ずっと奇妙な空気を感じてはいた。薄暗く湿気た牢獄の中、何かが確実に突き抜けるように動いていた。海楼石の手錠ががしゃりと鳴る重苦しい音ではない聞き慣れない音も、遠くの方から微かに聞こえている。その空気を感じ取っているのは私だけでない。他の牢の囚人達も興奮している。奇声、雄叫び、笑い、各々の声が渦巻く。それでも看守達はいつものように姿を現さない。という事は、それ程の何かが起こっているんだろう。

「何だろう、これ」

一人きりの独房で、私の独り言に反応する者なんていない。そんな事は随分前からわかっているのに、声に出してしまう。それ程までに私も興奮しているのかもしれない。いや、興奮というには少し寒気がする。心臓が血液を送り出すのと一緒に、ぞくりと背筋に電気が走る。さっきまでは胸騒ぎだったのに、今はもうそんな可愛いものではなくなっている。

「近い」

遠かった轟音がだんだんと近付いてきている。このレベル5に投獄されてしばらく経つけれど、こんな事は初めてだ。ただ、それに対する好奇心じゃない。足元からせり上がるような何かを確かに感じていた。そして、また音が大きくなる。近くなる。向かってくる。

「あ、わかった」

騒音を掻き消すように、更に大きな音が響くと同時に、複数人の断末魔が上がる。濁った煙が、鈍い風に巻かれて吹き抜ける。きっと壁のどこかが崩れた。粉塵の混じる煙幕が辺りに広がる。囚人達のアドレナリンに狂った歓声が、一際大きく上がる。何が起こっているのか、牢の奥に座っている私からは見えない。けれど、空気が揺れるこの気配で充分だ。末端の毛細血管まで血が駆け巡るのを感じる。ごくりと喉が鳴った。瞬間、囚人達の声が静まった。微かに、靴音が聞こえる。深く息を吸い込んで、目を閉じた。じわじわと鳥肌が立つ。靴音が止んだ。

「何だ、暇そうだな」
「だって、サーがいないんだもの」

目をあけたその時、私の独房の壁が一瞬で砂に帰した。その砂を踏み潰すように一歩ずつ距離が縮まる。懐かしいコートが翻る様子をただ黙って見ていた。こちらは囚人服だというのに。それでも、口角が上がる。目が合った彼もまた同じように笑みを浮かべる。

「随分な格好じゃねぇか」
「ええ、サーがいないんだもの」

喉の奥で笑うサーに、私の心臓はゆっくりと落ち着きを取り戻す。夢にまで見た、というのは大袈裟かもしれないが、これが夢でしたなんてオチは許さない。彼が投げて寄越した鍵を受け取って、忌々しい手錠を外す。体中の重りが落ちたかのように軽くなる。と、それを見越していたかのようにグイと手を引かれる。半ば無理やり立ち上がらされて、バランスを崩す。その瞬間、金属特有の冷たさで彼の鉤爪にひたりと顎を捕らえられる。

「汚ねぇ女を連れ歩く趣味はねぇなぁ」
「女を綺麗にするのはいい男の務めでしょ?」
「クハハ、言うじゃねぇか」
「だって、サーがいないのが悪いのよ」

何度でも言ってやる。私が汚いのも綺麗なのも、生きるのも死ぬのも、サーの傍でしかない。知ってるくせに、そう瞳に込めて視線を投げる。すると、やっぱり彼だってわかってるんだ。その証拠に、言葉を発する前に唇を塞がれた。熱い。荒い。強い。苦しい。攫われる。痺れる。焦れる。待ち侘びた。まったく、不器用な男だ。言葉の足りない彼のキスがなんと雄弁な事か。頭の芯がゆらゆらと燃える。落ち着き始めたはずの心臓が今度は融ける。離れるのが惜しいだなんて笑える。彼の鉤爪に、私の肌と触れている部分にだけ体温が滲む。嗚呼、くらくらする。

「行くぞ」
「どこへ?」
「答える必要があるか?」

口惜しいけれど、返事の代わりに噛み付くキスを一つ。彼に似合いの笑みを残して、もう牢の役割を成さなくなった牢を出て行く。その後ろ姿を、薄汚れた囚人服のままで追う。まだ砂埃が収まらない牢獄の通路を進む。未だ格子の向こうで喚き立てるような囚人の声をBGMに堂々たる足取りだろう。行き先なんてどこへだって構わない。サーの隣に並んだ。今、この瞬間、私より綺麗な女がいるものか。


美しき毒性学

110226