「気をつけていってらっしゃいね?」
「はいはい、わかってるって」
懐中電灯、虫除けスプレーを渡してそういう母さんに、「そんなに心配しなくても」と僕は笑う。おばあちゃんの家からは、確かに、少し離れているけれど、目的の山の裾野までは殆ど一本道だ。迷うこともないし、もし迷ったとしても、山から流れる小川を辿って、こちらまで戻ってくればいい。
すべての川はどうせ、海につながっているのだから。
履き慣れた運動靴を履いて、少し暑いけれど長袖のシャツを着る。木の小枝でひっかき傷ができるといけないから、とおばあちゃんが僕に、薄手のシャツを貸してくれた。
老人っぽいデザインだったら、ちょっと困ったけれど、ただ単に黒いだけのシャツだ。もうそろそろ捨てようかと思ってたから、ひっかけても破いても構わないよ、とおばあちゃんは言ってくれた。
懐中電灯がつくことを確認して、虫除けスプレーを体にかける。田舎と都会の差があるのか無いのかははっきりしないけど、こっちの蚊は僕の住んでいる場所の蚊よりかゆい。
あんまりかきむしってはいけないって解ってるんだけど、やっぱりかゆいものはかゆいのであって、昨日の花火の時に、たっぷり血を吸われた僕は、今日一日、虫さされの薬の、スッとした独特の匂いを体から漂わせている。
ボツボツと何かの病気みたいに、赤く腫れたそれを見て、母さんもおばあちゃんも「かゆそう」と声を揃えた。実際にかゆい。
「あんまり遠くまで行かないのよ?日付の代わる二時間前……はだめだから、九時までには帰ること」
「大丈夫大丈夫。時間はちゃんと守るよ」
とどめとばかりに渡された、防水タイプの腕時計を左腕につけて、僕はおばあちゃんの家から出た。
そんなに心配ならついていっといで、とおばあちゃんは母さんに言ったけれど、母さんは蚊に食われるのが嫌らしい。
まあ、僕の虫さされのあとと、かゆがり方を見れば、そういう気持ちになるのは当たり前かもね。
こっちはこっちで、もう既に蚊に食われているから、こわいものなんてない。しっかりスプレーしたことだし。
昨日おばあちゃんがいっていたけど、本当に雨が降らなくて良かったと思う。
よく晴れた夜空は、少しかけた月が柔らかく光っている。九時まで、あと二時間半。行って帰って来るにしても、時間なら余裕があるだろう。
海から離れるようにして、山の裾野へと足を運ぶ。本物の蛍が見られるというのは、やっぱりとても楽しみだった。テレビでしか、あの黄緑の蛍光は見たことがないから、わくわくする。
母さんは「光ってる時は綺麗なんだけどね」と言っていたけれど、虫が苦手、というわけでもない僕は、ただただ、楽しみなだけだ。
夜更かしできるということもあるし、ちょっとした冒険気分なんだよね。
十分歩いただろうか、おばあちゃんと母さんに教えられたように、まっすぐと道を歩いていれば、小川のせせらぎのような、微かな水の流れる音がした。
川が見つけられたら、あとはそれを山に向かって、遡ればいいと母さんもおばあちゃんも言っていたから、僕は懐中電灯を持ちながら、当たりを見回す。
てろりと光を反射した場所があった。
下の地面に気をつけながら、僕はそれにそっと近づく。懐中電灯で照らして、よくよく見てみれば、それはやっぱり川だった。
辺りに人がいないのを良いことに、僕はにんまりと笑ってみる。何だか大げさだけど、古代遺跡に至る謎の道を発見したような、そんな気分だ。
川に沿って、川の流れとは反対方向に進む。段々、草花の高さが増してきた。進む度にかさかさと音を立てて、僕が通った後の草が倒れていく。膝丈程の高さだけれど、時折手のひらに当たってくすぐったかった。
川のせせらぎをバックミュージックに、僕は暗い道を歩く。不思議と怖くも何ともなかった。月が、まだ大きいせいもあるかもしれない。夜だというのに十分に明るくて、風にそよぐ草花もよく見える。
虫がころころと鳴いていた。
つけっぱなの懐中電灯には、蛾が何かよくわからないけれど、羽のある虫が集ってきている。
何となく、山だなあと思う。
そのまま、草をかき分けて小川を遡れば、草より木々の方が増えてきた。林とか森とかを思い起こさせる景色。ここなら蛍が見られそうな気がする。
さらさらと川は流れ続けていて、手の着けられていない自然、ってこういう場所のことをいうのかな、ともおもった。人の声も、車のエンジン音も、明るい街灯もない。
さくさくと草を踏みしめて、僕は川縁を歩く。
額に少し浮かんだ汗を、シャツの袖で拭ったときに、目の前を黄緑の丸い光がよぎる。
あ、と思わず口に出してしまった。蛍だ。
蛍は、ふうわりと舞いながら、川を遡るようにして僕から離れていく。
僕は蛍に誘われるように、ゆっくりと歩みを進めた。この蛍についていけば、もっとたくさんの蛍に出会える気がしたから。
僕の想像は概ね当たっていたといっていい。蛍について行くように山道を歩けば、いつの間にか少し開けた場所にでていた。山中だというのに、木々に遮られることもなく、少しかけた月が見える。
川の周りにはほたるぶくろ。風に揺られてやさやと微かな音を立てている。
川の源流というか、水の染み出す場所にでてしまったというか──俗な言い方をすれば、“穴場”なんだろうなと思う。
星より不思議で不可思議な、黄緑の光がたくさん舞っていた。ふわふわと安定しないさまよい方は、人の手の加わっていないもので。
柔らかい光が水に反射して、小さな用水路程度の水の道は、幻想的な色を灯している。
馬鹿みたいに綺麗、という言葉しか出てこなかったし、そういう表現が一番素直で、一番この場に相応しいのだとも思う。
しばらく蛍に見入っていたけれど、急に僕以外の人の声を耳にして、体をこわばらせてしまった。
くすくすと可愛らしい笑い声。少女のもの。
人ならざるものに出逢ってしまったかと、一瞬身構えたけれど、笑い声のする方を見てみれば、つい最近仲良くなった、少女がいた。
幻想的な景色にぴったりな、ふわふわと風に揺れる薄い白のワンピース。日差しもないのに被った麦藁帽子。
海でよく出会う、あの女の子だった。
「君も蛍を見に来たのね」
「うん……びっくりしたよ、お化けかと思った」
「やだなあ、お化けと一緒にしないでよ」
くすくすと笑う女の子は、こっちのがよく見えるよ、と僕に手招きをする。なら僕もそちらに行こうとして、僕と女の子の間に川があることに気づく。
「大丈夫、大して幅がないから、飛び越えられるよ。石もあるし」
川の向こう側から呼びかける彼女の言うことも、納得できるほど幅の狭い川だ。川というよりは、水の通り道、がやっぱり適当な気がする。
所々に石ものぞいていて、石を渡っていけば、服を濡らさずに向こう岸にいけそうだった。
とんとんとリズムよく、石を飛んでいく。向こう岸につけば、「いらっしゃい、航太くん」と女の子がおどけた。
女の子が言うだけあって、こちら側から見る蛍は、あちら側から見るよりも数は多く、僕らの周りをふわふわと漂っている。
綺麗だなあとぼんやりしていれば、僕の左胸あたりに、蛍が一匹とまった。
ブローチみたいね、と女の子は目を細めて、ちょんちょんと蛍を突付く。どうやら彼女は、虫を恐がらないタイプの女の子だったらしい。
「あ、やだ、もうこんな時間」
「え? ――あ、本当だ」
防水性の腕時計は、家を出てから一時間がたったことを伝えていた。
僕と女の子は顔を見合わせて、「一緒に行こう」と同じタイミングで口にする。一人で来た道を行くよりは、人が一人でもいたほうが寂しくない。
***
女の子とは、僕の家のすぐ近くで別れた。
朝は咲いていた朝顔も、こんな夜になるともうしょぼくれている。
今度は盆祭りであえるかな、と笑った女の子に手を振って、僕はおばあちゃんの家へと戻った。
「あらやだ、あんたつれて来てるわよ」
家に入れないでよね、と玄関で立っていた母さんに顔を顰められて、僕ははじめて自分の肩に蛍がとまっていたことに気付いた。
潰さないようにつまんで、夜空に放る。
黄緑色のまあるいたまは、ふんわりと夜空に消えていった。
蛍が珍しかったのか良く分からないけれど、タロが随分とほえている。