宿の部屋のドアを開けると、当然ながら明かりなんか点いちゃいない。心なしか外よりも空気が冷えている気がするのは、俺の偏見だろう。奥のベッドがゆるやかに盛り上がって、一定のリズムで上下しているのが月明かりに見える。壁に向いている顔は見えない。

「寝てるのかい」

返事は無い。だからといって、それが寝ている証拠とも言えない。が、少なくとも俺と顔を合わせるつもりはないんだろう。俺の方も無理をして話しかける話題も無い。それ以上、声をかける事もせず、ベッドの淵に座る。まだ酒の残る頭は思考を深めるには向かない。ただ、不意に頭を過った数年前の記憶に苦笑した。飲み屋で女が絡んでこようものならすかさず割って入り、こんな時間に帰ろうものなら怒って朝まで離れなかった。俺はそれを可愛いと思ったり、鬱陶しく思ってそこから喧嘩に発展したり。それら全て、若気の至りと呼べるものが今じゃ懐かしくて笑える。嘲笑じゃない、苦笑だ。

「ま、そんなもんかね」

それだけの年月を経れば、お互い変わって当然だろう。こいつがこうなったのと同じように、俺も昔のようにこいつの為に時間を気にする事もなくなった。今日はもう切り上げようと言ったのは、エースがそろそろ飲み過ぎていたのと、サッチが店の女に平手を食らったせいだった。だが、そう言ってしまえば、責任転嫁でしかない。実際、上陸後にも特に何を言うでもなく、じゃあ後で、と別れただけに特別気を使うでもなく飲んでいたのは俺だしな。つまりは、互いにこれで合っているのかもしれない。未だに荒々しいくらいに感情をぶつけ合う程の無駄な体力を使う年でもないと思うのは、もう暗黙の了解と言っていいだろうと思う。

「それにしても、騒がしい奴らだよい」

薄く開いた窓から入り込む声に、さっきとは違う意味を込めて苦笑した。もう朝に近い深夜、この辺りで今あれだけの声を響かせている奴らもそういないだろう。随分と迷惑な奴らだ。何を言っているかはわからないが、まだ少女と呼べる声がいつもより甲高く怒鳴っているのは聞き取れる。その窓の方へ近寄って、向かいの宿を見ると唯一明かりの点いている窓があった。そこから見える範囲に2人の姿は無いが、中の様子は大体想像がつく。今し方、脳裏に浮かんだ過去の記憶の配役をエース達に置き換えればそれで済むだろう。可愛いもんじゃないか。そう言ってしまえば、自慢になるのか自嘲になるのか、さて一体どっちなんだろうか。

「どっちでもねぇのかもなァ」

窓の小さな隙間も全て締め切ろうと窓に触れた時、エース達の部屋の窓に人影が現れた。逆光で顔まではよくわからないが、シルエットからして明らかに女だ。それもきっといつかのあいつと似た表情をしてるはずの。まぁ頑張れ、と声に出さずに内心で軽く笑ってから窓を閉めた。今の内に若気の至りを楽しむのも手だぞ、と窓の向こうの2人に思って、自分が、いや自分達がえらく年を取った気になって少し笑った。もう少し飲みたい気分だ。今日は店のチョイスをサッチに任せたのが失敗だった。あいつは酒を飲む事より、女と飲む事を選ぶ奴だ。そんな事は今更だったが、とはいえここに酒は無い。諦めて、窓の下のテーブルセットの椅子に座ると、そのテーブルの上にある本が目に入った。これと同じものを読んでいるのを見かけた事がある。俺の記憶が正しければ、本来あいつは決して読書家ではなかったはずだが、いつからか本を読んでいるのをよく見かけるようになった。

「一人の方が気楽かい」

呼吸の度に、変わらず穏やかに上下しているベッドの膨らみに視線を向ける。勿論、そこから返事がくる事もなく静かな空気が停滞している。テーブルの上の本を手に取り、ぱらぱらとページを捲るが、読む気はない。どちらかと言えば俺も読書はする方だが、上陸する荷物に本を入れようとは思わない。再び、この本の持ち主の方へ視線を向けて、言葉に出さずに自分の胸の中で彼女に訪ねた。なぁ、お前はいつから好きでも無い読書をしてでも潰さなきゃいけない暇を俺の前で持つようになったんだよい。ただ、これは本人に向かって言うには、俺自身の事を棚に上げてる自覚が十分にあり過ぎる。それがわからずに不満を漏らすようなガキの可愛げはもうない。そう思った時にふっと元から暗い部屋がまた一段と暗くなった気がして顔を上げると、さっきまで騒がしい声が聞こえていた部屋の明かりが消えていた。

「おやすみ」

窓の向こうの部屋の中なのか、この部屋のベッドの上なのか、誰に向けて言ったのか定かでない言葉は自分の声じゃないような気がしなくもない。そんな曖昧さがまた可笑しかった。持っていた本を元々あったように置き直して、空いているベッドに入った。眠るにしては朝が近づき過ぎていた。


静かな男


(100516)
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