一、海
「よくきたねェ、ほんと。この暑い中をサ」
「母さん、久しぶり!」

 
 どこか浮かれたような空気をまとって、僕の母が目指したのは、この町の中でもひときわ大きくて、ひときわ年季の入った平屋の住居だった。
 木で出来たような門の前に立って、僕の母に手を振る、しわくちゃの干物みたいな腰の曲がった老婆が、僕のおばあちゃんだ。
 最後に見たのは僕が小学校を卒業したときだから、もう二年くらい顔をあわせていないことになる。
 おばあちゃんは相変わらず、しわくちゃの顔をもっとしわしわにして、僕らの来訪を喜んでくれた。


 おばあちゃんの背は、僕なんかよりもう随分小さくなっていて、それは腰が曲がってしまったせいもあるのかもしれないけれど、それが何となく寂しい。
 小さいときに僕を抱っこしてくれたときのおばあちゃんは、もっと僕より大きかったんだけど。


「あんたも元気かい? 今はもう、中学生だってねェ。時間が経つのは早いもんだよ、ほんと」
「母さんも年寄り臭いこと、言うようになっちゃったわよねぇ」
「もう年寄りだもんさァ。いつお迎えが来たっておかしくないやね」
「冗談でもやめてよ、母さん」


 からからと笑うおばあちゃんは、しわくちゃではあるけれど元気だ。
 少なくとも、炎天下を延々と歩いてきた僕よりかはずっと元気そうに見える。
 重い荷物を抱えながらも、「元気だよ、おばあちゃん」と僕が口にすれば、おばあちゃんは本当に嬉しそうに笑った。


「ま、早いとこ家に入っちゃいな。んで、汗を流しな」
「そうねぇ、汗かいちゃったものねえ」


 うんうんと頷く母さんに「誰のせいだと思ってるの」と言いたくはなったけれど、おばあちゃんの前で喧嘩するのも気が引けたから、僕は何も言わずにおばあちゃんの家に入る。
 母さんが先に汗を流すと風呂場に行ってしまったから、僕はそれまで庭で、おばあちゃんの飼っている犬と遊ぶことにした。
 名前はタロと言うらしく、何年か前におじいちゃんが拾ってきたらしい。
 おじいちゃんはもうこの世にはいないけれど、タロはおじいちゃんよりおばあちゃんに良く懐いたのだという。
 血統書つきの犬でもなんでもない、ただの雑種だとおばあちゃんは笑っていたけれど、おばあちゃんはタロのことを可愛がっているようだった。
 僕が恐る恐る手を伸ばしてタロを撫でれば、タロは僕の手に擦り寄ってくる。フンフンと鼻を鳴らして寄って来る犬に、僕は少し愛着を持った。


 母さんの後に続いて、風呂に入り、風呂から出てくれば、縁側で母さんが団扇を扇いでいた。庭に足を投げ出すようにして、庭にいるタロを眺めている。投げ出された足は、氷水の入った盥に突っ込まれている。


「あら、上がったの?」
「うん」


 からりと氷のぶつかる音がして、母さんが僕の方へと振り向いた。右手に持った団扇には、朝顔が描かれている。
 こっちへいらっしゃいよ、と母さんは自分の隣を叩いた。僕が素直にそちらに行けば、母さんは盥から足を引き抜き、足先で僕の足下へと盥を押しやった。足癖、ほんとに悪いんだよね、母さん。
 母さんは、引き抜いた足をタオルでぞんざいに拭くと、もう夏よねえ、とのんびりと呟いて、ぱたぱたと団扇で僕の顔を扇いだ。
 母さんの代わりに、盥に足を浸してみれば、ちゃぷりと音がして足先に冷たさが広がる。ある程度溶けたのか、盥の中に浮いていた、僕の足の裏の半分くらいの氷の塊は、 角が取れて丸みを帯びている。
 それを両方の足の裏で転がして遊んでいれば、タロが盥の近くまでやって来た。


「タロも暑いわよねえ、犬は毛皮を脱げないし」
「そうだね」


 足先で氷を転がしていれば、母さんが盥の中に手を突っ込んだ。母さんは、小さくなった氷の塊を盥から取り出して、タロの足下にそれを置き、氷にじゃれつくタロをのんびりと見つめている。


「海でも行ってきたら?」
「え、良いの」


 いつも通りに唐突だった言葉に、僕がそう返せば、「どうせやることもないでしょ」と母さんは笑う。楽しみだったんでしょと付け加えられて、僕は曖昧にも頷いた。素直に認めるのは、ちょっと悔しかったから。



***


 真っ青な空の下に、深い紺が広がっている。柔らかにうねる波は、何か、ゼリー状の生き物を思い起こさせた。白く泡立つ小波は、浜に打ち寄せては引いていく。
 都会では見ることもないこの光景に、僕はしばらく見入っていた。
 整備仕切れていないような、海に沿って作られている道路をあるいてきたけれど、ガードレールの向こうには、もう砂浜が広がっていた。少し視線をずらせば、見晴らしの良さそうな、ちょっとした高台……この場合は、低めの崖、と言うべきなのだろうか、柵も何もなさそうな、少しばかり危険な場所が見える。
 僕は迷わず、その高台に向かう。危険なことには、興味がある年頃という奴だから、仕方ない。

 
 高台に向かって、なだらかな坂道を上る。履いていたサンダルに、砂が少し入った。今すぐに落としても良かったのだけれど、どうせまた入るのだからと、僕はそれをそのままにする。早く高台に上って、少しスリリングな景色を楽しんでもみたかったから。
 高台に至る坂道を中程まで登ったころに、僕は高台に人がいるのに気付いた。
 
 
 女の子だ。白いワンピースに、今時は誰もかぶらないような、少し大きい麦わら帽子。帽子から覗く黒髪は、長くて風に踊っている。
 背の低さから言うと、僕と同い年か、少し年下くらいだろうか。
 女の子は、高台から見える景色を、ぼんやりと眼に映しているようだった。潮風に靡く黒髪と、風にさらわれそうな麦わら帽子を、片手で軽く押さえて、崖の、高台の下をのぞき込もうとしている。


 柵も何もない、少し危険な高台の縁。危ないなと僕が思った時だった。


 何がどうなったのか分からない。女の子は四つん這いになって海を覗き込んでいたけれど。


 まず、左手が滑った。何もない宙を左手が泳ぐ。右手がそれに誘われるように宙に出て行った。上半身が高台からとびだす。その下は海だ。女の子の麦わら帽子がふわりと浮く。身体が傾げる。頭から海へ。長い黒髪が、後を追うように、つうっと青い空を滑った。白いワンピースの裾が、鳥の羽のように舞う。


 女の子が、海に落ちる。


 一瞬、何が起こったのか理解できなかった。ただ、頭の中を跳ねるように、僕の鼓動が鳴り響いているのだけが分かる。破裂しそうな心臓は、僕より状況を理解していた。


 弾かれたように高台に駆け上がり、女の子が、していたように四つん這いになって下を見る。
 ざざん、ざざぁん、ざざざざざ。
 波音にかき消されたかのように、女の子の姿は見つからない。まるで最初からいなかったかのようだ。海は、女の子を飲み込んでしまった──


「嘘だ……」


 愕然とするしかなかった。目の前で人が海に落ちるなんて、初めてで、僕にはどうしたらいいのかわからなかった。


「この場合は誰を、おばあちゃん? ちがう、家の近い人にしらせ、あ、いや救急車? とにかく、電話、連絡しなきゃ」


 後ろにすぐに振り返り、僕はとにかく、どこかに連絡しなければ、と震える足で立ち上がる。馬鹿みたいに足がガクガクとした。力の入らないあしは、まるで生まれたての鹿のようで、情けなかった。立ち上がれないのだから。


「ああ、ちょっと、君」


 大丈夫、危ないよ──その言葉と共に、白い手が目の前をよぎった。掴もうとすれば、それはするりと僕の目の前から消える。 


「あ、なんだ、わりかし元気そう? ねえ、そこにいると落ちちゃうよ」


 危ないから早くこっちおいで。不思議な響きの声が、僕の頭上かふ降ってくる。僕の目の前には、白い布がひらひらと揺れていた。
 布から視線を上にずらす。
 麦わら帽子が見えた。


「ん? 顔色悪いね、大丈夫ー?」


 少し心配そうに、座り込んでしまった僕を見つめていたのは、長い黒髪の女の子だった。


「……っ、……!?」
「わ、どうしたの、過呼吸? だっけ?」


 口をパクパクさせる僕に、女の子は目を丸くさせる。風に煽られた麦わら帽子が、彼女の頭から滑り落ち、首にかけられたひものおかげで、背中あたりに落ち着いた。


「な、なんで、」
「どうしたの」


 それしか言えない僕に、女の子はくすくすと笑う。
 ひやりとした風が、僕の背中をなでていった。


「君、さっき海に」
「海?」
「海に、落ちたじゃないか!」


 やっとのことで口にした僕に、女の子はけらけらと笑ってそれを否定した。「夢でも見てたんじゃない」と。


「私は海になんて落ちてないよ。ほら、濡れてもないし」


 女の子が、くるりと回る。ふわりと白いワンピースの裾が、僕の鼻先を掠めていった。
 なんだっけ、ああそうだ、そういうのって“白昼夢”って言うんだよね──女の子は面白そうに笑って、僕の顔をのぞき込む。


「夢の時間には、まだ早いよ」


 ね、と微笑んで、女の子は僕の目をじっと見つめる。夜みたいに黒い瞳に、僕の顔が薄く映っていた。


「君、ここの町の人?」
「え、いや……ちがう、けど」
「だよね。見かけない子だもん」


 いつここにきたの、そう聞くこの女の子は、きっとこの町に住んでいる子なのだろう。
 海は珍しい?
 そう聞いたその子に、僕は頷いた。


「あは。じゃあ君は海のないところで育った子なのかあ。……珍しいのは良いけど、海は怖いからね」


 にこっと笑ったその子は、背中に垂れ下がっていた麦わら帽子をかぶりなおした。黒髪が、さらりと涼やかに流れる。


「じゃあね」


 また会おうよ。にこりと笑顔を付け足して、女の子は走っていってしまった。後に取り残されたのは僕だけだ。


「なんだったんだ……」


 女の子の姿はすぐに消える。白昼夢みたいだと、思った。


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