「鳶、か」
ゆらりと風に流されて、細い煙が揺らめく。薬師の出て行った平屋の庭で、猫又の青年はぼんやりと空を見ていた。
鳶が一羽、声高に鳴き声をあげ、空をかけていく。風は穏やか。至って普通の、皐月の午後。
「さて、どこに行ったものだか」
ふふ、と口元を笑みに染め、猫又の青年は煙管をしまう。苦い煙の匂いが、ふんわりと途切れた。
口でこそ知らぬふりを装いはするが、彼は薬師がどこに行ったのかを知っている。人を拒むように生い茂った竹林のその向こう、主が居なくなった神社に、薬師の娘は向かったのであろう。
何かを懐かしむように、あの娘が神社を度々訪れているのを彼は把握済みである。
けれど、猫又の青年はそれに関して、何かを言うつもりはなかった。
そんなことで白桜の安らぎを奪いたくなかったし、彼女が神社を訪れるだけで癒されるのなら、それは彼にとっても“善いこと”であったから。
「神社に、良い思い出でもあるのかな──」
妹同然に想っている、小柄な玉兎の娘の経歴を思い出し、猫又の青年はふと息をつく。
玉兎という妖怪は、かくも過酷な境遇に、身を寄せるものである。
*
「おい、玄冬」
「どうかしたかい、白秋」
玉兎の娘が去った、神社の本殿。
障子を開け放ち、薄暗い闇を払うようにして光を取り込んだその空間で、妖狐が二匹、声を潜めて話す。
穏やかな黒狐は立ったまま。荒っぽい白狐はあぐらをかいて。
娘の、香と薬の混じったような、不思議な香りが、神社を包む妖気と混じり合って残っていた。
「あの娘、あの時の玉兎だったよな?」
「どうだろうか。玉兎とは因縁が深い身ですからね、どれが“あの時”なのか、私にはわからない」
「しらばっくれてんじゃねえよ、お前が一番最初に逃がした玉兎だろうが」
「はてさて」
「あのなあ、玉兎の中でも白毛はそうそういないってことくらい、お前も知ってるだろ?」
今更とぼけても無駄、と不機嫌そうな顔をした白秋に、はは、と玄冬が笑う。
お前なあ、と白秋が半眼になった。
「ここにいるって、知ってたのか」
「まさか。それについてはただの偶然だね。彼女がいるなんて、私は知らなかったよ」
「ふーん……ま、確かに」
自分の命をねらった奴がいるなんて、知ってたら帰ってこないよな。
冷たく響いた白秋の声に、過去のことは水に流しませんかと玄冬は微笑む。被害者のお前が何でそんなに寛大なのか分からん、と白秋はあぐらをかいた膝の上に頬杖をつく。野蛮なならず者みたいですよそれ、と玄冬が肩をすくめた。
「彼女は望んでしていたわけではありませんし、そも、あの日のことは覚えてもいないでしょう」
「あの娘の記憶を消したのはお前だもんな。そりゃ、覚えちゃいないだろうよ」
「なら、もう良いじゃありませんか。事実、彼女はこうして“廓抜け”しているのだし」
「まーな。お前が良いんなら俺も気にしないことにするよ。……しかしまあ、よく“廓抜け”出来たもんだな。玉兎、しかも白毛となりゃ、手放したがらないだろうに」
「どこかの賭博師が抜けさせた、というような話を耳にしたことはあったけれどね。……けれど、こうして平穏無事にやっているところを見ると、それも違うのかもしれないなあ」
使い方によっちゃあ、賭博より稼げるしなと白秋は腕を組む。
賭博師に買われた先で、その元から抜けだしでもしたのか。
小柄で儚げな雰囲気の漂うあの娘なら、一介の賭博師ごときならいくらでも落とせそうな気もした。
「あるいは、賭博師の方に何らかの思惑があるか……いずれにせよ、辛い目にはあっていないようだから良いでしょう」
「そうだな。……しかしさっきの様子だと……」
「まだ何か言う気で? 白秋」
「あ、いや、何でも」
くどい、というかのように目を細めた玄冬に、白秋はひらひらと手を振る。玄冬は、不機嫌一歩手前、といったところだ。玄冬が機嫌を損ねたときの大変さを善く知っていた白秋は、笑顔でそれをごまかした。尤も、あまり大したことではない。
玄冬が気付いているかいないかはわからないが、玄冬に声をかけられたときに、あの娘は確かに頬を赤くした。それがその場のものであるのならば構いはしないが、男のあしらいには慣れているであろう玉兎のそれである。
本気だろうか、いやしかし一目惚れなんてありがちな、と顔には出すことなく考える白秋に、玄冬は「普通に接して下さいよ」と息をつく。
「あん?」
「白桜さんのことですよ」
「お? おう、任せとけ」
「こんなことを言いたくはないですが、目くじらをたてる程の方でも無いでしょう。妖気だって私たちのそれより低い。玉兎は妖怪の中でも妖力が低いことで有名ですし」
「その気になりゃいつでも始末は出来るってか」
「結論だけ言えばね。私にその気はないですが」
微笑むことはせず、肩をすくめただけの玄冬に、白秋も真似するように肩をすくめた。
無用な問題を引き起こすのは、彼とて望んではいないから、玄冬の方針は白秋にも望ましいものである。
*
「ああ、お帰り、白桜」
「あ……撫子さん」
「神社にでも行ってきたのかい、あそこの妖気が君に染み着いている」
すん、と鼻を鳴らした猫又の青年に、白桜は身をすくませる。いやだなあ、別に怒るわけでもないのに、と撫子は笑って、小柄な玉兎の娘の頭を撫でた。
「その様子だと、新しい主様には会えたのかな?」
「あ、ええと、はい……」
すっと顔を赤らめた娘に、おやと撫子は目を細めた。この娘がこうなるのは、とても珍しいことである。
玉兎、という種族である以上、彼女らは色を売りながら生きるものが多い。ともすれば、自然と、惚れた腫れたの色恋沙汰には関心を抱かなくなってくる。一人の異性に思いを寄せる、それは則ち、玉兎である自らを──玉兎としての自分を、追い詰めることに繋がるのだから。
これは“廓抜け”の影響かなあ、と猫又の青年は頭をかいた。
彼が彼女を“抜けさせた”のは、そう最近のことではなかったが、彼女がこんな風に頬を染めたところを見るのは初めてである。
薄暗く、甘ったるい香の焚かれた座敷牢。
ゆらゆらと揺れる蝋燭に照らされた、かつての娘は、はだけた豪奢な着物を羽織り、愁いに濡れた瞳で青年を見つめていたものだ。
遊女でありながら、時には遊女の皮を被った暗殺者として。
飼い慣らされた哀れな兎。
白い髪と赤い瞳に、彼は今は亡い妹を重ね──
繋がることもせず、また、誘惑されることもなく。廓の主に規格外の金を積み、笑顔で「貰っていくけれど、異存はないね」と言い連ね。
それでもと渋った廓の主に、低い声で命のやりとりを持ちかければ、あっさりと娘は手に入った。
妹が没した後、その後にあいた穴を埋めるように刺激を求め、彼が走ったのが賭博であった。
時に命を賭けながら、ただただ刺激の為に行う賭事。使う必要も特になかった金ばかりが、彼の手元に残っていく。
ある意味で運命であったのだろうと、猫又の青年は思っている。
妹の代用品かと言われれば、それをすぐには否定できない。しかし、彼女が妹でないことくらいは、しっかりと理解している。
娘を手に入れた後、彼は賭事をすることが減った。それより平穏で、穏やかで、緩やかに、あいた穴を埋める物を知ったからだ。
「おや、顔が赤いよ、白桜」
「え? きっと、撫子さんの気のせい、です」
「そうかな。そうかもしれないな」
賭けには負けてしまったようだなあ、と撫子は微笑む。
“何もない”ことに賭けたのは良いが、何もなくはなかったのだから。
ただ、それはきっと白桜には善い方向に転がるであろう。
少し悔しいような気もしたが、彼女がそれを望むのならば何も言うまい、と撫子は穏やかに目を細めた。
さらさらと、木々の葉が風に揺られて鳴っている。