえられたように息苦しくなる。懐かしい感覚だった。ただ、記憶の中にあるマルコの目はこんなに不安定な揺れ方をしていなかったはずだ。だとしたら私は、今どんな顔をしているんだろう。

「後悔なら、してるよ」
「ああ、おれもだよい」

隣から聞こえている声が、遠くから風に乗って聞こえたかのように、奇妙に馴染んだ。視線は、また私の方から逸らした。こんな風になりたい訳じゃなかった、たぶん、お互い。遠い遠い昔、この船のクルーとしてまだまだ半人前だった頃、早く戦力になりたいと思った。マルコに追いつくまでいかずとも、信頼を得られる強さが欲しかった。それが叶ってから、違う感情を抱いた。側にいたいと思った。それから、キスをして体を重ねて、それに慣れきった。波に流されるように過ぎて、気が付いたら、ただ側にいるだけだった。

「後悔してるよい、お前が追いつめられてる事に触れなかったのをな」

マルコの視線はきっとまだ私から逸らされてはいない。けれど、顔を上げる事はできなかった。奥歯を強く噛んだ。あの日、たぶん抱かれるのはこれで最後だろうと思った、少なくとも私はそういうつもりだった。なのに、重たい呪縛のように身籠った。かつて唯一の願いであり、側にいる事じゃ意味を成さなくなった私には今では唯一の存在意義に近かった戦う事さえできなくなった。そんな私に一体何の価値がある。

「わかってはいたんだけどな。おれが近くにいると余計に苦しませるかと思ったんだよい」
「…違う、そうじゃない」

私に何が言えた、何を求められた。そうやって私が自らに感じていた不甲斐なさ、嫌悪、焦燥、孤独、それらのものは全てマルコに向かっていた。側にいるだけではどうにでもできなくなった事、戦闘力にもならなくなった事、その全て、マルコにとって私が意味のある存在かという自問自答の苦しさだった。

「違う…私、後悔してる、何もできなくて」
「…あぁ」
「…ねぇ、好きなんだよ、今も…」

隣で、マルコが一瞬だけ驚いたように息を詰めるのがわかった。見苦しく縋るような言葉を言うつもりなんてなかったのに。そんな事で困らせたくはなかったのに。甘えたくもなかったのに。だけど、わからない。どうすればよかった、何を言えばよかった、何を求めればよかった。

「なのに、どうしたらいいのかわからなくて」
「あぁ、悪かった」
「…何もできないのが…もう情けなくて…」
「同じだよい、おれも」
「本当は、わかってたのに」

耐え兼ねたように抱き締められた体温は思っていたよりも温かかった。引き寄せられた肩は、自分でも呆気ないと思う程、簡単にマルコの方へ倒れた。私の耳のすぐ側でマルコの心臓の音が聞こえて、びっくりするくらい泣きそうになった。強く目を閉じた。それに呼応するようにマルコの腕も強さを増した。

「訂正しろよい」
「…え?」
「そいつは不幸な子なんかじゃねぇよい」

聞いてたんだ、そう言ったつもりだったのに、私の喉から出てきたのは年甲斐もない嗚咽ばかりだった。どこで擦れ違ったとか、重要なのはそんな事じゃなかった。こんな単純な事でよかった。私が落ち着くのを待つように背中を撫でる手も、優しいくせにぎこちなくて、涙は止まらないのについ笑ってしまった。今まで重荷でしかなかった大きなお腹に、久しぶりに愛だなんて柔らかい言葉を思い出した。


夢から醒める朝

requested by Rina
110901
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