「さ、行くわよ」
旅行鞄を手にした母さんが、僕の方を振り返る。うん、と僕は頷いて、おばあちゃんに別れを告げる。またきなよ、とおばあちゃんは笑ってくれた。
今日は、僕たちがもといた場所、つまり僕の家に帰る日だ。肝試しをしてからあまり体調が優れなかった僕のことを気遣って、母さんが、少しはやめに家に帰ることにしたらしい。
あの日から、何となくだけど体が重い。
ただの夏ばてかもしれないし、慣れない場所にきてしまったから、そのせいかもと思ってはいたのだけれど、おばあちゃんの家を出て、バス停まで歩く間、辛くて辛くてたまらなかった。
僕の体のはずなのに、僕のものではないような、ひどく重くてだるかった。まるで、僕をあの町から離したくないような、そんな意図を感じてしまいそうになるくらいに。
新幹線に乗る頃には、そんなだるさは嘘みたいに吹っ飛んでいて、笑い出したくなってしまうほどだったんだけどね。
家に帰ってからはそのまま、夏休みの残りをだらだらと家で過ごし、八月の三十一日、僕はふらりと公園に遊びに行った。
公園にあまり人がいないのは、夏休みの宿題に追われている子が多いからなんだろうか。夏も終わるとあってか、その日は妙に涼しかったんだ。
誰もいない公園で、僕は一人の女の子に出会った。白いワンピースに、麦わら帽子の女の子。
あの町でよく見かけた女の子。
どうしてここにいるんだろう。
「ああ、やっと見つけた」
僕に気づいたのか、女の子は愉しそうな笑みを浮かべて近づいてくる。
背中に汗が伝うのを感じた。──何故だろう。
「こんな所で会うとは思わなかったよ」
「ふふ」
会いに来たのよ、航太君。
女の子はゆっくりと目を細めて、ねえ、と僕に声をかけたんだ。
「ねえ、私の名前、分かった?」
そっと僕の背中をなでた風に、僕は身震いをしてしまった。
その時は何故だかわからなかったんだけれど、今ならよくわかる。
僕は、あの子に出会ってはいけなかったんだろう。
「航太君が私に会いに来てくれたでしょう? あの夜」
「なんの話……」
「だからね、私、とっても嬉しくて。今まで、私の姿に気づいてくれる人もいなかったから」
「ねえ」
「だから、あの彼岸花は私のプレゼントなのよ」
さあ、と女の子は笑う。
「私の名前は? 航太君」
泣き岩に彫られていた名前。
何かおかしいとは思ったけれど、僕は最後までそれに、気づけなかった。
人の胸の下当たりまでの大きさの石。名前を彫った意味。肝試しをするのは、曰くのある場所で、泣き岩の近くでは、少女のすすり泣きが聞こえるのだったか。
渚、とつぶやいた僕に、少女は心底うれしそうに笑う。
貴方の勝ちね、航太君──
約束は絶対に守るわ、と言われて、僕はその言葉の意味にもすぐには気づけなかった。
彼女とした約束。あの時に思い出せていたなら、こんなことにはならなかったかもしれないのに。
「だぁれも。誰も私がいなくなったことに気づかなかったんだよ。海に落ちてしまった私に、誰も気づいてくれなかったの。後で見つかった私のために、弟がお墓を作ってくれた。……全然お墓に見えないから、泣き岩とかって呼ばれてたんだけどね」
「き、君は」
声が震えていただろう、そのときの僕は。
「ずっとよ、ずっとずっとずっと昔に、君が落ちそうになっていたあの場所で落ちておぼれたの。夏休み、もっと楽しみたかったなあ。盆祭りにも出たかったのに。誰もすぐにきてくれなかったから、私は死んじゃったのよ。それからはずっと一人」
でももう寂しくないよ。君がいるからね。
わらう彼女の顔なんか見られなくて、僕は逃げるようにその場を立ち去った。
体の震えも止まらなくて、でもあの子の笑い声が頭から消えなくて、本当に怖かったんだ。
僕が彼女との約束を思い出したのは、次の日の朝。
学校に行かなきゃと支度をしていたときに、ふと目に飛び込んだカレンダー。
彼岸花みたいに赤い字で、八月三十一日の次に、三十二日、って。
バカみたいだと思ったよ。
でもね、家の中を探しても母さんはいないし、テレビはつかない。カレンダーに悪戯をしたのが誰なのかもわからないんだ。
怖くなって外に出るだろ?
誰もいないんだ。誰も。誰も誰も誰も!
みんないなくなったみたいに、どこにも誰もいないんだよ。
今日は九月一日だって、誰かに言って欲しかったのに。誰も。誰もいなかった。
頭の中で、あの子の、渚の声だけがずっとずっと鳴り響いていた。
“もう寂しくないよ、君がいるからね”
八月三十二日。
「終わらない夏休みにようこそ」
僕の後ろで、白いワンピースを着た、麦わら帽子の女の子が笑った。
終わらない夏休みだなんて、終わらないなんて、ああ、なんて!
悪夢のようなんだろう!