妖宴 3
「鳶、か」


 ゆらりと風に流されて、細い煙が揺らめく。薬師の出て行った平屋の庭で、猫又の青年はぼんやりと空を見ていた。
 鳶が一羽、声高に鳴き声をあげ、空をかけていく。風は穏やか。至って普通の、皐月の午後。


「さて、どこに行ったものだか」


 ふふ、と口元を笑みに染め、猫又の青年は煙管をしまう。苦い煙の匂いが、ふんわりと途切れた。
 口でこそ知らぬふりを装いはするが、彼は薬師がどこに行ったのかを知っている。人を拒むように生い茂った竹林のその向こう、主が居なくなった神社に、薬師の娘は向かったのであろう。
 何かを懐かしむように、あの娘が神社を度々訪れているのを彼は把握済みである。
 けれど、猫又の青年はそれに関して、何かを言うつもりはなかった。
 そんなことで白桜の安らぎを奪いたくなかったし、彼女が神社を訪れるだけで癒されるのなら、それは彼にとっても“善いこと”であったから。


「神社に、良い思い出でもあるのかな──」


 妹同然に想っている、小柄な玉兎の娘の経歴を思い出し、猫又の青年はふと息をつく。
 玉兎という妖怪は、かくも過酷な境遇に、身を寄せるものである。


*

「おい、玄冬」
「どうかしたかい、白秋」


 玉兎の娘が去った、神社の本殿。
 障子を開け放ち、薄暗い闇を払うようにして光を取り込んだその空間で、妖狐が二匹、声を潜めて話す。
 穏やかな黒狐は立ったまま。荒っぽい白狐はあぐらをかいて。
 娘の、香と薬の混じったような、不思議な香りが、神社を包む妖気と混じり合って残っていた。


「あの娘、あの時の玉兎だったよな?」
「どうだろうか。玉兎とは因縁が深い身ですからね、どれが“あの時”なのか、私にはわからない」
「しらばっくれてんじゃねえよ、お前が一番最初に逃がした玉兎だろうが」
「はてさて」
「あのなあ、玉兎の中でも白毛はそうそういないってことくらい、お前も知ってるだろ?」


 今更とぼけても無駄、と不機嫌そうな顔をした白秋に、はは、と玄冬が笑う。
 お前なあ、と白秋が半眼になった。


「ここにいるって、知ってたのか」
「まさか。それについてはただの偶然だね。彼女がいるなんて、私は知らなかったよ」
「ふーん……ま、確かに」


 自分の命をねらった奴がいるなんて、知ってたら帰ってこないよな。
 冷たく響いた白秋の声に、過去のことは水に流しませんかと玄冬は微笑む。被害者のお前が何でそんなに寛大なのか分からん、と白秋はあぐらをかいた膝の上に頬杖をつく。野蛮なならず者みたいですよそれ、と玄冬が肩をすくめた。


「彼女は望んでしていたわけではありませんし、そも、あの日のことは覚えてもいないでしょう」
「あの娘の記憶を消したのはお前だもんな。そりゃ、覚えちゃいないだろうよ」
「なら、もう良いじゃありませんか。事実、彼女はこうして“廓抜け”しているのだし」
「まーな。お前が良いんなら俺も気にしないことにするよ。……しかしまあ、よく“廓抜け”出来たもんだな。玉兎、しかも白毛となりゃ、手放したがらないだろうに」
「どこかの賭博師が抜けさせた、というような話を耳にしたことはあったけれどね。……けれど、こうして平穏無事にやっているところを見ると、それも違うのかもしれないなあ」


 使い方によっちゃあ、賭博より稼げるしなと白秋は腕を組む。
 賭博師に買われた先で、その元から抜けだしでもしたのか。
 小柄で儚げな雰囲気の漂うあの娘なら、一介の賭博師ごときならいくらでも落とせそうな気もした。


「あるいは、賭博師の方に何らかの思惑があるか……いずれにせよ、辛い目にはあっていないようだから良いでしょう」
「そうだな。……しかしさっきの様子だと……」
「まだ何か言う気で? 白秋」
「あ、いや、何でも」


 くどい、というかのように目を細めた玄冬に、白秋はひらひらと手を振る。玄冬は、不機嫌一歩手前、といったところだ。玄冬が機嫌を損ねたときの大変さを善く知っていた白秋は、笑顔でそれをごまかした。尤も、あまり大したことではない。
 玄冬が気付いているかいないかはわからないが、玄冬に声をかけられたときに、あの娘は確かに頬を赤くした。それがその場のものであるのならば構いはしないが、男のあしらいには慣れているであろう玉兎のそれである。
 本気だろうか、いやしかし一目惚れなんてありがちな、と顔には出すことなく考える白秋に、玄冬は「普通に接して下さいよ」と息をつく。


「あん?」
「白桜さんのことですよ」
「お? おう、任せとけ」
「こんなことを言いたくはないですが、目くじらをたてる程の方でも無いでしょう。妖気だって私たちのそれより低い。玉兎は妖怪の中でも妖力が低いことで有名ですし」
「その気になりゃいつでも始末は出来るってか」
「結論だけ言えばね。私にその気はないですが」


 微笑むことはせず、肩をすくめただけの玄冬に、白秋も真似するように肩をすくめた。
 無用な問題を引き起こすのは、彼とて望んではいないから、玄冬の方針は白秋にも望ましいものである。
 

*


「ああ、お帰り、白桜」
「あ……撫子さん」
「神社にでも行ってきたのかい、あそこの妖気が君に染み着いている」


 すん、と鼻を鳴らした猫又の青年に、白桜は身をすくませる。いやだなあ、別に怒るわけでもないのに、と撫子は笑って、小柄な玉兎の娘の頭を撫でた。
 

「その様子だと、新しい主様には会えたのかな?」
「あ、ええと、はい……」


 すっと顔を赤らめた娘に、おやと撫子は目を細めた。この娘がこうなるのは、とても珍しいことである。
 玉兎、という種族である以上、彼女らは色を売りながら生きるものが多い。ともすれば、自然と、惚れた腫れたの色恋沙汰には関心を抱かなくなってくる。一人の異性に思いを寄せる、それは則ち、玉兎である自らを──玉兎としての自分を、追い詰めることに繋がるのだから。
 これは“廓抜け”の影響かなあ、と猫又の青年は頭をかいた。
 彼が彼女を“抜けさせた”のは、そう最近のことではなかったが、彼女がこんな風に頬を染めたところを見るのは初めてである。


 薄暗く、甘ったるい香の焚かれた座敷牢。
 ゆらゆらと揺れる蝋燭に照らされた、かつての娘は、はだけた豪奢な着物を羽織り、愁いに濡れた瞳で青年を見つめていたものだ。
 遊女でありながら、時には遊女の皮を被った暗殺者として。
 飼い慣らされた哀れな兎。
 白い髪と赤い瞳に、彼は今は亡い妹を重ね── 


 繋がることもせず、また、誘惑されることもなく。廓の主に規格外の金を積み、笑顔で「貰っていくけれど、異存はないね」と言い連ね。
 それでもと渋った廓の主に、低い声で命のやりとりを持ちかければ、あっさりと娘は手に入った。


 妹が没した後、その後にあいた穴を埋めるように刺激を求め、彼が走ったのが賭博であった。
 時に命を賭けながら、ただただ刺激の為に行う賭事。使う必要も特になかった金ばかりが、彼の手元に残っていく。
 ある意味で運命であったのだろうと、猫又の青年は思っている。


 妹の代用品かと言われれば、それをすぐには否定できない。しかし、彼女が妹でないことくらいは、しっかりと理解している。


 娘を手に入れた後、彼は賭事をすることが減った。それより平穏で、穏やかで、緩やかに、あいた穴を埋める物を知ったからだ。


「おや、顔が赤いよ、白桜」
「え? きっと、撫子さんの気のせい、です」
「そうかな。そうかもしれないな」


 賭けには負けてしまったようだなあ、と撫子は微笑む。
 “何もない”ことに賭けたのは良いが、何もなくはなかったのだから。
 ただ、それはきっと白桜には善い方向に転がるであろう。
 少し悔しいような気もしたが、彼女がそれを望むのならば何も言うまい、と撫子は穏やかに目を細めた。
 

 さらさらと、木々の葉が風に揺られて鳴っている。


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bkm


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