月明かりだけでも、赤いのがよくわかる。その赤髪がさらりと頬に当たる感覚は、どこか遠い世界の出来事のようだ。顔が近い。鼻先が触れそうな距離にお頭がいる。見慣れた三本傷に静かに影が落ちている。背中に甲板の床板の感触、お頭の背景には星空。

「お頭、飲み過ぎたんだね」
「いや、大丈夫だ」
「いや、飲み過ぎだと思う」

飲み過ぎじゃないと言うなら、何だと言うのだ。仰向けにされてる私の傍で転がる空き瓶にチラと視線をやると、すぐ近くの空気が揺れた。お頭が笑うと吐息が触れる。

「余裕だな」
「いや、あの、何これ?」
「何がだ?」
「なんで私が組み敷かれてるの」
「わかってるじゃないか」

いや、笑う所はそこじゃない。と言うより先に、こそばさに首をすくめる。耳元をくすぐるようにお頭の髪が触れて、首筋に生温い感触。思わず、うっと息が止まる。冗談ならここまでだ。私はずるずる流されてやるような可愛げは持っていない。お頭の肩を押して停止勧告。

「そういう女なら他で見繕ってきなよ」

酔っぱらいといえども、真正面で視線を合わせて言えば通じるだろう。顔を上げたお頭を覗き込む位置で睨み上げる。そんじょそこらのガキじゃないんだ、そんな青臭い事はしないでほしい。それくらいわかってるでしょうに。そんな意味を込めて視線を投げたのに、当のお頭は予想に反して可笑しそう口角を上げる。

「こんな女が他のどこにいるって言うんだ?」

いつだってそうだ。お頭の声は耳に入ると脳に流れて麻痺させる。だから、嫌いだ。巧みな言葉ほど毒性が強くて嫌になる。眉間に皺が寄ったのを自覚した瞬間に、宥めるようなキスが額に一つ。

「抱くならそれ専門の女にしなって話」
「女を抱きたいんじゃない。お前に触れたいんだ」

隠す気も無い溜め息を吐く。一船の船長が、それも赤髪海賊団の船長ともあろう男がそれはないだろう。クルーの女を組み敷いておいて、それはないだろう。そんな甘さも優しさも似合っていいはずがない。お頭、アンタは赤髪のシャンクスだ。酔った勢いならそれでいい。けれど、酔っていないというのなら、赤髪はこんな女を抱くんじゃない。触れるんじゃない。

「お頭、私の誇りはアンタだ」

故郷もない家族もない私には、それが全てだ。私は幸せなクルーなんだ。それだけだ。それだけでいい。私は死ぬまで共に海を渡る。だからこそ、手を引かれて隣に躍り出るような女は私じゃない。私の王は間違いなくこの男だが、私は妃になり得ない。私は、私の誇りを自らで汚すような真似はしたくない。

「悪いな、お前の言っている意味はわからない」
「わかってるくせに」
「おれはただ、お前の目の前にいる男だ」

思わず目を見てしまった瞬間に後悔した。お頭は全部わかってて知ってて見透かしてて、それでも何も言わないのに、私には選択肢を与える。やめてほしい。敬愛と恋慕を見誤って混同したのは私だ、巻き込まれてくれる必要は無い。手を伸ばせば、身を乗り出せば触れられる距離ならまだぎりぎり立ち止まれる。私は決してこんないい男を好きになるべきではなかったのに。どうして彼は私を見る。

「どうして、私なの」
「どうしてもだ」
「何それ」
「そういうものだろう?おれ達は海賊だ」

お頭の目が月明かりに揺らめく。お頭の髪が闇夜で映える。綺麗だ。嗚呼そうだ、こんなにも単純な事なのだ。どうして、なんて最初から通じる言葉ではなかった。理由を並べて、理屈を捏ねるような、そんなものじゃあなかった。参った。私の臆病な防波堤なんて簡単に飛び越えられた。

「おれはお前に触れたい。理由なら自分で感じろ」

そう言ってすぐに僅かな距離を埋める。返答はおろか自嘲の笑みを浮かべる暇もなく塞がれた唇が熱い。合間に漏れる吐息に混じって、お頭の小さな苦笑が聞こえた。言外にバカだなと言われたような気がして、首を絞めてやろうかと思ったのに、結局その首に抱き着いてしまった。何を感じたかと問われれば、愛おしいだなんて笑ってしまいそうな言葉でしか答えようがない。


素肌から侵蝕、或いは昇華

110213