二度死んだ聖職者

 夢みたいだ、とオスカーは思う。
 腕の中に誰かを招く日が来るなんて。誰かの体温を感じる日が来るなんて。

「……大丈夫?」

 やっぱり僕がここにいない方がいいんじゃないの、と口にすればニルチェニアの手のひらがオスカーの寝間着を掴んだ。どこにもいかないで、と声のでない唇を必死に動かしている。
 どうしたものか、とオスカーは苦笑いしてしまった。二人でも十分に眠れるほどオスカーのベッドは広いし、オスカーの屋敷だって部屋数はある。わざわざ二人で眠らなくてもいいんじゃないかと思うのだ。恋人という関係だけで見るなら二人で眠るのにも問題はないが、ニルチェニアという女性がそういった触れ合いに積極的なようには思えない。はっきりいって照れ屋だし、恋人という関係にすら気後れしているようにも見えるのだから。

「先生もあんな話聞かせなくたっていいのにねえ?」

 怖がらなくて良いよ、とオスカーはニルチェニアの背中をぽんぽんと叩く。ニルチェニアはほっとしたようにオスカーの腕の中に落ち着く。華奢な身体が自分の腕の中に収まっているというのは、どうもむず痒くて落ち着かない。幼い頃に母親に抱き締められた記憶もなかったから、自分の直ぐ近くに他人の体温があるというのはどうも不思議な心地だった。

 ──嫌ではないけど。

 嫌ではないけど、どうもなァ──とオスカーは気を紛らすようにニルチェニアの髪をすいた。どうかしたの、とでも言うように菫色の丸い瞳が見つめてくる。何でもないよ、と微笑み返した。

 どことなくそわそわとしているようだが、それでもニルチェニアはオスカーの腕の中が気に入ったようだ。数時間前にミシェルがうっかり「本当にあった怖い話」を口にしてしまったときは怯えていけれど、今は眠たそうにオスカーの胸に顔を押し付けている。いくら怖かったとはいえ、数時間前の食屍鬼の話も睡魔には太刀打ちできないのだろう。寝ても大丈夫だよ、とオスカーは優しく声をかけた。

「もし怖いものが来ても、僕がやっつけてしまうからね」

 子供騙しのような台詞だ。けれどニルチェニアはそれに安心したように微笑んでくれたから、オスカーにとってはそれがすべてだ。クルースニクでよかった──などと現金なことを考える。オスカーが背中をぽんぽんと叩くうち、ニルチェニアは眠りに落ちていた。
 ゆるやかで、幸せそうで、穏やかな寝息が二人きりの部屋にそっと静かにとけていく。ゆっくりお休み、と寝入った彼女を起こさないように慎重に額に口づけた。悪夢を見ないおまじないだ。効果のほどはわからないけれど。

 ──変な感じだなあ。

 誰かと眠ることなど、体温を分かち合うことなど絶対にないとおもって生きてきたのに。オスカーが守りたいのはいつだって「自分以外の人間たち」であって、誰か一人ではなかったはずなのに。みんなのためのクルースニクであって、たった一人のためのオスカーではなかったはずなのに。それなのに。

 星がきらきらときらめく夜に二人ならんで眠るのは、むず痒いけれどこの上ない幸せのように思える。腕の中にある可愛らしい寝顔をいつまでも護れたら、と思ってしまうのだ。

 ──クルースニク失格かなあ。

 たった一人のことばかりを考えていて、それでクルースニクを務めあげることができるだろうか?

 ──多分、出来ちゃうんだろうけど。

 魔女でありながらもニルチェニアはオスカーを愛してくれている。オスカーがクルースニクだからこそ愛しているのだとニルチェニアは伝えてくれていた。
 誰かを護るあなたが好き、と言われてしまえばそれに応えないわけにはいくまい。オスカーだって愛している人の前では少しくらい格好をつけたいし、ニルチェニアが気づいているかは別として──彼女の言う「誰か」の中には彼女自身も含まれているのだから。

「……今までもこれからも、君がいちばん厄介なんだろうなあ」

 自分の身なんかどうでも良いとばかりに戦うオスカーを変えたのはニルチェニアだった。昔と違って、今は不要な怪我も無駄な努力もしないようにしている。怪我をして帰ってくるとニルチェニアが死にそうな顔で出迎えるから。
 誰にも踏み入らせないようにしてきたオスカーの心をそっと開いたのもニルチェニアだ。昔は「胡散臭いし何を考えているのかわからないやつ」と言われていた自分が、「胡散臭いけど案外親しみのもてるやつ」になったのもそのせいだろうと思う。

 オスカーが彼女を変えてしまったように、ニルチェニアもまたオスカーを変えてしまうのだ。近づきがたくて得体の知れない青年から、不思議ではあるけど優しい青年へ。自分の中の何かが彼女と触れ合う度に優しくあたたかくなっていくのは何とも妙な心地でむず痒いけれど、やっぱり嫌ではないのだ。それが“厄介”この上ない。

「……君がいなくなったら気が狂いそうだなァ」

 こんなの聞かれたら死んじゃうくらい恥ずかしいけどさ、と小さく呟きながら、腕のなかでもぞもぞとしたニルチェニアにオスカーは優しい眼差しを向ける。
 分かち合う温度の温かさを知ってしまったのなら、もう二度と元には戻れない。腕のなかで微かに感じる心臓の鼓動を子守唄がわりに、オスカーもそっと目を閉じた。



***



 いつかの続きだ。
 オスカーはそう思いながら若い魔女の髪をすいた。あの頃の自分とは違い、今ニルチェニアの髪をすく手は皺だらけだった。あれから何十年と経っているのだから無理もない。オスカーのとなりにいるニルチェニアはあの頃と同じように、安心しきった顔でオスカーを見つめ、オスカーの腕の中にいる。彼女の声が元に戻ることはなかったが、何十年と暮らすうちにそれも悪くないように思えた。

「よく眠れた?」

 オスカーの問いにニルチェニアは微笑む。オスカーさんは、と唇の動きだけで問い返されたから、「僕もだよ」とオスカーも微笑み返す。よかった、と音のない言葉でニルチェニアが優しくはにかんだ。

 十数年前にオスカーはクルースニクは引退した。人間の身でありながらよくぞここまで戦った、とあのお堅い連中から珍しくも褒め称えられたのが懐かしい。人間としてのクルースニクの第一人者であったオスカーの活躍もあってか、オスカーが現役を引退しても人間のクルースニクがいなくなることはなかった。今やクルースニクの四割ほどは人間なのだという。お前は本当によくやってくれたよ、と感極まって目に涙をうかべた師匠のミシェルに抱き締められたのがクルースニクをしていていちばん嬉しかったことだ。やっと爪痕を残せたのだと、誰かの役に立てたのだと、自分はやるだけのことはやったと実感できた。

 オスカーがクルースニクを続けながらも少しずつ老いていくのに対して、魔女であるニルチェニアはいつまでも若いままだった。出会った当初よりは少し成長したものの、そのあとは老いることもなく美しく優しい魔女として、いつでもオスカーの傍らにあり続けた。

 オスカーとニルチェニアは象徴だった。自分達とは異なる存在であれ、友好的にやっていける──という、いわば平和の象徴だった。当初は人間のクルースニクと異端の魔女という組み合わせは白い目で見られたりもしたものの、お互いに人々を助けていくうちにいつのまにかそうなっていた。オスカーとニルチェニアが生涯のパートナーとして関係を結ぶときには多くの人々から祝福を受けた。

 人間のくせにと疎まれてきたオスカーも、いまいましい魔女めと蔑まれてきたニルチェニアも。
 多くの人に愛され、あるいは尊敬されて、そうしてここまでやってこれたのだ。

「心残りがあるとするなら、君と最期まで共にいられないこと、だなあ」

 ニルチェニアのすべすべとした手のひらがオスカーのかさついた手のひらを握る。同じときを生きてきたはずなのにね、とオスカーは苦笑いしてしまった。
 自分の残り時間がそう多くないことは知っていた。だからこそクルースニクをやめたのだ。残った時間はニルチェニアと使いたいと。ただのわがままではあったけれど、周りもそれが良いとすすめてくれた。君はあまりにも他人に寄与しすぎたと。残りの時間は自分のために使えと。

 ニルチェニアは酷く寂しい顔をして、オスカーの手を握りしめる。そんな顔をさせたかった訳じゃないんだと口にすれば、ニルチェニアはそっとオスカーを抱き寄せた。ニルチェニアの心臓の音がよく聞こえる。幸せだなあ、とオスカーはニルチェニアを抱き締め返した。

「君が僕より先にいなくなったら気が狂いそうだなって、ずっと思ってたのに」

 幸せなはずなのに溢れる涙は止まらなかった。

「老いていく僕を、置いていく僕を、どうか許さないで」

 君とずっと一緒にいたかったのに、とやっと吐き出せたことばを飲み込むように、ニルチェニアがオスカーに口づける。ずっと一緒よと囁かれた気がした。菫色の瞳はいつもより美しく輝いていて、オスカーにそそがれる眼差しはいつもよりずっと優しい。

「ニルチェニア、君がこっちに来たら、そのときは僕がいちばんに迎えにいくから。だからどうか、永く生きても……僕のことを忘れないでおくれね。──それから、ニルチェニア……」

 君を愛している。

 続きを口にする前に、オスカーは眠りについてしまった。優しく響く魔女の鼓動を子守唄に、人間にとっては永久の時間を、魔女にとっては瞬きのような優しい時間を終えてしまった。


***


「微睡むような時間だったわ」

 数十年、あるいは数百年ぶりに聞く彼女の声にオスカーの胸は高鳴った。本当はもう心臓も肉体もないはずなのに、それでも胸がときめいたのだ。

「オスカーさんのいない世界は、世界から色がひとつ消えたみたいで。何をしていても、どこを見ていてもうすぼんやりとしていて……春の午後に微睡むような、現実味のない時間だったの」
「春の午後にお昼寝するのは君のお気に入りだったろ?」

 案外僕がいない時間も楽しかったんじゃないの、と口にしたオスカーにニルチェニアは頬を膨らませた。これを見るのも何年ぶりだろう、とオスカーの心に暖かい何かが満ちていく。

「“こっち”にきてやっとおしゃべり出来るようになったのに、そんな意地悪言わなくても良いじゃないですか……」

 ふん、とそっぽを向いたニルチェニアに「ごめんね」とオスカーは素直に謝る。一方でニルチェニアも本気で拗ねたわけではなかったから、「褒めてください」とオスカーににっこりと笑いかけた。

「ちゃんと覚えていたんですから。オスカーさんの三倍は生きましたけど、あなたのことを忘れた日はなかったの。最期に約束してくれたでしょう? いちばんに迎えに来てくれるって。……わたし、それだけを支えに頑張ってきたんです。だから……本当に、夢みたい」
「……うん。本当に頑張ったよね。ずっと、ずっと見てた」
「ほんと……本当に、本当にオスカーさん?」
「本当だよ。本物の僕だよ。君を迎えにきたんだ」

 オスカーが亡くなったあと、彼の遺志を継ぐようにニルチェニアはクルースニクとなったのだ。魔女がクルースニクとなるなんて……と流石に反対もあったようだけれど、それはミシェルがうまく根回しをしてくれたようだ。彼女は真摯にクルースニクを務めあげ、いつかのオスカーのようにこちらへやってきた。
 だからオスカーは迎えにきたのだ。たった一人で戦い続けた愛しい魔女を抱き締めるために。あのとき口にできなかった言葉を口にするために。

「……君をずっと愛してるんだ。これからも」

 抱き締めてもいいかな、と聞いたオスカーにニルチェニアは「ダメ」とにやりとした。

「今度は私があなたを抱き締めたいの。……“貴方がいなくなってから、気が狂ってしまいそう”だったんだから」
「……これ以上僕を死なせる気?」
「そのときは一緒ですよ。……今度こそ」

 悪戯っぽく笑って腕の中に収まる魔女に、「ほんと君ってば厄介なんだから」とクルースニクは笑う。

 これから始まるのは、魔女にとっても人間にとっても永久に続く優しい時間だ。
 物語は終わらない。そこに夢見るものがいる限りは。
 

 


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