シャワーを浴びるのは、自分の宿に戻ってから。いつからか自分の中でそんなルールを作っていた。それを破る事なく、今日も自分で取った宿に戻ってからシャワールームに入った。昨夜を過ごした部屋を出る時には、男を起こさず、自分で告げた金額以上の金も取らない。金を条件に寝る、朝が来れば終わり、消えたところで文句を受け付ける義理も無い。二度と会わない男の顔を覚える気もない。

「…出航、今日だったな」

シャワーを止めて、バスルームの鏡に左肩を映した。白ひげの刺青が鎮座しているのが、湯気の中でもくっきり見える。バスルームを出て、脱ぎ捨てた昨日のドレスタイプの服でなく、いつも船で着ている慣れたショートパンツを穿いた。ホルスターサスペンダーを巻いて、愛用の銃を収める。濡れた髪を無造作に束ねる。昨夜使った化粧品と受け取った金を剥き身のままバッグの底に、その上から予備の銃、銃弾、火薬。これで白ひげ海賊団一番隊のナマエに戻る。

「さ、帰るか」

宿を出て、通りを歩く。早朝の通りにはまだ夜の名残が停滞している。この時間でも農業が盛んなこの島なら、もう市場は機能しているだろう。そちらへ足を向ける。昨夜のハイヒールでは歩きにくかった柔らかい土の道も、いくつもの戦闘を共にしたゴム底のブーツだと意識するまでもなく真っ直ぐ歩ける。苦笑しかけて飲み込んだ。ならば、やめればいいのに、自分でもそう思うのに。

「いつまでやるのかなー」
「俺も聞きてぇよい」

返事がくるはずのない独り言に返された声に驚いて顔を上げる。進行方向の先にマルコが立っていた。ここで何を、一瞬そう思ったが、口に出す前に思い当った。偶然通りかかったにしては、マルコの雰囲気は不自然だ。驚きも愛想もない表情は、ここで私を待っていたとしか思いようのないものだ。そこに恋人なんていう甘い香りはまるで無い。この状況で私の売春行為を気付いていないはずもないのに。それに対して、私はどんな顔をしていればいいのか、誰も教えてはくれない。隠さなくちゃとも思ってない、罪悪感なんて無い、ましてや恐怖も無い、止まる理由も無い。マルコの前を通り過ぎる。

「おれはお前を束縛する気はねぇよい」

目の前を通る時、いつもと変わらない静かな声がした。視線も、たぶん私に向いている。秋島の朝の風は思いの外冷えている。吹き抜けたその風が、よくある小説のワンシーンのように落ち葉をさっと巻き上げた。

「好きなようにしろよい」

それだけ言って、マルコが背を向けて歩き出すのを気配で感じた。どういう事かなんて聞く程バカじゃない。別れたいなら別れてやると、つまりそういう事なのだろう。いつだって、マルコはそうだ。何にだって動じず、冷静な結論を最短ルートで導き出せる。そこに私が関係しようと変わらない。マルコはマルコの道を見据えて進むだけで、私がどこにいても影響はないのだ。ぷつりと切れるように肩の力が抜けてしまった。

「せめて、怒りなさいよ」

頭より先に口が動いた。私はいつだってこうだ。マルコとは全然違う。少しの事で揺れて、感情的に体が動く。初めて金で抱かれた時もそうだった。私ばかりが恋焦がれているのではないかという虚しさ、求めすぎる自分に対する嫌悪、なのに彼に見合う実力も魅力も持ち合わせない劣等感、その全てを捨て去ってしまいたい衝動だけだった。馬鹿馬鹿しくも、その行為が切り替えるスイッチになって、船の中ではドロドロと恋慕を持たないで、男と同じただのクルーでいられた。女としての自分は船の外に捨てられた気になれた。マルコとも他のクルーと変わらぬ接し方ができた。そして、見知らぬ下品で愚かな汚い男との行為の最中、目の前の男を見下して罵倒する脳内では純粋にマルコに焦がれていられた。この男とは全く比較にならないと感じて、彼の魅力に酔っていられた。

「怒ってよ!嫌ってよ!何でもいいから何か見せてよ!」

たぶん、どこかで私は気付かれてもいいと思っていた。その時でなら、欠片でもいいから深い感情を私に重ねてくれないかと期待した。歪んでいてもいいとさえ思った。誰もいない目の前の道を睨んでいた。そうでもしないと、泣きそうだった。自ら望んで狂っていたのに、泣くわけにはいかないのに。

「私が嫌いになれないなら、せめて、嫌われたかったのに!」

制御なんてできた試しがない。余剰な力が入った喉がひゅっと鳴ったのを合図に涙が落ちた。もうこうなれば、どうしようもない。ドレスやハイヒールと一緒に捨て置いたつもりだった女の感情が舞い戻る。これ以上無様な姿を晒したくなくて、歩を進めようとした。その時になってようやく気付いた、背後の影が私の影に重なっている。

「できると思うかい」

耳元で声がして、肩口に吐息が触れた。胸の前で交差する腕も、背中にある気配も、ずっと昔に知ったものだ。息が詰まったのと同時に、涙も止まった。後ろから私を抱き締めるマルコの力が、記憶にあるよりも遥に強い事に驚いた。

「おれが、お前を、嫌えると」

途切れ途切れ絞り出された言葉に、心臓が縮むような心地がした。私はマルコのこんな声を知らない。指先一つ動かせずにいると、普段聞こえないような小さな音が聞こえてくる。葉が落ちる音、自分の心臓の音、マルコの細い溜め息。

「あまり買い被ってくれるな。おれがどれだけ抑えてると思ってる」

どくり、と一際強く心臓が血液を全身に流し込んだ。何を言えばいいのかわからないまま、半ば無意識で私を抱く手に重ねるように触れた。触れてすぐにその手に強く掴まれた。繋ぐなんて生易しいものでなく、手の骨が砕けそうな程強く、痛い。掴まれて痛む右手に酷く満たされ、理解した。私は何を恐れていたのだろう、何から目を背けようとしたのだろう。マルコが見えなかったんじゃない、私が見ていなかっただけだ。その内に勝手に自家中毒に陥っただけの事。

「ごめん、マルコ…ごめん」

振り返ると近くで目が合う。こんな風に視線をぶつけたのはいつ以来なんだろう。きっと私は酷い顔をしているのだろう、マルコが困ったように、けれど驚くほど柔らかに微笑する。言葉は最早邪魔でしかなかった。もうそうするしかないと言うようにキスをした。互いの体温を確かめるような触れ方が、泣きそうになる程暖かい。ああ、思い出した、彼も私が好きなのだ。


鏡の国から追放

requested by Ann-san
111128