生者が須く寝静まる夜、少女と言うには少し幼い娘がカンテラの明かりを伴って、夜道をふらふらと歩いていた。
お気に入りと言うより体によく馴染んでいると言った方が正しい、白くもこもことしたケープの下に、同じく白っぽい服を着込み、飾り気のない薄茶色のブーツだけを一定の感覚でゆったりと動かす。
舗装もされていない道では、靴音もそれほど響かない。
――それでも、その音はよく聞こえた。
何か重い物を擦るような音。細かな砂利がざりざりと微かな音を立てている。幾ら何でもこんな夜に一人で外に出たのは失敗だったのかな、と思いつつも、娘はすぐにその考えを切り捨てた。
見た目の幼さとはとても似合わない、大人より乾燥した考えを持つ娘にしてみれば、一人で外に出ねばならなかったのは必然とも言えることだったから。
娘には身寄りがない。両親は幼い頃に他界し、それから娘と娘の兄は、肩を寄せあい暮らしてきた。
近くに住んでいた親切な青年に度々迷惑をかけたりしたこともあったが、まあ、それなりに楽しくやれていた。
状況が変わったのはいつだったろう。
やむを得ぬ理由――それがどんなものだか、兄と娘には分からなかったが――で親切だった青年が、引っ越してしまったときだろうか。
あの頃にはもう、娘と年の離れた兄は十分に働ける年齢で、兄は仕事に打ち込み汗水を垂らしながら、せめて親の代わりになれたなら、と娘を育ててくれていた。
その兄も、数年前に村で流行った病で命を落とし、娘は独りぼっちになってしまった。
思えばあの時から自分はおかしかったのかもしれないな、と娘はカンテラを手にぼんやりと歩く。
引き取って貰った村の孤児院では周りの子と馴染めず、見かねて引き取ってくれた年老いた学者の家では、その家の主だった学者が急に亡くなり、また身寄りを無くした。
村の知恵袋だった学者が急逝したことに村の人々は悲しみ、また、娘――エカを「魔女」だと見当違いに罵った。
エカが来てからすぐに学者は死んだから、村人にはエカが何か、こう――魔術で呪い殺したようにでも見えたのかもしれない。
兄を亡くした流行り病ですら自分のせいにされて、エカは内心憤った。
――呪い殺せるなら貴方達を呪ってるわ。
何故、親切で誠実であった兄と学者を呪わねばならないのだろう。年端もいかぬ子供をそんな風に罵って楽しいか、とエカは子供らしくもなく述べると、今日この夜、学者の家にあった少しの荷物を全部纏めて学者の家を飛び出てきた。
あんなに愚かな村の連中にこれ以上は付き合っていけないと、エカは早々に見切りをつけた。
今までの経歴からくる、年不相応な言動が悪魔・魔女的に村の人々に映ってしまったことを、エカは知らない。
村人からすれば子供らしさのないエカは不気味なものであり、エカからすれば自分の言動はごく一般的で、何の変哲もなかった。“大人は皆そうしていた”。
エカは自分のことを特に不幸とも幸薄いとも思わなかったし、殊更自分が子供とも思っていなかった。
鼻水を垂らして母に寄り縋る同年代と自分はあくまで別のものとして割り切っていたし、親が、明確な保護者がいない以上、甘ったれた餓鬼には成り下がれなかった。
エカからしてみれば異常なのは村の人々だった。
“子供らしくしろ”と言われても、エカには“子供”が分からない。
それが母に寄り縋ることなのだとすればエカに母はいないし、鼻水を垂らすことならば御免だった。みっともなくて自尊心が許さない。
だからエカは村を出た。村にいても自分にメリットはないし、お互いに嫌な思いをするだけだ。
――とは言っても。
肝の据わった子供ではあるが、やはり夜道ともなれば怖い。
尤も、その「怖さ」は子供がよく抱くような、幽霊やら怪物などの正体不明の者に対する恐怖などではなく――追い剥ぎやら暴漢、夜遅く外を徘徊するような人間――道を踏み外した“人”に対する恐怖だ。
現に、先ほどから背後でしている不気味な重い音は未だに少女の後ろについてきている。
砂利を丁寧に踏んで歩くような、重い音だ。
自然と少女の足も速まったが、いくら歩く速度を速めても音は少女を追ってくる。
真っ暗な夜道、星のない夜空、おぼろげなカンテラの光。
真夏の夜に話す恐ろしい怪談話と同じシチュエーション。
自然と鼓動も高鳴って、吐く息の間隔も詰まっていく。嫌だ怖いと思っても、こんなくらい夜道には――そもそも、こんな遅い時間帯には外を歩く人間がいない。
エカはようやく学者の家を出てきたことを悔やんだ。
引き戻されて罵倒される可能性は高かったかもしれないが、日が出てから家を出るべきだったのだ。
こわい。その三文字だけがエカの頭を支配していた。
もはや走り出す足をエカは止められない。走って走って、あの音から逃れなくてはならない。
夜道を子兎のように走り出したエカだったが、走り出した直後に何かに躓いて転んでしまった。
それでも転んだ拍子に転がったカンテラを引っ掴んで走り、じくじくと痛むはずの両膝は恐怖に麻痺したのか、痛みを伝えてくることはなかった。
それでも音は追ってくる。
学者の家で、本だけを読んで過ごしていたようなエカには、もうほとんど体力は残っていなかった。
ふらつく足と、呼吸の乱れ、白くかすんでいくような視界に耐え切れず、エカは座り込んでしまう。
手に持っていたカンテラをそっと胸に引き寄せて、エカは音の正体を確かめるべく、その赤い瞳をそっと暗闇に滑らせた。
ぼんやりと浮かぶ『それ』。
エカはその目を見開いて、ぱくぱくと口を開け閉めした後に――
叫んだ。
***
「――なんだァ?」
いつもの『使命』を終わらせた青年が、真っ暗な夜道を歩いていたときのことだ。
月も出ていなければ、梟すらも鳴いていないというような、限りなく不気味な夜の暗闇を裂くようにして、高く引きつった声が響く。
女――というより、年端も行かぬような少女の悲鳴だろう。
こんな夜にろくでもねえな、と青年は月のような銀色の髪をかきあげて、悲鳴の上がった方向に走った。
青年が身に着けている白い外套が、宵闇の中をはためく。
真っ暗な夜でも青年には辺りの風景が良く見えていた。
青年はお世辞にも状態が良いとはいえない獣道のような道を全速力で走る。普通の人間ならば出せないような速さで青年が走れるのは、青年が人ではないからだ。
青年は――生まれもっての『吸血鬼ハンター』なのだから。
吸血鬼とは闇に生き、人の生き血を啜る生き物だ。そんな吸血鬼を滅ぼすハンターも、夜の闇でも動けるように、夜目は利いた。
ほとんど枯れてしまったような木の枝をすり抜け、行く手を阻む草むらを裂くようにして走る。
さほど息を乱すこともなく、難なく悲鳴の元へ駆けつけた青年が目にしたのは――
一般的な成人男性より一回りは大きい、二足歩行している狼と、その狼に近寄られて涙目になっている、まだ幼い――十を少し越えたあたりだろう――年齢の少女だった。
青年は呆れたように頭をかいて、「おいおい」と狼のほうに話しかける。
「まさか食おうってわけじゃねえよな?」
うさぎっぽい(・・・・・・)けどよ、と少女の白い髪と赤っぽい目をちらりと見た青年に、二足歩行の狼はふるりと頭を横に振った。
少女のほうはそんな青年に潤んだ瞳を向けている。
あー、と青年は困ったように呻き、少女の近くにしゃがみこんだ。
青年は女性の扱いには長けていたものの――まだ幼い少女の扱いには馴れていなかった。
「取り合えず怖くないから泣くなよー……?」
少女の頭をぽんぽんと叩いたところで、少女の涙腺は決壊したようだった。
真っ赤な目からぽろぽろと涙を流し、子供のように――実際子供なのだが――泣きじゃくっている。
それを見ていた狼が、申し訳なさそうにしゅんとうなだれた。
少女が泣き出してしまったことにもう一度頭をかいて困った顔をした青年は、「お前さあ」と先ほどよりも少女と距離を開けた狼にため息をつく。
「お前……怖がられるんだから気をつけろって。んで、どうしたんだこの子?」
「……一人で歩いていたんだ」
「あん?こんの真夜中にか?親はどうした?いないのか?」
「ああ……だから心配で」
「尾行し(つけ)てたって訳か」
青年の言葉に二足立ちの狼はゆっくりと頷いた。
そりゃ大変だ、と青年は困ったような顔を作ったが、口元はうっすらと笑っていた。
ぐすぐすと泣きじゃくる少女の頭を撫で、普段の彼からは想像できないほどの優しい声で「泣かなくて良いぞ」と言えば、少女はおそるおそる、といった様子で頭を上げる。
真っ赤な瞳が青年を覗き込んでいた。
青年はその青い目をゆるく細める。
「そんな泣いてると可愛い顔が台無しだぞー」
ひくっ、としゃくりあげた少女は、青年の青い瞳を見てごしごしと目尻を擦った。
擦ると腫れるぜ、という青年の言葉に、少女は目元にあった手を動かすのをやめる。カンテラをぎゅっと抱きしめた少女は、ゆっくりと立ち上がった。
立ち直り早いなオイ、と青年は心の中でつっこむ。普通の子供なら、泣き止むことなんてまずない。
「貴方達、何」
ぽろりとこぼれた少女の言葉に、青年は「何だろうな」とからかう様に返す。
狼のほうは微動だにせず、少女を遠くから見守っているような状態だ。
ほんの少し風が吹き、木の葉をさやさやと鳴らす。少女はカンテラを持ち上げて、前が良く見えるようにした。
ぼんやりとした光の中、暗闇に浮かんでいるのは毛むくじゃらの狼だ。
ざり、と砂利を踏みしめるかすかな音がして、カンテラのぼんやりとした橙の光がゆらりと動く。
少女が一歩、狼に近づいた。
狼は一歩後ろに引く。
「何で逃げるの?」
少女が狼に聞いた。
おぼろげな暖かい色の光が、揺れて狼を照らす。
毛むくじゃらの顔が存外怖くないこと、毛に埋もれたその真っ黒な瞳が優しげなことに少女は気付いた。
白い外套の青年はくくっ、と喉の奥のほうで笑っている。
カンテラの柔らかな光が、狼の黒い瞳を艶やかに照らし出した。
狼は、低く唸るようにして声を絞り出す。
その声は夜の闇に寄り添って、緩やかにカンテラの明かりに融けていく。
「……怖がったからだ」
「それに関しては申し訳ないと思っているわ」
でも今は全然怖くないの、不思議ね――と少女はゆったり笑って、戸惑ったように瞳を震わせる狼に駆け寄って、ぴょんと跳ねて抱きついた。
「ねえ、貴方達はなあに?」
狼と青年は顔を見合わせる。
青年がぶふりと噴出して、「こわーいこわーい怪物だぞう」とふざけた様に両手を頭の上に伸ばし、少女の頭上に影を作る。
狼はそんな青年を、訝しげに見つめていた。
「ふうん、怪物なの」
少女は納得したようにそう呟くと、にこりと笑った。
「ねえ、わたしも仲間に入れてくれる?」