唇に赤を塗りつけて

 右膝、左肩、左胸と右胸。脇腹。それぞれに一つずつ鉛弾を撃ち込んだというのに、目の前の男は倒れるそぶりも見せなかった。
 銃を手にした手が震える。知らずに息を止めてしまう。こんなターゲットは初めてだ。幾度も人を手にかけてきたけれど、こんな人間は初めてだった。

 血は流れている。傷も“きちんと”できている。普通の人間ならば致命傷だし、倒れこんで血まみれの地面にキスをしている頃合いだろう。けれど。

「随分熱烈だな」

 青い瞳を濁らせることなく、【彼】は私に笑いかけた。撃ち込まれた銃弾など全く気にすることもなく。嘘だ、とつい呟いてしまった。近づいてくる男にもう一発。眉間に弾がめり込んで、頭蓋骨の一部を吹き飛ばす。ようやっと男が崩れ落ちる。頭蓋骨と一緒に吹き飛んだなにか白っぽく、灰色のようなものは脳の一部か何かだろうか。溢れた血にあっというまに染まってしまった。慣れ親しんだ火薬の匂い、血の匂い。それに安心して、私はようやく呼吸することができた。この男は死んだのだ。この男はもう動かない。

 私の口の中はからからに乾いていた。手の震えはまだ止まらない。一番最初に人を撃ち殺したときですら、深呼吸を三度するうちには止まってしまったというのに。犬のように短く荒い息を何度も繰り返してしまう。鼓動も落ち着いてはくれない。まるで恋でもしてしまったかのように。

 じくじくと血だまりが広がっていく。人間の心臓はすぐには止まらない。止まりつつある鼓動にあわせ、ゆっくりゆっくり、まるで私を追い詰めるように男の血が広がっていく。私の爪先まであと少し。血にすら不気味さを感じて、私は一歩後ずさった。

 ──変な男だった。

 どこかのマフィアの頭だと聞いている。私は雇われただけだから、ターゲットがどこの誰でもよかった。撃って殺して、そして私にお金が入ればそれで良い。相手がどこの誰でも本当にどうでもよかった。今までに的にしてきたターゲットの最期を見届けるときだって、私の心が乱れたことなんてなかった。撃てば死ぬ。人はそういう生き物で、私は人間のそういうところを気に入っていた。事象に対する結果を確実に返してくれるから。引き金を引いた結果はいつだって変わらない。ややこしいことなんて一切抜きだ。

 ──変な男だった。

 ターゲットの顔を把握するため、私は事前に彼と接触したことがある。顔を覚えられるとまずいから一度だけ。人通りの多い道で、彼とすれ違うだけ。たったそれだけ。なのに彼は私のことを覚えていた。彼を手にかけるために向けた銃口の先で、彼は美しく笑った。「また会えたな」と。私のことを覚えていたのだと。

 銃口を向けられているというのに、彼は全く怯えなかった。銃という存在そのものを意識していなかったといっても良いだろう。彼がその蒼い瞳に映しているのは私だけで、それ以外には全く興味がない──そんな気さえした。

 怖くないのか、とつい聞いてしまった私に、彼は「何が怖いものか」と微笑したのだ。その美しい顔をやんわりと緩めて。

 ──“君のような女性に導かれて天国へ行けるというのなら”。

 ただの世迷い言として処理したかったが、それにしては彼の表情は穏やかすぎた。君は美しい、と彼は何度か口にした。恋人に囁くように。

 ことわっておくが、私は美人というわけではない。暗殺で生計を立てている身だ。目立った外見を持てばそれだけターゲットに見つかりやすくなってしまう。
 私は「ありふれた見た目」であることこそが私の武器だと知っている。注目されるでなく、警戒されるでなく、自然と相手の懐に入れて誰の印象にも残らない。
 空気のような見た目こそが、暗殺者としての私の最大の武器なのだ。

 化粧っ気のない顔、清潔感にだけ気を払った服装、無難にまとめた髪。どれをとっても「美しい」とは言えない。だからこそ男の言葉は私にとって全く理解できないものだった。

 ──“唇に紅でも差したなら、もっと美しいだろうな”。

 口紅をつけたこともない私に彼はそう言ったのだ。

 今度君に贈ろうか、とターゲットの男は笑った。貴方は今ここで私に殺されるのよ、と私は口にした。死ぬことへの恐怖で頭がおかしくなったのか、もしくは元々こういう人間なのか。でもそれもどうでもよかった。彼は私に撃たれて死ぬ。それだけのことだ。どうでもいい。

 脳と頭蓋の欠片を血でびちゃびちゃにしながら、あの男は血に伏していた。それをぼんやりと眺め、私はようやく自分の呼吸と鼓動が元に戻ったのを感じた。そうだ。この男は死んだのだ。私が手にかけた。撃たれて死なない人間などいるはずがない。

 死んでしまえば希代の色男もただの肉片だ。私はいつものように踵を返し、その場を後にしようとした。

「──殺してくれるんじゃなかったのか」

 少し低く、腰のあたりを擽るような良い声だ。柔らかく広がって心をときめかせてくれるような。
 けれど──けれど、今の私にとっては最悪の声だった。

「熱烈なキスはもうおしまいか、“ベラドンナ”?」

 背中から抱き締めるかのごとく、男の腕がゆっくりとのびてくる。腰を通り腹に回されそうだった腕は、それでも紳士的に少しの間をもって私に触れずにいた。

「残念だな。君のような冴えないタイプの方が、以外と夢を見させてくれるものなんだが」

 耳元で囁かれるそれらに私は肌を粟立てた。温かくもなく、けれど冷たくもない生ぬるい滴が私の肩に垂れる。見なくたってわかる。男の血だ。私は振り向けなかった。振り向いてしまったら、私の全てが壊れてしまうと思ったから。

 急所を撃たれれば人は死ぬ。
 人においての常識だ。頭を吹き飛ばされ、胸を撃ち抜かれ、それでも生きているこの男は──人間なのか?

「君のこれは玩具じゃないだろう?」

 艶かしい手つきで私の銃に男の手が触れる。血まみれの革手袋が銃身をするりと撫でた。赤い血が黒い鉄にまとわりつく。私の手は再び震えだし、呼吸もどんどん荒くなっていく。

 ──この男は何なんだ? どうしてまだ生きている?

「そう怖がるなよ“ベラドンナ”。君はおとなしく俺に身を委ねていれば良い──さあ」

 俺の方を向いてくれないか。

 本当に甘く、耳に毒を注ぐように男は私にそう呟いた。鼓膜を震わせ、胸を高鳴らせるそれがただの──ただの睦言であったのならば。きっと私もそちらを向いていたのだろうけれど。

 今の私にとっては怪物の咆哮に等しかった。手の震えは全身に回り、体は凍りついたように動かない。しびれを切らしたか男の腕が私に触れて、くるりと体を回転させた。

「──死ねッ!」

 男の顔をじっくりと見ることもなく、私は狂ったように男の顔に銃身を何度も何度も叩きつけた。死ね、殺す、死んでしまえ。何度も何度も怯えたように口にして、ただ鉄のかたまりで彼を殴打した。必ず息の根を止めなくちゃ。それしか頭になかった。どうやったらこの男は動かなくなる? どうやったら殺せる? どうやったら。どうやったら。どうやったら。そればかりが頭をぐるぐると回る。聞くに耐えない鉄と肉とがぶつかる音を私は何度響かせたのだろう。腕が疲れて殴り付けるのをやめたとき、殴り付けた男の顔を見て私は発狂しそうになった。

「随分情熱的だな。ぞくぞくしたよ」

 血こそこびりついてはいたが、男の顔は“元通り”になっていた。吹き飛んだはずの頭の一部も、まるで何事もなかったかのように元通りだ。出来の悪い悪夢を見ているような気分になる。この男は本当に何なんだ?

「甘美な痛みだ。俺はそれに死ぬほど恋い焦がれているんだよ。……けれど君も……俺を天国には連れていってくれそうにない」

 残念だよ、と男は笑って私の腹に自分の手を突き刺した。熱したナイフでバターに触れたように、私の腹に男の手は難なく突き刺さった。

 お腹のあたりに男の腕を感じる。痛みを感じるというより、ひたすらに熱かった。どくどくと脈打つ私の心臓に合わせて、じくじくと男の服の袖に血が広がっていく。私の血だ。
 悪趣味にも男は私の腹のなかをぐちゃぐちゃにかき回し、「君は天国に行けるのになあ」と寂しそうに呟く。吐き気がしたが、もうどうやって吐いたら良いのかもわからない。男の腕が抜けた。逞しい腕が崩れ落ちそうな私の腰を支え、男の血と私の血に染まった指先が私の顔へ近づいてくる。その指はするりと私の唇を撫でた。

「──ああほら、綺麗だ」

 死化粧というには派手な真っ赤な口紅。
 私が唇を染めたのはこれが最初で最後だった。




prev next



bkm


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -