櫂をぶん回して通り魔的に人を襲う女軍人の夜の襲撃
 
 月も星もないような、真っ黒く濁ったような曇り空。
 まともな人間は家路について、枕の上に頭を乗せて、横になっているような時刻。
 子供はとうの昔に夢の国に誘われている。
母の腕で見る夢は、さぞかし楽しく穏やかなものだろう。

しかし、真夜中とは人ならざるモノが動き出す時間だ。
そこにあるのは楽しく穏やかな夢ではなく――

***

『それ』はこの上なく飢えていた。
どうしたって満たされない飢えは、衝動となってそれを突き動かす。
『それ』はその衝動を拒むことはしなかったし、寧ろ好んですらいた。

――『それ』が求めるのは、言うなれば『命』だ。
死人となったそれには『命』など無いに等しく、また、渇望しても与えられることのない、唯一にして絶対の『欲』だった。

その身が朽ちて地に還らぬように『それ』は命を求めて闇夜をさまよい、獲物を見つけては襲う。
 それを幾度となく繰り返し、『それ』は今も宵闇を動き回っていた。

狡猾で俊敏な夜の化け物。
夜の帳を味方につけて、渡し舟の櫂を振り回しては命の灯火を奪い去っていく。
その化け物は――【渡し守】と名乗っていた。



夜の川面を思わせる、濡れたような黒髪。それを首の後ろ辺りで結って左肩に垂らしている。
 いつも意味のない笑みを浮かべている顔には、灯火のような橙色の瞳に、薄く紅を塗った唇がある。

とある国の蒼い軍服に身を包みながらも、下から二つほどの釦しか留めていないせいで、大きく開かれた胸元には、死装束のような白いさらしが覗いている。
 腰回りを覆うかのようにして巻かれた薄い灰色の布は、あの世へ誘う幽鬼の手のように、ふわりふわりと揺れていた。
手には渡し舟の櫂を持ち、彼女は息をひそめて森の木々に身を隠す。


彼女は――どうしようもないほど飢えていた。


彼女の日課は、夜道をうろつくならず者や、ごろつきを【叩きのめす】ことだ。
それは、正義感に燃えているからではない。

 彼女は軍人でこそあれ、その身分に意味など見いだしてはいなかったし、【軍人】という立場を『人を襲っても正当化出来る免罪符』程度にしか考えていなかった。
叩きのめすのは、彼女が愉しいからだ。
 中途半端に刃向かってくるならず者を完膚無きまでに叩き潰すのが愉しいからだ。
手にした櫂を振り回し、一撃一撃を生身の体に打ち付ける、柔らかで弾性のある、肉に包まれた骨を打った時の鈍い感覚は、彼女の精神を昂らせ、彼女はその愉しみを得るために、次々に櫂を振るう。

相手が強ければ強いほど良い。
 強い相手であれば思う存分櫂を振るえるし、叩き潰したときの爽快感が堪らない。
相手がごろつきであろうと、プロの暗殺者であろうとも関係ない。
強い者を求め、より強い者を愛用の櫂でぶちのめすのが、彼女の趣味であり、存在理由だった。

彼女は、既に一度死んでいる。
左肩から右脇腹にかけて、一閃した刃。――すぱりと立ちきられた白い肌から吹き出た生暖かい血潮。
それが致命傷となって、彼女は死んだ。

それなのにも関わらず、彼女が未だにこうして動き続けているのは、彼女のもつ、特殊な能力があったからだ。

 【命の灯火】。ヒトの生命エネルギー、言い換えるなら『生気』というものを、【灯火】という炎の形で具現化することが、彼女には出来た。
 それは同時に、具現化した【灯火】を奪うことも、分け合うことも可能にしている。

一度死んだ彼女には、自分で生気を作り出すことはままならないものの、この特殊な能力で他の人間から【灯火】を奪うことが出来た。


【灯火】を――命を切らさない限り、彼女は土には還らない。


***

墨で塗りつぶしたような暗闇の中、無防備で傲慢な背中が見える。
 ちゃらちゃらと腰の周りにつけた鎖型のアクセサリーを揺らしながら、一人でも肩をいからせて尊大に歩いているのは、このあたりで騒いでいるごろつきだろうか。

 ――そんなことはどうでもいいか。

彼女は、紅を薄く引いた唇をゆるくつりあげて、舌で唇をつっとなぞる。
 果実のような薄い紅色は、口紅の、ほんの少しの脂の感触を伝えた。


「紅は舐めても旨くないな――」

夜に溶け込むようにひっそりと囁き、何が面白いのか、灯火のような橙色の瞳を細めた。
その瞳孔はつくりもののように綺麗に開いている。
 猫科の獣を思い出させるような、密やかでしなやかな動きで、彼女はその背中に近づいた。


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bkm


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