妖宴 5
「君も大概馬鹿だな。わざわざ見に行ったのか」
「馬鹿とは失礼だなあ。僕は義妹を心配しただけだよ」
「心配ついでに喧嘩をふっかけて来たのだろう? 君からはまだ、あの黒狐の妖気が抜けていないよ、撫子」
「はは、嫌だなあ。僕がそんなことをするわけないじゃないか」
「君だから言っているんだろうが。まあ、あの狐殿もそう気にしてはいないだろうがね」


 あはは、と艶やかで長い黒髪を弄びながら、文机に頬杖をついた女性は笑う。軽やかで媚びた様子のない、ともすれば男のような潔さのある笑い声だ。
 解かれたままの巻物の書物。流麗に流れた墨の文字を一つ一つなぞるように、彼女は細い指先を滑らせる。とはいえ、それを読んでいるわけではない。
 ただ、なぞっているだけだ。


「紅葉、読まない書物はただの紙の帯だよ」
「君がいなくなったら読むよ──それで、君はその後どうしたんだ?」
「どうしたも、こうしたも。そのまま小屋に帰ったよ」
「成程」


 ま、当たり前か。
 にこりともせずに女性、紅葉はそう返して、巻物からその指を離した。
 撫子は相変わらずの笑みを浮かべたまま、出された茶を口に運んでいる。出涸らしではあるけれど、客に対する態度がなっていない、この文車妖妃のもてなしとしては最高級だろう。
 古くからの知り合いだからこそ、文車妖妃の紅葉も撫子を追い出したりはしない。
 それどころか、面白がって近況を尋ねてくる始末だ。
 ねだられるがままに近況を話せば、紅葉は愉快そうに口元に弧を描く。
 書物と行灯しかないような、奇妙な部屋の中で話される、撫子のまわりで起こった出来事たち。それは、紅葉の日常にちょっとした刺激を与えていく。
 何しろ彼女は、この数百年間、一度として外に出ていない。外に出ていないからこそ、あちこちをふらりふらりとしている撫子に、こうして話をねだるのだ。


「しかし、あの娘もそこまで戻ったものか。“廓抜け”からそう経っていないだろう?」
「そうだねえ。あまり経っていない、といえばそうなるし、結構経った、といえばそうなるし」
「微妙なところか」
「時間的には、ね」


 ふうん、と紅葉は頷いて、冷え切った出涸らしの茶を呷る。たったの一度で空になった湯飲みに、撫子が急須で、新しく茶を注いだ。それは変わらず出涸らしの薄い茶ではあるが、紅葉が飲みきったものよりも温かい。
 不思議なこともあるものだ、と紅葉は呟き、肩にかかる黒髪を、手で払う。


「あの娘とあの妖狐が出会うとはね。陳腐な表現だが、ある意味で運命なのかもしれないな」
「おや。紅葉、君はあの狐の旦那が誰だか知っているのかな?」
「知らないわけじゃないさ、勿論ね。──私の記憶が正しければ、の話だが、確か彼は《天狐》だったはずだよ。この地方じゃない場所で、魑魅魍魎を治めていたはずだ。──尤も、この前挨拶に来た時はあの頃の面影なんざ、どこにもなかった気がするけれど」
「……そうなると──困ったな、なんだか嫌な予感がするなあ」


 相変わらず察しがいいね、流石だよ、と紅葉は緩く笑う。人の悪い笑みだが、紅葉に限ってはこれがいつもの笑い方だ。今更どうということもない。


「恐らくは、白桜はあの狐殿に会ったことがあるだろうよ。……ああ、撫子、そう厭な顔をするもんじゃない。まさか玉兎一匹を始末するために来るほど、狐殿も暇はしちゃいないだろ。私の見立てではただの里帰りさ」
「白桜は狐の旦那方を知らないようだったけれど?」
「“本当に出会ったことがあるというのかい”か。……あのくらいの妖狐ともなれば、妖力の弱い玉兎の記憶位は改竄出来るだろうよ」


 それに、と紅葉は言いおいて、「始末するなら、神社を訪ねたときにしているよ」とさらりと口にする。まあ確かにねえ、と撫子も不承不承頷いた。認めたくはないが、あれほどの妖気を持った妖狐なら、白桜の始末くらいはなんてことないだろう。


「玉兎は因果な種族だからね。……狐殿も同情したんだろうさ」
「……」


 玉兎は、妖力のないことで有名な妖怪だ。そのくせ、種族数も少ないから、心ない者達の手によって捕まえられては見せ物にされたり、或いは人目にはばかられるようなことをさせられたりと、酷い目に遭うことが多い。
 それを避けるためなのか、玉兎は生まれながらにして魅了の術を心得ていた。
 自分より強い相手を、美しい容姿で籠絡し、思うがままに操るのだという。時には身体を売ることで、各地の有力な妖怪に取り入って、保護して貰う玉兎もいるのだそうだ。
 そうしていくことでしか、安寧を手に入れられない種族が玉兎である。
 何しろ、玉兎にはその美しい容姿しか武器がない。薬師として大成する者もいるが、薬師として道を究めたところで、か弱くひ弱で脆弱なことには変わりがない。
 白桜も、その一人だ。
 彼女はかつて、とある廓で“遊女”としてすごした時期がある。それは彼女が望んだものではなく、彼女を無理矢理とらえた妖怪が、彼女を売り飛ばした先が廓であったと言うだけの話だ。
 その廓もまた、ただの廓ではなく。
 “遊女”に暗殺術を仕込み、暗殺者の真似事をさせるようなこともしていた、そんな場所だったのだ。
 白桜は捕まる前までに学んでいた、薬学の知識を買われ、玉兎ゆえの美しさを認められ、本人の望まぬままに“遊女”として働かされることとなってしまった。
 薬学の知識を応用し、毒殺を繰り返した彼女を、狭い籠のなかから拾い上げたのが撫子である。

 病弱だった妹を亡くし、心の安定が取れぬまま、ふと人肌に触れたくなって立ち寄った廓。
 別に女と遊びたかったわけではない。妹と同じ年頃の娘の体温に触れたいだけだった。
 代替品でも構わなかった。妹の面影を、何かに感じたかっただけで。
 偶々訪れた廓で、繋がれた白桜を見て──


 金を積んだ。


 今まで賭博で稼いでいた、ただの泡銭を殆ど積んだ。元々、賭博自体、金を稼ぎたくてしていたわけではないし、妹がいなくなった後の“穴”を無理矢理埋めるように賭博に没頭していただけだったから、金は貯まっても使い道がなかった。
 もう少し早く賭事を知っていたら、妹に必要だった薬を買う金が手に入ったのに、と後悔するくらいだったから、郭の主に金を積み、玉兎の娘を寄越すようにと言いつけるのにも躊躇いはなかった。
 寧ろ、こう使うのが正しいのだと確信を抱いたほどで。
 淫らに着崩された派手な着物の替わりに、地味で動きやすい着物を買い与え、むっとした濃厚な香の匂いの代わりに、娘は薬種の香りを漂わせるようになった。
 おどおどとしていて微笑むことなどなかった顔に、綻ぶような微笑みが増えていく。
 撫子はそれで満足だった。

 昔は妹と重ね合わせてもいたが、今は“白桜”が愛おしい。不毛な動機で近づいたことを知ってなお、兄と慕ってくれる、あの小柄な娘が。


だからこそ、白桜が心配でならないし、新しくきた妖狐が気になる。兄としての心配は当然のことだろう、と撫子は紅葉に煙が行かないようにして、煙管から口を離すと、ふっと煙を吐き出した。


「妬いているのかなあ、僕は」
「まあ、私からみればそうなるけどね。撫子、君がそうなるのも分からなくはないよ。あの子はか弱いからね、保護者として君が過保護になるのも、兄として案じるのも、何ら不思議じゃないさ。ただね、それが原因で彼女の世界が狭まってしまうとしたらどうだい? 君はそれを望むのか? 望まないだろう」
「……まあ、ね」
「納得がいかなさそうだね。ま、すぐに割り切られても驚くが」


 くすくすと可笑しそうに笑いながら、紅葉は「もう一杯どうだい?」と茶を勧める。
 すっかり薄くなったそれを勧めるのかい、と撫子もあきれたように笑う。
 

「胃に入ってしまえば、茶を三杯飲んでから水を二杯飲もうとも、薄い茶を五杯飲もうとも変わらないさ──まあそうぴりぴりすることもないよ」


 やきもちやきの兄は嫌われるぞ──そう悪戯っぽく笑ってから、紅葉は特別だからな、と小さな箱の中から饅頭を取り出すと、ぽんと撫子に放る。君ねえ、と饅頭を受け取りながら、撫子は「食べ物は投げない」と紅葉にしっかりとくぎを差した。


「堅苦しいことはいうな、撫子。君と私の仲じゃないか。……さて、ほかにも話はあるんだろう? 根掘り葉掘り聞かせて貰うからな」
「そんなに話を聞くのが好きかい? たまには君も外にでればいいだろうに」
「書物に日光は厳禁だよ、撫子」


 饅頭に大きくかじり付いてから、紅葉はにっこりと笑って撫子に話をねだる。
 その傍らでは、食べる隙も飲む隙も与えられなくなってしまった撫子の饅頭と、まだ湯気の残る薄い茶の残った湯飲みが、主の話が終わるのを待っていた。


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