零、田舎
「夏休みも、もうすぐ終わっちゃうわねえ」


 田舎――母方の両親の住んでいる村――へ向かう際に、僕の母が言った言葉だ。
 今となっては懐かしいし、もう戻れないことも知っている。
 あの時に別の選択をしていたら、僕はこんなことにはなっていなかったのかもしれないけれど、もう遅いだろう。
 夏休みは本来、終わるべきものなのだから。






 電車特有のがたん、がたん、という音もなく、新幹線は周りの景色をどんどん抜き去っていく。
 窓の向こうから見える景色は、まるで周りが僕を置いて過ぎ去っていくような、不思議な気分にさせた。
 建物ばかりだった景色が段々と、のどかな田園風景に皮って、そのうちそれすらないような、人気のない緑豊かな風景へと変わる。
 都会のビル群が段々となくなっていき、よく言えば自然豊か、悪く言うと田舎になっていくのは当然のことだ。


 それでも線路が通っているだけましだと僕はぼんやりと思う。
 だってそうじゃないか。本当の田舎には駅なんてない、つまり線路はない。
 都会に住んでいる僕にはそれは酷く新鮮で、しかし同時に『ダッサイ』のだ。


 田舎にはネット環境もなければ、ゲーセンも何もない。
 楽しめるものといえばテレビくらいだろう。
 それだってローカルなものばっかりだから、僕の楽しめるものなのかちょっと分からない。


 そんなわけで、僕は一度この『盆帰り』なるものを拒否した。
 この『田舎行き』の話が出たときに、父は出張で行けないと主張したのだから、僕だって行かなくていいだろう、そう僕は思った訳だ。

 この暑いのにエアコンがあるかどうか分からない所に行くよりかは、ヒートアイランドと呼ばれていようと、室内は快適な温度に保たれている――そんな都会に残ると僕は宣言したわけである。
 母はしきりと『まだ親の手が必要なくせに何言ってんの、半月近くも一人で暮らせるの?』と言ったけれど、僕は『もう中学校2年生なのだから2週間くらい一人で留守番する』。そう言ったのだ。

 しかし、母はそれを許さなかった。


「嫌よ。父さんは出張してるから家にいないけど、貴方が家に残ったらその分エアコンの電気とか水道とか、光熱費とか――諸々のお金がかかるじゃないの」


 またか、と思った。
 要するに、「節約したいんだからついて来い」。ということだ。このところ母は節約にうるさく、電気料金の請求書を見ては嘆いているし、水道になんだか訳の分からないゴムを巻いてみたりと、僕からすればどうでもいいようなことに精を出している。
 どうせまたテレビの影響だと思う。いい迷惑だ。
 一時期前は『バナナダイエット』、その前は『都市伝説』……。もしかしたら『小顔ローラー』とか『サッカー』とかだったかも。過去には『韓流ドラマ』にもはまっていた気がする。
 それはもう、多種多様にテレビ、雑誌、インターネットに踊らされているわけだ。
 流行を追っかけるのは構わないが、周りの人間にまで迷惑をかけないで欲しいと思う。


 そういうわけで、僕は田舎行きの新幹線の中、かなり機嫌を悪くしていた。

「ほらほら、こんなに緑豊かなところで夏休みを過ごせるのよ? 素敵じゃない」
「そうだね、母さんと一緒に田舎に行って、帰ってくる頃には学校だもんね。素敵な夏休みの消費の仕方だと思うよ」


 全く非常識だと思う。
 休日と九月一日が被ったとかで、今年の新学期は九月二日からだからまだ許せるけど、そうでなかったら怒っている。
 何が悲しくて何もないド田舎で残りの休みを消費しなきゃいけないのか。おばあちゃん達からお小遣いをもらえるのは嬉しいけれど、それじゃ割に合わない気が凄くする。
 そもそも、母さんの立てたプランは些か無謀なのだ。
 『盆の少し前に田舎に帰って、8月30日に自宅に帰る』。
 僕は二週間、下手すると三週間くらいを田舎で過ごさなきゃならない。


 塾に行かなくていいのは嬉しいけど、利点はそこにしかないのだから困る。
 無理やり決められた「田舎行き」にむくれていた僕に、出張前の父さんがかけてくれた「あそこには海も川もあるから遊び放題じゃないか」という言葉がなければ、僕は母さんに吐けるだけの嫌味を吐いたことだろう。
 もしくは、柱に噛り付いてでも田舎行きを拒否したか。


「そんなこと言わないでよ。いいでしょ、あなただって自然を満喫できるんだから」
「満喫したいと思ったことなんてないよ。家でゲームしてた方がマシ」
「もう!」
「大体さ、夏休み明け直後に試験があるって言わなかった? 二週間だか三週間だかわかんないけどそんなに長く居る意味ある?」
「……息子にね、田舎の自然の良さを教えてあげようと思ったのよ」
「急に? 今まで盆帰りなんてしなかったじゃないか」
「急にでもなんでもよ。もう、ここまで来たんだから文句言わないの!」


 母親が理不尽だなんてことはどこの家でもあることだから僕は黙っていることにした。
 こういう時は黙っておいたほうが『怒ってます』という感じが醸し出せるぞ、と父さんが言っていたのを思い出す。
 父さんに倣ったわけではないが、母親と会話するのにも疲れてきたので僕は母の言葉を無視し続けた。


 窓越しに見える外の風景がどんどん飛んでいく。
 もし、タイムマシンやら何やらで過去や未来に飛んだなら、こんな風にして過去や現在の中を飛んでいくのだろうか。
 昨夜寝る前に読んでいたSF小説のことを思い浮かべながら僕は外を見ていた。
 ――“田舎に盆帰り”か。
 小さく口の中で呟く。

 窓の向こうでは、どんどん『都会』が消えている。
 それは、まるで未知の原生林に行くような冒険心を擽るようでもあったし、反対に見知らぬ土地に放り出されるような恐怖もあった。


 僕は『田舎』に行きたくなどなかった。




***



「あっつー…」
「新幹線の冷房が涼しかっただけよ。ほら、ちゃっちゃと歩く!」


 駅を出て早々に襲ってきた夏の暑さに僕は早くも音を上げてしまいそうになる。
 そんな僕などお構い無しに母さんはさっさか歩いていってしまう。
 普段は家のリビングで、エアコンに当たりながら水族館のゾウアザラシよろしくゴロゴロとしている母が、あまりにもしゃっきりとしているものだから、僕は些か驚いた。
 内心、目を丸くしたけれど、そういえば母は暑さに強いのだということを思い出し、僕は母さんについて行くべく歩く速度を上げる。
 母さんの着ている、オレンジ色のTシャツが、妙に目にまぶしかった。
 額を伝う汗が煩わしくて、背中を流れる汗がべたついて、不愉快だった。


 駅周辺は徒歩で移動し、人もまばらになってきた駅郊外の停留所でバスに乗る。
 汗だくで乗り込んだにもかかわらずバスの中は生ぬるい空気か漂っていた。
 冷房くらい付けろよと言いたかったが、そう口に出す元気もない。


 バスのエンジン音の中、手持ち無沙汰な僕はまたも窓の外を見つめていた。
 道路こそ辛うじて整備されているようだが、その道路の外側は紛れもなく畑で、たまに干上がった田んぼらしきものがあって、広大で、『ダッサイ』。
 ダサい、ダサいと言いたくはないが、こう――例えるなら肥料のにおいが漂ってきそうな風景なのだ。
 多分これを見て「おしゃれ」と言う人は居ないと思う。
 「素朴」とか「自然豊か」と言う人は沢山居るだろうけれども。


「ね、素敵なところでしょう」
「……そうだね」

 
 人のまばらなバスの中に嬉々とした母の声だけが響く。とても『素敵』には見えなかった。
 ああ、エアコンの効いた僕の部屋に戻りたい。
 否定的な意見を返そうとしたけれどそれも途中で面倒くさくなり、結果中途半端な同意を返すだけとなった。
 間があったのは僕なりの反抗だ。


 畑や干上がった田んぼもなくなっていく。かわりに、木々が増えてきた。
 このまま外を見続けていたら野生動物を見られるんじゃないか?そう僕がわくわくとし始めたところで、のんびりとした運転手さんの声がバスの中に響いた。


「しゅうてェん。終点……またのご利用をおまちしておりまァす……」

「あらあら。降りるわよぉ」
「はいはい……って、ここで降りて平気なの!?」


 あたりは木々と少しの畑ばかり。人の家らしきものは見当たらない。ここで降りて大丈夫なのだろうか。
 たまらなく不安になった僕は母にそう聞いてしまう。


「大丈夫よ。あとは少し歩くだけだから。」


 母に計画性がないことを、僕は暑さの中で忘れていた。
 母のいう「少し」が少しでないことなど、分かりきっていたはずだったのに。

 炎天下の中を、だらだらと歩き続ける。気分は溶けきったアイスクリームか、塩をかけられたナメクジといったところだ。
 じりじりと丸見えの首筋を太陽光線が焼き、バスの中でようやく引いてきたはずだった汗も、ぶわりと噴出す。
 旅行用の鞄、重い荷物を持って目指すは、『海に近い母の実家』だ。
 馬鹿馬鹿しい、やっていられるか――と、僕が鞄を放り出せたらよかったのだけれど。
 一本道とはいえ、ただただ馬鹿広い田舎の道路だ。
 鞄を放り出して、駅のほうへ逃げ帰ってみようとしても、今更手遅れだろう。
 話す気力も無く、僕はとぼとぼと母の背中を見つめながら歩く。汗で濡れてしまったTシャツは、思っていたより不快だった。


 どれくらい歩いただろう。
 都会育ちの僕にしては頑張ったと思えるくらい歩いたころに、母さんが声を上げる。
 僕の足はもう痛くて、正直何を踏んでいるのか、自分は地面に立っているのかと不安になるくらい、足裏には感覚が無かった。
 

 母さんの声に釣られて頭を上げる。その瞬間に吹いてきた風に、潮の匂いがまじっているのを僕は感じる。
 どこか生臭いような、でも馴れるとちょっと懐かしいような気分になる、不思議なあの、生命の匂い。
 ああやっとついたんだ――僕はそう思った。
 母親の顔もどこか生き生きとしていて、『田舎』とはこういうものなのか、と僕に妙な感慨をもたらす。
 潮騒とかもめの鳴き声に歓迎されながら、僕は母が生まれ育ったこの町に、足を踏み入れた。






prev next



bkm


「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -