!暗い!






独眼竜と異名を持つ男は、右肩に深々と刺さったクナイとも手裏剣ともつかぬ異様な刃を抜き、捨てた。ガランと地面に当たる硬質な音。軽々と投げたように見えていたのにな、と思いの外重みのあった音にふっと笑った。目の前の女は動かない。視線一つ動かさない。己の部下であった頃、ころころと色を変えていた表情が、今や何も映してはいなかった。裏切り者の黒ではない。全くの無色だ。

「これが目的だったって訳か」

血の味が充満する喉から出した声は、女の能面を崩すには至らなかった。返ってきたのは、ふ、と短く息を吐く音だった。手にしている短刀もその先の腕も、返り血一つ無い。開戦と同時にどこかに身を潜めていたのだろうか。推測した男は、またしても笑った。ただ一人、己だけに狙いを定めてきた刺客。まるで忍じゃないか。敵軍に潜入して内部から攻めろと命じられた忍じゃないか。

「これ、とは伊達政宗暗殺の事か?」

声は必要最低限といった大きさ。遠くで響く戦の音には、突如姿を消した大将への混乱も含まれているだろう。女はそれに気を配る事を怠らず、目の前の男の無言を肯定と取った。

「ならば、それは我が主の目的だと答えよう」

男の返事はない。代わりに目がすぅっと細められる。一歩、二歩と距離が縮んだ。女は未だに動かない。立っているのも限界だと思っていたが、奥州筆頭の意地か気力か。それに女は微笑で応えた。

「だったら、お前の目的は何だ?」

ひゅうと肺が鳴る音と同様にその声も女に届いた。刹那、僅かばかり揺れた瞳。その微かな変化に男も気付いたが、ほんの一瞬の内に消える。

「目的などあると思うか?」

声とは裏腹に久方振りに感情の断片を見せた表情は、哀れむような目だった。何とか声を絞り出そうとしたが、それより体が重く、抜け落ちるように地に膝をついた。毒でも仕込んであったのか、と自らが投げ捨てた刃を見た。

「伊達政宗」

女の声が酷く近くで聞こえる。ほんの数刻前まで、敬意を乗せて声で呼ばれていた己の名。時として、敬意を超える感情を滲ませさえしていた声が、まるで違う。辛うじて上げた視線は女と同じ高さ。音も無く近寄り、気配もなく傍らにしゃがんでいる女は、やはり忍だったか。女は静かに息を吸う。

「お前の目的は天下統一か。民を救う為の。平和の為の」

最早、言葉を発する事もままならぬ毒の効力を知っている女は、返事など待たない。

「お前は何を統べようとした?国か?人か?この世か?無理な話だ。人は思考し、意識を持ち、己で動く。故に平和の基準も幸も不幸も異なる。貴様が見も知らぬ闇など、世には溢れ返っている。この世は貴様が思う程美しくはない。現にこうして裏切られている。喜べ、伊達政宗。この世をこれ以上知らぬまま逝けるのだ」

ここにきて急に多弁になった女を何とか視界に入れている。が、時折ぼやけて女の顔が歪む。それは、あたかも苦痛を浮かべているかのようにも見える。強烈な睡魔のように頭の奥底が熱い。

「名前」

もう聞く事は無いと思っていた声に紡がれた名は、僅かばかり女の動揺を誘った。反射的に距離を取ろうとしたが、それより先に掴まれた手に、いよいよ表情を崩して驚きと焦りを見せた。

「お前は、どこにいる…?」

口に出した言葉は、声というには弱々しい。しかし、それでも良かった。届けばそれでもういい。女の口がぎゅっと真一文字に引かれ、耐えるように眉間に皺が寄る。そんな顔をするな、男は胸の中で呟いた。

「…現実だ。貴様と対極の、な」

女は強く目を閉じ、一度だけ深く息をつく。徐々に手首にあった力が弱まる。そして、滑るように落ちる男の手。身体が地に倒れる聞き慣れた音。格段驚きはなく、その手を見つめた。むしろ、ここまで長らえたのを称賛するべきだ。思い出したように吹いた風が、動かない男の髪を靡かせた。同じ風が女の髪も靡かせ、その表情を覆い隠した。

「…貴方は美し過ぎたのです、政宗様」

殺める事が罪なのではない。罪などもっと根底にある。それを知らぬ清さはとっくに失った。失ったのがいつだったかなど覚えていない。郷が奪われた時か、奴らの下で忍の道を選んだ時か、どこぞの村を焼き払った時か、拷問の末に打ち捨てられた時か、もう覚えていない。そんな世を知らぬというのなら、何と清廉か。そこまで思い、女は気付いて目を見開いた。男にまだ息がある。馬鹿な、そう思えどもその目には、ゆるく開かれた隻眼が映る。

「貴様…何故!そうまで生きようとする!」

男の触角はもう無いに等しいが、聴覚はまだ残っていたようで、絶叫に近い声を拾う事はできた。脈打つ度に溢れる血は止まっていないが、不思議と痛みは無い。ただ、猛烈な睡魔だけが邪魔だ。

「ならば…その息の根、直に絶ってやろう」

最も苦しまず、かつ、この世の最期に思考できるだけの時を持てるよう、眠るように死ねる神経系の麻痺毒を使ったのが裏目に出た。女はクナイを手に取る。初めからこうすればよかったのだ。瞬時に頸動脈を掻き切ればよかったのだ。そうしなかったのは、奥州での生温い潜伏生活に慣れてしまったせいか。義も情も、ここには無い。だから、どうか、その心臓よ、止まってくれ。全てを守り抜き、そして手に入れようとする、その美しさが汚れゆくのを見たくはない。これは未練か、臆病なのは私か。

「名前…泣く、な…」

まだ口がきけるか、思うより先に地に倒れた男の頬に滴が落ちる。今更、何を今更!昨日も一昨日も、何日も何年も涙など無かった。己の制御ができぬようになってしまえば、忍は朽ちる。わかっているだろう。なのに、どうしてだ。

「貴方に、この先の世は、見せたくない」

傲慢、独り善がり、強欲何と言われようと構わない。クナイを懐に戻す。代わりに触れたのは、かつて見た事のなかった表情を女に教えたその頬に。息が止まる前に、文字通り唇を塞いだ。恋慕を彩る口付けなどではない。緩やかに、男の呼吸を奪ってゆく。消える命を肌で感じながら、最初で最後に女が自ら男に触れた。一瞬、男の指先が宥めるように女の髪に触れ、それを最後に地に落ちた。愛などと言うつもりはない。だが、痛む。何かが痛くて悲鳴を上げそうだ。これが心というのなら、私は人であらずともいい。しかし、或いは…そんな思考を断ち切って、六爪と名高い刀を一本抜き取る。

「…お借り致します」

どうせ人でなしだ、死ぬのならばこの刃で貫かれたい。それをせめてもの供養に、と言うのは流石に狂気の沙汰か。女は静かに立ち上がった。寄り添って死ねるのは姫様だ、忍は骸を残さない。忍の女は、男の刀を手に、どこへとも決めずに風に紛れて消えた。


世界は愛を唄わない

110613 加筆修正