二、朝顔
「あー、なんだかんだ言っても、肌寒いなあ……」


 早朝の寂れた港町、僕はタロを引き連れて、一緒に海岸に沿って歩いていた。いわゆる散歩。タロは何だか嬉しそうに、リードをぐいぐいと引っ張るようにして進んでいく。まだ寝ぼけ眼の僕は、まるでタロに引っ張られているようだった。草のつたのような、緑色のリードが、僕とタロを繋いでいる。
 ふわあ、と間抜けなあくびがでるのは仕方がないと思う。だってまだ、日が昇ってからそう時間はたっていないんだから。あたりはまだ薄暗いし、カモメはぎゃあぎゃあと鳴いていたけれど、人は全く見かけなかった。


 潮騒が、おばあちゃんの家にいるときより、もっと大きく聞こえる。まだ、ほんのちょっとだけ馴れない潮の匂いが、僕の鼻をなでていく。
 真夏とはいえ、海沿いだからなのだろうか、風がひんやりと冷たかった。
 のろのろと、タロに引きずられながら海岸沿いを歩く。潮騒が子守歌のようで、だんだんと眠くなってきた。


「あれ、君──」


 どこかで聞いたような声がして、僕は声の方向に顔を向ける。
 紺色のリボンが腰のあたりに巻かれた、白い短めのワンピースに、昨日見かけた麦わら帽子。


「あ、昨日の女の子」


 昨日、僕が海に飛び込んだと思った、女の子だった。
 海岸と道路を隔てる、ガードレール。その道路側で、ガードレール越しに女の子が手を振っていた。
 海沿いに走り出そうとしていたタロを引っ張りながら、僕はガードレール越しの女の子に近づく。タロは不機嫌そうに鳴いていたが、今まで僕が引っ張られた分は諦めてほしい。


「ワンちゃんのお散歩?」
「うん。タロっていうんだ。ばあちゃんの犬」
「へえ、利口そう。ちょっと怖いな」


 女の子はそう言って、じっとタロを見つめる。タロは、わんわんと女の子に向かって吠えた。
 わ、と女の子が驚いたような声を出す。


「もしかして、犬嫌いだったりする?
「あ……うん、まあ……怖いかな」


 僕の質問に「怖い」と答えた女の子は、それでもタロを見ていた。タロは、そんな女の子にまだ吠えている。おかしいな、普段は人懐こいっておばあちゃんが言ってたんだけど。


「ごめん、あんまり人には吠えないらしいんだけど」
「ううん、仕方ないよ」
「犬って、自分のことが嫌いか好きかわかるらしくてさ。嫌いな人には吠えるらしいから、それかも」
「そうかな。飼い主をちゃんと守ろうとしそうだね、この子」


 可愛いね、と女の子は笑って、ガードレール越しに僕の顔を見た。


「そういえば、ねえ、盆祭りには来る?」
「盆祭り? 行こうかとは思ってるよ」
「そっかそっかー、会えるかもしれないね」
「あ、君も行くんだ」
「勿論!この時期しか行けないし、毎年楽しみにしてるんだよ」


 にこにこと笑いながら話す女の子は楽しそうだ。そんなに楽しい祭りなのかと疑問には思ったけれど、口には出さない。田舎にもなると、これぐらいしか楽しみなんてないのかもしれないし、それを僕が口にするのは、きっと意地悪だろうから。


 この町では、今でも町内会で盆祭りなんてものをしているのだそうだ。町の高校生くらいの男の子が太鼓を叩いて、小さな出店を出して、小さな町の住人たちは、和気あいあいと盆踊りをするのだと。
 小さな町だからこそ、温かくて面白いんだよ、と女の子は微笑みを浮かべた。楽しみなんだというのが、嫌って程に伝わってくる。


「ねえ、そういえば私、君の名前を聞いてないな」


 風に持っていかれそうな麦わら帽子の、つばのところをちょんと持ちながら、女の子はそう言った。僕は名前を教える。代わりにと僕が女の子に名前を聞けば、女の子は悪戯っぽく目を輝かせて、にっと笑った。


「ないしょ」
「えっ」


 なんで、と僕が問うても、女の子は「当ててごらん」と軽やかに笑うだけで、名前を告げようとはしない。
 曰く、「その方がゲームみたいで面白いから」。
 ちょっとしたお遊びではあるけれど、なんだか楽しそうだったから、僕はそれにのることにした。


「じゃあ、ゲームだし、何か賭けてみようか?」
「賭ける?」

 白いワンピースの裾を潮風に揺らしながら、女の子が、にこにこと笑う。早朝のひんやりした空気か、僕の首筋をなで上げた。タロは女の子を相手に唸っている。嫌われてるなあ、この子。


「そうだなあ、じゃあ、君がこの町を出るまで……うん、お家に帰るまでに私の名前を当てられたら、私は君に夏休みをプレゼント」
「何それ。くれるなら欲しいけど、まさか八月を丸ごとくれるって?」
「えへへ、ないしょ!」


 思わず笑っちゃったけど、女の子も楽しそうに笑っていたから、まあ良いのかもしれない。
 夏休みをプレゼント、なんて、素敵で夢のある話だよね。


「じゃあ、僕が帰るまでに名前を見つけられなかったら?」
「うーん、そうだねえ……その時はじゃあ、ずっとここにいて貰おうかな?」


 あはは、と面白そうに笑って、女の子は麦わら帽子をまた抑えた。冗談が好きな子なんだろうな、と思う。なんだか、話していて楽しい。


 それから、僕たちは二人並んで、人の家が多い方向に向かって歩く。海は背中の方に消えていって、段々、潮騒も塩のにおいも薄れていった。新しい家と、古家が混じる小さな道を並んで歩けば、女の子がにこにこと笑って道端の朝顔を指差す。


「すごいね、ど根性朝顔!」
「あ、ほんとだ」


 誰かが朝顔を植えたのか、はたまた何かの偶然で種が落ちでもしたのか、コンクリートの間から、朝顔が伸びていた長い蔦を器用にブロック塀に巻きつけて、赤紫のラッパみたいな花を咲かせている。
 小学校の時の、朝顔の観察日記を思い出した。


「これ、枯れた後に種取るの楽しかったな」
「そう? 私はこれで色水作るのが好きだったかも」
「色水? あれってオシロイバナじゃなかった?」
「おんなじ花でしょ、やれば出来るもんだよ」


 いい加減なことを言われたような気がしたけど、間違ってはいない気がする。なんにせよ懐かしいね、と二人で笑いあった。


「じゃあ、またねー」


 おばあちゃんの家の近くの曲がり角で、女の子が笑って手を振る。それに僕も振り返して、おばあちゃんの家へと向かった。
 怖がる女の子がいなくなったからか、タロはすっかりおとなしい。そんなタロを一撫でして、僕はお味噌汁の匂いが漂う、家の中へ。


 今日の朝ご飯は何だろう。


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bkm


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