中途半端な位置で浮いた手は、どうしたらいいのかわからないまま固まっている。彼女の肩越しに見える景色はさっきまでと変わらない宿の部屋なのに、急にどこかが変わったような感覚。泣いているのかと思った。抱き締めたままの腕は動かない。けれど、肩が震えるでもなく、嗚咽が聞こえてくるのでもない。静かに、ただ静かに彼女は動かない。表情も見えない、声も聞こえないのでは、おれはどうしようもできない。そう思ったところでやっと気がついた。そうか、おれに見られたくないし、聞かれたくないのか、何も。

「なぁ、おれ、出ていこうか?」
「あら、どうして?」

遠慮がちに聞いてみたというのに、返ってきた彼女の声はいつもと何ら変わらなかった。おれが肩すかしを食らっている間に、彼女の腕はするりとほどけて、にこりと微笑んでみせた。女ってわからねぇ。あいつだったら、こんな風には絶対できない。そう思ったのと同時に、また比べている事に気付いて、舌打ちをしたい気分になる。

「顔」
「は?」
「わかりやすすぎ」

さっきまで泣いているように思えた女とは思えない程、快活に笑われた。もういい、どうせポーカーフェイスは苦手だ。昨日だって散々それでサッチにやられたんだ。サッチよりも遥かに聡い彼女なら、おれの思考なんて簡単に読めて当然だ。また元のように向かいの椅子に腰かけて、可笑しそうな笑顔に内心で溜め息をつく。

「ごめんね」

その笑顔に似合わない謝罪の言葉は、一瞬何の事かわからなかった。あの子に言っといて、と悪戯っぽく言われて納得した。

「別にあれくらいで騒いだりしねぇよ」
「あーあ、女心がわかってないんだから」

大袈裟に溜め息をつかれた。なんでだ、別にやましい気持ちがあったわけでもない。それは向こうだってそうだろう。ウチの船で宴を開いたら、いつだって男女関係ない無礼講になるってのに、あんなハグで今更文句を言われるのも変な話だ。あいつはそんな奴じゃない。

「あいつには関係ねぇよ、女心なんて」
「あんたがそう言うならそうなのかもね」

そう言いながら、おれのいるテーブルから離れて、ベッドの方へ向かう。何をするのかと思って見ていたが、普通に荷物を片付け始めただけだった。おれの様子を見るでもなく、自然に自分のやる事だけをやる相変わらずの余裕っぷりが妙にムカつく。

「何なんだよ、おれが言うならって」
「だって、エースの方がわかってるでしょ、あの子の事」

それがさっきまで諭すような口調で喋ってた奴の台詞かよ。そうは思っても、今のおれは、彼女の言葉を肯定する事も否定する事もできずにいる。あいつの事を何も知らないわけじゃない。けれど、じゃあ、わかっているのかと言われると、答えはわからない。あいつの事がわかってるなら、たぶん、こんな風にはなってなかったはずだ。じゃあ、一体おれはあいつの何をわかってたんだろう。

「おれは、わかってんのか?」

呟いたおれの声には返ってきたのは、ドンっと目の前のテーブルに女物の鞄が置かれた音だった。それを置いた彼女は、立ったままこちらを見ている。その表情は、よくわからない。泣いてるのかと思ったり、笑ってみせたり、今みたいに何とも言えずに目を細めてみたり。彼女にはきっと敵わない事だけはわかるけれど。

「わかってるっていうのは、信じてるかどうかって事よ」

相変わらず、おれがすぐに理解できるような言葉ではなくて、眉間に皺が寄るのを自覚する。カバーのかかった本を鞄の中に仕舞うのを見ながら、言われた言葉を考えるが、理解できそうもない。そんなおれを知ってか、こちらを見もせずに微笑む。

「今まで見てきたあの子を、そういう自分を信じてればいいの」

それが、わかってるっていう事。こういう状況のせいか、今日ここで聞く彼女の言葉はやけに素直に入ってくる。例えば、紅茶好きでやけに茶葉に詳しいとか、気が強いくせに幽霊話は苦手だとか、酒はビールより果実酒だとか、ああ見えて可愛い物好きだとか、そういう事でいいのだろうか。おれが見てきたあいつを、それをおれが否定しないでいれば、ちゃんと覚えてていられれば、それで。何も知らないで、怒らせて傷付けて、それでもいいのか。おれが、わかったような顔をしてあいつの前にもう一度行ってもいいのか。

「いいのか?おれ」
「じゃあ、誰ならいいの。エース以外で」

おれ以外で誰ならいいのかなんて、そんな事は考えるのも腹立たしい。今までそんな事を考えた事もなかった。あいつが、マルコに連れられてここから離れていった時の、あのどうしようもない苛立ちとか焦燥感は、どう説明すればいいのかもわからない。格好つけたって、意地になってみても、どうせ帰ってくる感情は単純なところだ。あいつがいないのは辛い。

「さて、そろそろチェックアウトの時間ね」
「ああ、悪い」

まとめた荷物を持って、ドアに向かう彼女を追う。勿論、足元に置きっぱなしだった紙袋を手に取る。それを見て、またしても小さく微笑まれた。薄いピンクの紙袋は嵩張っていて思ったよりも少し重い。動きやすさを重視するあいつが、こんな飾り気の多い服をわざわざ買ったんだな。昨日は、そんな気分の余韻を持っていただろうに。

「…女心のねぇ女なんていねぇよな」
「あんたがそう言うならそうなのかもね」


信じる男


110804
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