窓の下に置かれた小さなテーブルセットの椅子に腰かけたまま時計に目をやると、もうすぐ午前3時になろうとしていた。もうそろそろ戻ってくる頃だろうか。表の通りは数時間前から風がゆるく吹く音以外は滅多に聞こえない静かさだった。そんな深夜の空気は嫌いじゃなく、春島の気候も相まって窓は少し開けている。手にしている本は半分を少し過ぎた所で、ヒロインの病状が悪化してきた描写が比喩に包まれて書かれている。のめり込む程面白い訳ではないけれど、暇潰しには事足りる。いつから読み始めたかは覚えていないけれど、肩がパキリと鳴ったので、一旦しおりを挟んで休憩する。昔は何時間でも集中して読み耽って、オヤジに呼ばれても気付かないくらいだったというのに。年は取りたくないな、なんて思いながら首を一周回す。すると、窓越しに向かいの建物の唯一明かりが灯る窓が見えた。

「あら、可愛い」

その部屋で最初に見えた時から変わりなく、ウロウロと落ち着かない様子でいる見知った姿に思わず笑みが漏れた。部屋の中を行ったり来たりしているウチの末娘には待ち人がいるようだ。明らかに苛立って見える横顔には、エース、エース、エースとびっしり書いてあるみたいだ。ふと、そんな彼女を微笑ましく見ている私も同じ立場だと思い出して、それもまた違う意味で笑えた。

「やっぱり年は取りたくないね」

コーヒーでも飲もう。部屋の隅に設置されている小さなコンロで湯を沸かしに行く。その途中で、カフェインを摂ったら余計に寝にくくなるかと思ったけど、もう止めるのも面倒で、そのままヤカンに水を入れて火にかけた。そう、私は別に起きておこうと思って本を読み始めた訳ではなかった。ましてや、マルコを待っていようと思った訳でもない。経験上、あのメンバーで飲みに行って早々に帰ってきた試しがないとは知っていた。男のさがを許せない程、私ももう子供じゃない。だから寝ようとしたのだけれど、妙に寝辛くてベッドから抜け出して睡魔が訪れるまで読書をしていただけだ。だから、あの子とは根本的に違っていて当然と言えば当然だ。更にはもっと深い根本から違うのだろうけれど。恋とか愛とか、そういう類のものからして。

「こんな事ぐだぐだ考えてるから眠くならないのか」

カタカタと沸騰した合図を送るヤカンを火から下ろす。コーヒーを淹れるという慣れた動作をしながら、ふっと一瞬、懐かしい記憶がフラッシュバックした。確かに私にもあったのだ。コーヒーを美味しく淹れられない頃も、女のいる飲み屋から帰って来なくて腹を立ててた頃も、夜を徹してでも待っててやると意気込んでた頃も、確かに私にもあったのだ。遠い記憶の中にいる私は、今の彼女の様子とよく似ている。湯気を立てるカップを手に、窓際の席に戻る。いつも通りのコーヒーの苦みの方が今の私には合うはずだ。というのは少し格好のつけ過ぎか。当たり前のように宿では2人部屋を取るのも、もうそろそろ無意味なのかもしれないが、既に習慣に近い行動を止めるのは辛いとはまだ思える。

「寝たいんだけどな」

なんでコーヒー淹れたのかな。少し開けた窓から入る風がカップの湯気を揺らすのを見ながら、気付いた。私も本当は待っていたいのかもしれない、なんて青臭さを小さく笑った。もう一度、本を読む。そうしていれば、少なからずつまらない思考を軽減できる。不治の病に侵されたヒロインの病室に向かって走っている主人公は、ようやく真の愛に気づいて涙していた。美しいストーリーは嫌いじゃない。そう思えるのは、こんな風に私もと憧れているからでなく、これがフィクションだと理解しているから。一口飲んだコーヒーの苦みが美味しい。その時、人気の無い外の通りから声が聞こえた。

「お帰りなさったか」

やや高めの陽気な若い声はいつもより大きく響く。そのエースの声をうるさいと指摘するマルコの声もそれ程諫めているようでもない。その声も完全に酒が回っているサッチの笑い声で消えた。それに続いて他の声もわらわらと重なって、迷惑極まりない集団になっている。海賊だから仕方ないと住人には諦めてもらうとしても、きっとあの子にはそれ以上に耳障りだろう。身に覚えのある苛立ちを想像して苦笑する。

「さて、寝よう」

若い娘じゃない私は、これからこの部屋に戻るであろうマルコに文句を付けて喧嘩をする気もない。こんな時に私が起きていた所で、逆に妙に過ごしにくい沈黙があるだけだ。カップに残ったコーヒーはまだ未練がましく湯気を立てていたが、流しに捨てた。ランプの明かりもそっと消して、ベッドに潜り込んだ。明日の朝、おはようと言えば、何も問題は無い。


待つつもりはない女


(100511)
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -