いい気分だ。寒くも熱くもない夜。月が明るい夜。起きている奴より甲板に転がってる奴の方が多くなってきた。これで私の手に愛刀でもあれば、死屍累々の戦いの後のようだ。しかし、今、私が手にしているのは、お気に入りのワイングラス。自室から持ってきたばかりのグラスにシャルドネを注ぐ。デッキの柵に肘をついて、誰にも乾杯せずに一口。BGM酔い潰れた野郎共の猥雑な鼾というのが、ロマンティックじゃない穏やかさで口角が上がる。
「こんな所で一人酒かい」 「ええ、こんないい女を放って寝ちゃう男共の気が知れない」 「はは、全くだよい」
小さな足音には気付いていた。振り返るまでもなく、慣れ親しんだ気配くらいわかる。隣に立ったマルコの足取りは酔っ払いのものではないが、手には酒の入ったグラスがある。甲板で大の字になっているサッチやエース達と同量、それ以上の酒を飲んだというのに、気配を読み間違える事もない。まったく、自分の酒の強さには我ながら呆れる。いつも気分が良くなったくらいで宴は終わってしまう。それはマルコも同じなのだろう。いつも通り、飲み足りない私達のささやかな二次会が始まる。
「ちょっと酔っちゃうくらいが可愛げあるんだけどね」 「お前が?今更?笑えねぇよい」
笑えないと言いながら笑うマルコがグラスを空にする。それを見計らってボトルを傾けると、自然とグラスを差し出される。その礼とでも言うかのタイミングで、チーズ・オン・クラッカーの乗った皿が柵の上に置かれる。それを合図にそっと乾杯。こういう気持ちよさが、私にとってマルコと飲む醍醐味だ。
「マルコもいつも酔わないね」 「おれまで潰れちまったら、寂しがる女がいるからなぁ」
今は大鼾をかいている奴らと、ビールやら樽酒を煽っていたのも楽しかった。早々に出来上がったエースをネタに皆で大爆笑するのも好きだ。けれど、こうして間合いを熟知した相手と小さな声量で飲むワインはまた格別だ。ふわりと膨らむような香りと、絶妙なバランスの酸味と甘みと苦み。これを味わうのにはこっちの方が合う。そして、それはきっとマルコも同じだと思うのは自惚れでもないはずだ。隣の横顔は、遠い海面を眺めながらゆったりと口角を上げている。
「私、マルコと飲む酒が好きよ」 「奇遇だなぁ、おれもだよい」
隣へ向けた視線が絡んで、互いの笑みがより深くなる。そのままグラスの中身を空にした私に、今度はマルコがボトルを傾ける。私達の間に、恋だなんてココアのような甘い響きはいらない。必要なのはこのワインに見合う深みだ。キスよりも通じる乾杯を、ハグよりも温かい無言で。その為に私が酒に強いのだとしたら、神様の手に口付けてもいいかもしれない。
「実の所、ワインはあまり好きじゃなかったんだけどな」 「え、そうなの」 「ああ、今でも一人じゃ飲む気にならねぇよい」
そう言いながらも綺麗に空になったグラスは、ボトルを近付ければ傾く。一人で飲まないワインを、私の隣で更に一口飲む男だなんて。花束を差し出して愛を囁く男がいたとして、そいつより遥にロマンチストじゃないか。マルコの言葉をそれ以上深追いするなんて無粋な事はしない。グラスを回して、クラッカーを齧る。鼾の重奏が馬鹿馬鹿しい程心地いい。
「私はワインが昔から好きなの、特にこのシャルドネ」 「ああ、知ってるよい」 「でも、今では一人じゃ飲む気にならない」
ちょっとした仕返しだ。ロマンチストは伝染するのかもしれない。いつの間にか、大好きなシャルドネでも一人で飲むと、驚くほど物足りなくなっていた。マルコがふっと小さく笑った。返事はそれで充分だ。舌先に転がる酸味が、甘みが、苦みが、今この海で私達以上に似合う奴などいるだろうか。
「さっき、おれと飲む酒が好きだって言ってたな」 「言ってたね」 「おれが思うに、そいつは愛してるって言うより、よっぽどそう聞こえるんだけどな」 「奇遇だね、私もそう思う」
視線が交わって、グラスが揺れて、くすりと笑う。これだから、こうして飲むのをやめられないんだ。頂点を通り越した月が照らしたボトルには、2人分に丁度いい量が残っている。互いのグラスに残りのワインを全て注ぐ。
「マルコ、私はこれを飲み干したら、酔ってしまう事にするから」 「あぁ、じゃあ、おれは酔ったお前をベッドまで運んでやらねぇとな」
グラスは静かに掲げたくせに、悪戯っぽくにやりと笑みを象る。それはきっと私も同じだろう。チン、とグラスが触れあった音が響く。今夜最後の酒は、どうあっても私達を酔わすと決めた。そうしてそのまま、この空気に溺れるのだ。夜はまだ長い。
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