妖宴 2
 

 殺風景で何もない、薄暗い部屋だ。
 当たり前だ、ここを出たときに必要なものは全て持って行ったし、要らない物は処分した。
 けれど、何もないのに酷く懐かしい。
 滑るようにして障子の向こう側に進んだ玄冬が、二歩ほど進んだところで歩みを止める。
 何かあったかと白秋は声をかけ、それに気付いて目を細めた。


「誰だ」


 殺風景な部屋の中、小柄なかたちが僅かな光を受けて、ひっそりとそこにある。二人には背中を向けているようだった。
 丸みを帯びたその姿は、恐らくは娘のものであろう。闇に溶けるような紺の装束が、微かな衣擦れの音を立てた。


 ゆっくりと、小柄なかたちが二人を振り返る。
 さらりと流れた白い髪は、暗闇の中でも薄く映える。花のように赤い瞳が、二人をとらえた。
 は、と二人の妖狐は息をのむ。
 儚さの漂う、美しい娘であった。
 椿のような赤い瞳を涙に濡らし、娘は惚けたように二人を見上げる。
 お前、と言いかけた白秋を制し、玄冬は娘の側へと寄っていく。


「何故、このような場所で泣いているのですか」


 ぱたぱたと涙をこぼしながら、美しい娘は玄冬に縋るような目を向けた。
 すっと玄冬の目が細められる。
 柔らかそうな身体を引きずりながら、娘も玄冬に近寄っていく。
 白い髪の間から、ぴんと立った兎の耳が覗いている。
 娘は、腰を落とした玄冬の胸にしなだれかかりながら、何も言わずに玄冬の肩口に顔を埋めた。


 白秋はその様を静観している。玄冬がこの手に二度は引っかからないことを知っていたし、何よりこの娘は妖力も二人のそれより各段に弱い。
 玉兎、と白秋は口の中で呟く。
 色香で惑わし、人を籠絡させてしまうという、兎の妖怪だ。
 玉兎とは並の妖怪よりも更にか弱く、だからこそそういう手段を取ることで己を生き長らえさせる。
 白秋の目から見ても明らかなように、目の前の玉兎は玄冬を惑わそうとしていた。


「辛いのです、苦しいのです──」


 すすり泣いているはずなのに、艶のあるその声。妖気が混じっているのは明白だった。
 玄冬は、穏やかに微笑みながら「お止めになって下さい」とその玉兎の肩に手をおいた。
 玉兎がよく身につけている装束は、豊かな胸元が強調される、肩の出た装束である。むき出しの肩に手を置かれた玉兎の娘は、甘えるように玄冬の胸に身体を押しつけた。


 甘くなったもんだよなあ、と白秋は思う。昔は、玄冬もこれほど甘くはなかったし、纏う雰囲気も穏やかではなかった。
 だからこそ、天狐としてあの土地に君臨していたのだが。
 個性的と言う言葉を遙か彼方に置いてきた妖怪達だ、穏やかな者では纏められるわけもない。
 時に暴君だの、横暴大将だのと言われていたのが、天狐時代の玄冬である。今やその面影はない。


「お止めになって下さい、玉兎の方」


 あの頃を感じさせない柔らかな声で、黒狐の玄冬は言う。玉兎の娘は、ふわりと顔を上げた。


「貴女はもう、そのようなことはせずとも良いのですよ。私、玄冬も、側におります白秋も、貴女に危害を加えようとは思っておりません」
「え──」
「玉兎とは辛い境遇に身を置くものと存じております。ですが、ここならば──貴女はその境遇から逃れられる、と信じて参られたのでしょう。辛い思いを自らすることはありません、私を惑わす必要はありませんよ」


 知性を感じさせる、低く、心地の良い声だった。暗闇の中で、玉兎の娘の頬が赤く染まったのを白秋は知る。どちらが惑わしているのだか分かりもしない。
 娘の赤い瞳と、玄冬の金の瞳がお互いの瞳に映り込む。
 瞳が合わさるその瞬間に、玄冬は優しく微笑んで見せた。


「この神社の手入れをなさっていたのは、貴女様でしたか。貴女様の香の匂いが、この場の妖気と混じっておりますね」
「……も、申し訳ございません」 
「いえ、私が居たときのそのままで保たれていたので、少々驚きました。ありがとうございます」


 これからもここで快適な生活が送れそうです、と笑った玄冬に、玉兎の娘は恐る恐るといった様子で、「貴方様がこの神社の主となられる方でしょうか」と口にした。


「はい。私は何千年か前にこの地を抜け出ましたが、この度この地に戻ってきました次第です」
「貴方様は、ここの……主の方であられたお方、なんですね」
「はい。遠い昔ではありますが、確かにこの社は私のものでありました」
「では──」


 何かを言おうと口を開いた玉兎の娘は、目を伏せてふと口を閉じる。何かありましたかと尋ねた玄冬に、無礼を働きましたことをお詫びさせて下さいませ、と深々と頭を下げた。
 土下座などとはとんでもないと、玄冬は慌てて、頭を下げた玉兎の娘に、「顔を上げて下さい」と優しく語りかける。


「貴女様が謝ることがありましょうか。あのような行動に出てしまわれるのは、玉兎の種であれば仕方のないことでございます。それよりも、ずっとこの社を綺麗に保って下さっていた貴女に、私は頭を下げねばなりません」
「そんな、私……私は、ただ、私のためにしていたことですから……」


 消え入るような、小さな声だ。はて、それはどういった意味でしょう、と聞いた玄冬に、玉兎の娘はぽつぽつと紡ぎ始める。


「私はまだ、この地に参って千年も経ってはおりません。少し前にやっと“土地憑き”になれたような新参者です」
「では、この神社の管理は──」
「この神社に漂う妖気が、私にはとても心地の良いものなのです。それに気づきましてから、この神社をひっそりと訪れては、この社を永く保たせることが出来るよう、尽力して参りました。──この神社は不思議ですね、綺麗にすればするほど、あの、心地の良い妖気が強く漂います」


 ああ、成る程と白秋は納得する。神社と玄冬の妖気は繋がりが深く、言わば鏡と反射光の関係にある。鏡は磨かれれば磨かれるほど、その反射光を強くするし、磨くことを怠り、鏡を曇らせてしまえば、反射光も弱くなる。
 社に込められた玄冬の妖気とは、いわば反射光なのだろう。社を綺麗に保てば、反射光である妖気は強くただよう。
 手入れのされない神社仏閣建物が、すぐに朽ち落ち、うらぶれてしまうのも、似たような理由だ。
 汚い場所では霊気や妖気も鈍り、その土地を護る力も弱くなる。そうなれば、新たなる穢れを呼び込み──あっと言う間に朽ち果ててしまう。


「成る程、ここは貴女様の憩いの場でありましたか」
「留守にされている間に忍び込み、申し訳ございません……」
「いえ、何もないところですから、物盗りのしがいもないでしょうし。この場を貴女様が護って下さっていたこと、とても有り難く思う次第です」


 にこやかに語る玄冬は、「貴女様の名を教えては貰えませんか」と玉兎の娘に声をかける。知っているくせにと白秋は思ったが、この娘は玄冬のことなど覚えてはいないだろう。
 それを知っているからこそ、玄冬は初対面であることを装っている。そして、玄冬がそうするのならば、白秋とて同じだ。


「白桜……玉兎の、白桜と申します、玄冬様、白秋様」
「ああ、清廉な貴女様に相応しい名前です」
「白桜ね、良い名前だ」


 にこりと笑った妖狐二匹に、白桜は震える声で紡ぐ。


 ──また参っても、宜しいでしょうか。


「貴女様から憩いの場を取るほど、私は鬼ではありません。疲れたときでもなんでも、来たいときにいらして下さい」
「男二人ってのもむさいからな。女の子が来てくれるのは嬉しいね」


 良かった、とほっとした顔を見せる玉兎に、玄冬は優しく眼差しを向ける。その眼差しの意味を汲み取り、白秋は、ふ、と息をついた。
 波乱の予感はしているが、出戻った故郷はなかなかに楽しめそうだ。
 懐かしくも新しいこの地に、白秋は「またよろしくな」と心中で呟く。
 

 鳶だろうか、鳥が声高く鳴きながら飛んでいく。


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bkm


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