妖宴
 皐月、新緑が目に鮮やかな季節。
 初夏の匂いをはらませながら、ふうわりと風が抜けていった。一羽、鳥が鳴きながら、青い空へと飛んでいく。
 ああもう茶の季節か──と、煙管をくわえた青年が、ふうと煙を吐き出した。細く白いそれは、空気に混じって空へと上る。雲にはなりそうにないねえ、と、一人微笑んだ。


 彼の目の前には、乳鉢に木の根、草の実、時には乾燥させた蜥蜴の尾などを入れながら、ごりごりと混ぜる娘がいる。


 ごりごり、ごりごり。


 特徴的で、規則的なその音。
 入れたものを擦り潰すために動かされる、白い棒状の石の先は、木の根から染み出る液で、黄色く染まっている。
 煙管をふかす青年からすれば、慣れ親しんだ光景。
 乳鉢を黙々とかき混ぜる娘から漂う、香と薬の匂いが混じった不思議な空気も、とうの昔に慣れたもの。


「白桜、空が綺麗だよ」
「ふふ、皐月の空は澄みますものね」


 煙管から漂う白い煙の匂いが、娘の不思議な香りと混じるのも、ずいぶんと昔からの習慣のようなものだ。
 家屋の縁側、空がよく見える場所。
 縁側から足を投げ出し、猫又の青年は首だけを傾けて、ごりごりと乳鉢をかき混ぜる娘を見ていた。


「今度は何の薬だい、白桜」
「火傷に善く効くお薬を、と」
「それは飲むのかな?」
「いいえ、塗りつけるものです」
「ああ、良かった。苦そうな色をしているからねえ」


 猫又の青年の、二つに割れた尾の先が、ふよりふよりと揺れているのを見て、娘は口元をほんの少し綻ばせる。穏やかで優しい春の午後。
 猫又の青年は猫又の青年で、時折ゆらりと揺れる、娘の白い兎の耳に目を細めているのだが、薬を作るのに忙しい娘は、きっと気付いていないだろう。


「そういえば、神社に新しい者がやってくるそうだねえ」
「あの神社に?」


 娘と青年が暮らす、この、人目をわざと避けているような小さな村には、昔から一つだけ、神社があった。管理するものなどいなかったが、それでも、今でもあの神社は妙に綺麗なまま、そこにある。昔々、そこには妖狐が憑いていたそうである。


「何がくるのでしょう」
「何だろうねえ。神社の管理を任される位の者だ、そう下級な妖ではない、と僕は思うけれど」
「……」
「心配はしなくていいよ。……何かあったら、僕が白桜、お前を守るから」
「いえ、……でも」
「ふふ、でも、きっと大丈夫さ。そんな気がするよ」


 ごりごりと乳鉢を擦る音が止んだことに、「手が止まっているよ」と猫又の青年は微笑む。


「大丈夫、僕はお前に何もないことに賭けているから」


 撫子色の、派手な模様の入った羽織が、風にあおられて、ほんの少し揺れる。
 ふ、と青年が吐き出した煙は、ゆっくりと空に。


*


「しッかし、玄冬、お前、何でまた急に里帰りなんか……」
「はは、大した理由はないんだ。ただ、そうだな、何千年も生まれ故郷の地を踏めないのが寂しくなってしまってね」
「寂しい、か。てめえで出ていったってのに我が侭だよなあ」


 はは、と黒髪の青年は穏やかに笑って、ピンと尖った狐の耳を微かに動かした。
 彼は、空狐と呼ばれる、妖狐の中でも高位の狐である。
 名は玄冬。黒き冬の夜に生まれたから、名が玄冬なのだと、彼は聞いたことがあるが、それが確かなことなのかはもう分からない。何千年も前のことであるから。
 彼は“国の繁栄の象徴である黒狐”であり、彼は数年前まで、とある地方で有力な妖怪として名を轟かせていた。平たく言ってしまえば、隠居した国王とでも言うのか。
 その頃の彼は【天狐】と、妖狐の中では最高の位にいたのだが、今はその座を別の妖狐へと譲り、こうして、生まれ故郷に帰ってきている。国王が世襲制ではなかったからこそ、出来ることだった。


「とは言うけれどね、白秋。私にとっての故郷は、守るべき地は、あの地ではなく、この地であった、というだけのことなんですよ」
「そりゃまあ、そうだろうよ」
「退位してからも付き合ってくれる君には感謝してるよ」
「当たり前だよ。お前があの国を出てったら、俺もお役御免だからな。幼馴染の帰郷と来れば、俺だって帰郷したくもなる」


 朱の装束を風にたなびかせ、白い耳を立たせながら、少年のような快活な笑みを浮かべるのが、かつて玄冬が天狐として名を馳せていた頃に、彼の“右腕”として部下を勤めていた白秋である。
 それまでは主と部下、ではあったが、そもそも二人は幼馴染であり、今回、退位した玄冬の帰郷にあわせ、白秋も同じ故郷へと帰ってきたのだった。
 部下と主という関係の頃は、二人きりのときか酒宴の時でもなければ、こうおいそれと軽口も叩けはしなかったが、幼馴染の「白秋」と「玄冬」に戻ってしまえは、かつての、幼かった頃のあの気持ちの良い空気が生まれる。


 つまるところ、二人とも大きな役に押し込められるのに嫌気が差してしまったのだ。
 それを無責任と謗るものは少なくなかったが、実際に押し込められてからでないと分からぬものもある。
 謗りや誹謗からはさっさと姿をくらまし、二人は幼かったあの頃のような、悪戯小僧の顔をして、念願の地へと舞い戻った。


「いやあ、随分変わっているものかと思いましたが」
「そんなに変わらないもんだな。土地憑きのおかげってのもあるんだろうが」
「とはいえ、何千年もしているとなれば、世代交代もしているでしょう」
「世代は変わっても、落ち着く空間ってのはそうそう変わらないんじゃねえか?」


 “土地憑き”。土地に根ざして生活を営む、いわば“現地民”の妖怪のことだ。
 “土地憑き”が土地を保つからこそ、土地は生きていくのだという。かつてはかれらも“土地憑き”ではあったのだが、外に出て行くと決めてからは“土地憑き”を抜けている。
 通常は“土地憑き”は世代交代をしながらその土地を守っていくものなのだが、二人のように、たまに土地から抜けるものもいる。
 そんな時は、新しく土地にやってきた妖怪が、その土地に根ざすのだ。何百年もその土地に住んでいれば、いずれは“土地憑き”になる。


「そういうことなんでしょうね、この様子を見ていると。……はてさて、私が昔憑いていた神社はどうなっていることやら」
「崩れてなきゃいいな。まだ無人って話だろ?」
「ええ。私たちが抜けた日から、誰もあの神社には憑いていないそうですよ」


 好都合といえば好都合ですけど、と玄冬は穏やかに微笑み、竹林の中をさくさくと進んでいく。
 滅多に訪ねる者のない、神社への入り口である。
 頬を擦る竹の葉には気も留めず、二人はずんずんと懐かしの神社に近づいていく。
 管理するものがいないからか、竹は育ち放題で少々進みにくかったが、この分だと神社が荒らされるような目には遭っていないだろう。
 折られることも掻き分けられることも無く、伸び放題のこの竹林がいい証拠だ。
 小柄な者なら竹林をかきわけることも無く、目的の神社には辿り着けるであろうが、そもそも、そこまでして行く意味が、あの神社には無いのだ。
 必要なものは、玄冬が天狐としてこの地を出て行くときに一緒に持っていってしまったし、他の妖怪には神社などという場所は興味をそそられもしないだろう。


 がさがさと音を立て、竹林を抜け出た場所にあるのは、どこか物寂しい神社である。
 狛犬の変わりに、石造りの狐が二匹、静かに佇んだその場所は、彼らの記憶の中にあるそこと、寸分違わぬ姿でその場に在った。


「……これは驚いたな、誰も管理してないんじゃなかったのか?」
「……変わっていませんね、あの時と同じだ」
「玄冬、お前の妖気が染み付いたまんまだけどよ──まさか、そのせいか?」
「まさか。私の妖気にもそこまでの力はないでしょう。……誰かが、こっそり管理してくれていたのかもしれませんねえ」


 神社の境内、鳥居、そして本殿に至るまで、玄冬が昔残していった妖気がうっすらと漂っている。
 妖狐にはありえないほどの妖気を秘めていると称された、玄冬の妖気である。
 これじゃあ確かに、滅多なことでは近づけやしねえわな──と白秋は苦笑する。
 何千年もたった今でも、この地を護るかのように漂う妖気だ。
 神社に害を為そうものなら、この妖気は、妖気の持ち主である玄冬のように、ならず者にも簡単に襲い掛かるのだろう。


 ひたり、と音をさせて、玄冬が静かに本殿へと続く、木で張られた床に足をつける。軋むことなく、床は玄冬を受け入れた。
 ああ、帰ってきたのだ──と、玄冬は心のどこかが緩んだのを感じる。
 続いて、履物を脱いで床に上った白秋も、どこかほっとしたような顔をしていた。


 この神社は、拝殿が無い分、本殿が大きい。本殿といっても、所謂“御神体”はそこに祭られてなどいない。
 “御神体”とは玄冬自身であり、それはつまり、この神社が玄冬のものであることを物語っている。


 ひたひたと密やかな音をさせながら、二人の妖狐は本殿へと足を進める。
 段々と、かつて玄冬が残した妖気が色濃く漂うのが分かった。
 脳裏に浮かぶ懐かしい記憶を味わいながら、二人の妖狐は本殿の前で立ち止まる。
 外界と隔てるように取り付けられた障子を、玄冬がするりと開け放った。


 


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