人は人の為に命を投げ出す事はできても、人の為に生きる事はできないのよ。そう言った彼女の後姿はいつも通りの凛としたものだった。そう申しますと?納得とも否定ともつかぬ言葉を返すと、名前様はややあってから振り返った。普段はあまりそうは思わないが、姉弟というだけあってその所作は政宗様に通ずる所があった。

「どれ程、その方の為に尽力しようとも回り回っては、自分へ帰ってくるのよ」

言葉尻は少々きつく、表情は穏やかに、さながら誰か亡くされたのかというような。夕焼けから夜闇に移りつつある空は曖昧な色で薄く影を落とし、それを助長させる。ふと気付けば、名前様の方へ無意識に伸ばしかけていた手が中途半端に浮いていた。一体、この手で何をしようというのか。

「武士とてそう。主の為と戦えど、最後にはそれは己の誇りや信念」

貴方もそうでしょう、小十郎。風すら吹かない密やかな裏庭で、そう言う声は冷たい程に響いた。ただ、嫌悪や侮辱の色は無く、単に事実として受け入れているのだろう。数歩前の名前様に、花を摘んで遊んでおられた頃の面影は薄れていた。

「いくら小十郎といえども、政宗を守って死ねる事はあっても、あの子の為に生きる事はできないの」

例え、そうしようという信条であったとしても、それを全うする己の誇りとして咲くのだから。名前様の言葉に是とも非とも言えずに立ち尽くすしかない。それを覆す言葉があったとしても、今の俺に言う権利は無い。尤も、それ以前に今この状況の彼女に効果があるとも思えない。

「今日は何も言わないのね、小十郎」

そこで今日初めて笑顔を見た。決して心から笑っているようには見えない微笑。もしくは、冷笑か。そんな表情をさせたくはなかった、と単純に思った。けれど、それをどうにかできる程の力が俺にある訳がない。政宗様が苦心に苦心を重ねた結果の事ならば、俺に手出しできるモノじゃない。

「私が何か申せば、名前様のお気持ちは晴れるのですか」
「気休めにはなるんじゃない?」

悪戯に口角を上げて、からからと笑う。その振る舞いが、いつもとは違いやや憂いを帯びる。それだけで、喉元まで出かけた言葉を飲み込むには充分だ。

「これだけ言おうとも、貴方はこの先も政宗の為として日々を過ごすのでしょうね」
「…名前様」
「これ程の腹心がいるなら、もう政宗を案ずる必要もないわね」

それは未来を見据えた言葉というよりは、現在との決別。名前様が言うこの先に、彼女自身は含まれないという意が嫌でもわかってしまう声音。

「明日は、見送りは無くていいわ」

名前様は小さく苦笑した。仕方が無いといえば、残酷な響きだが、そうするより他はなかった。我らはまだ奥州の一勢力に過ぎない。乱世の中、この地を国を治めるには、近隣国との縁は絶対だった。下手に荒らせば、集中砲火の的になる。故に、名前様は一度もお目にかかった事すらない相手の元へ嫁ぐ。名前様は政宗様の苦渋の決断に、即決した。名前様の性格はよくよくわかっているつもりだ。政宗様同様、名前様にも長年お仕えした身だ。恋心など青臭い事を言うつもりはなかった。にも関わらず、引き止めたい衝動を抑えるのに必死になっているというのは可笑しな話だ。腹の底から湧き出るような激情を沈下するのに精一杯だなどと。

「ねえ、小十郎」
「はい」
「私が素直に貴方を愛しているといえば、何か変わっていたかしら?」

目が合えば、名前様は眉を顰めるように、薄く笑った。何が、人の為には生きられない、だ。常に何より己を犠牲にしているというのに、何を言うか。柔く微笑み、それを見せるまいと頑ななまでに気高い。それを知りつつも、俺も政宗様も誰もが乱世の渦に巻かれていくというのか。

「ま、もう言えないけどね」

縁側から襖の奥へと消えるか細い姿を見送るより他はなかった。擦れ違い様に、限界まで涙を溜めた目を見た事を悔いた。否、それよりも、こうして動けぬまま誰もいなくなった空間を眺める俺自身を悔いた。言い知れぬ不条理をぶつける捌け口を持ってはいなかった。自身の誇りと魂を掲げた刀が、やけに重い。



終わらない慈悲



070830
110614加筆修正