眠りの精霊と眠らない娘

「……もうそろそろ寝る気にはならないか」

 ニルチェニアに優しく声をかけたのはアルリツィシスだ。彼はニルチェニアの『眠りの精霊さん』だ。日がくれて星の輝く夜になると、彼はいつだってニルチェニアの元へやって来てくれた。忙しい兄や叔父の代わりに本を読んでくれて、隣で一緒に寝てくれて、ぽんぽんと背中を撫でてくれる。
 アルリツィシスがいるから、ニルチェニアにとって夜は怖いものではなかった。

「ねたら、あるりちしすおにいさんはお家にかえってしまうでしょう」
「……困るな、そう言われると帰れなくなる」

 少し拗ねたふりをしてアルリツィシスにそういえば、彼はひどく優しい顔をしてニルチェニアの頬を撫でた。舌足らずな発音でもアルリツィシスはちゃんと応えてくれた。おにいさまと同じ顔をなさるのね、とニルチェニアもアルリツィシスの頬に手をのばす。

 とはいえ、アルリツィシスはニルチェニアの兄とは全く似ていない。

 ニルチェニアの兄のルティカルには、アルリツィシスのような隈はないし、もっと健康そうな顔をしている。髪だって曇天色ではなくて銀色だ。

 それなのに、アルリツィシスが見せた表情はニルチェニアの兄のものとよく似ていた。その理由をニルチェニアはしらない。アルリツィシスだって知らないだろう。その表情が『妹に向ける兄の顔』のそれそのものだったなどとは。

 ニルチェニアがアルリツィシスに触れても、彼の体温を感じることはできなかった。感触すらない。そこに存在しているのかいないのか、夢か現か幻か。子供心に『不思議な人だ』とニルチェニアは思っていた。

「……朝おきるとね、おにいさんはとなりから消えているの」

 それがさびしいから寝ないのよ、と言うニルチェニアを、アルリツィシスは優しく撫でた。僕は眠りの精霊だから、と囁く。

「君が眠ったのなら、君が再び目覚める朝までいることは出来ない。けれど、君が眠るまでここにいることは出来る。一人で眠るのが寂しいなら、僕がそばにいよう」

 それじゃあだめよ、とニルチェニアは頬を膨らませた。おにいさんのいじわる、とアルリツィシスの頬をつつきながら。

「……ずっといっしょにいてくれなきゃ、朝がきて……また夜が来るまでずっとさびしいわ。さびしい気持ちで朝をはじめるなら、ずっと起きているの。そうしたらおにいさんはいなくならないし、わたしはさびしくない」
「……困ったな」

 宥めるように髪を撫で、隣に横になっている少女をアルリツィシスは抱き締めた。どこか遠い昔に誰かにこうしたような気がする。あのときは寒くて、身を寄せ合わなくては──

「おにいさん?」

 何かが頭を過りそうになったところでニルチェニアが丸い瞳をぱちぱちとさせながら、アルリツィシスに声をかける。具合が悪いの、と心配そうな顔をして、「おじさまを呼びましょうか」と続ける。さっき頬をつついていた手で、今度はアルリツィシスの額を撫でた。
 ニルチェニアの叔父が腕のよい医者だということをアルリツィシスは聞いていたが、ニルチェニアの申し出は断った。具合が悪い訳じゃないからだ。

「ニルチェニア、僕は明日もここへ来るから」

 子供特有の高い体温に柔らかく小さな体。そっと抱き込んで背中を撫でる。寝たくないと口では言っていたものの、彼女が眠そうに瞬きしていたのをアルリツィシスはわかっている。月も高くのぼっているのだ。子供が起きているには辛い時間なのは間違いない。

 ニルチェニアが子供としてはかなり聡明で大人びていることをアルリツィシスは知っている。
 しかし、嘘がつけるほどニルチェニアは大人ではない。
 朝を迎えるのがさびしい、というのは彼女の本音だろう。アルリツィシスの気を引くためだけの言葉とは思えなかった。

 深窓の令嬢よろしく日がな一日この部屋にいる少女は、人と話すことに飢えているようにも思える。一日中何もできずにただ寝台の上にいる生活の『さびしさ』はアルリツィシスにはわからない。けれど、そのさびしさを癒してやりたいとは思っている。だからこうして毎夜彼女のもとへ向かうのだ。彼女のための眠りの精霊として。

「……かえってしまうの」
「朝日が上れば」

 泣きそうな顔にアルリツィシスも少し残念そうな顔をつくって見せた。出来ることならアルリツィシスだって彼女の願いを叶えてやりたいところだが、そうはいかないのだ。アルリツィシスもいつまでも『眠りの精霊』でいられるわけではないのだから。

 アルリツィシスはこの部屋から出たら、『眠りの精霊』ではなくなる。
 『死者と掟の書』の下、夜と冥府の女神ユンナフィルソシュナへ魂を送り届ける──『渡し守』へと変わらなくてはいけなくなる。

 本来、彼が寄り添うべきは幼い少女ではなく、ありとあらゆる『肉体を喪った』魂だ。それらを導き、かの女神へと引き渡す。それがアルリツィシスの役目だった。

 そっと髪を撫で続けるアルリツィシスにニルチェニアも諦めたのだろう。こぼれそうな涙を自分で拭って、アルリツィシスにぎゅっと抱きついた。

「明日も、ぜったいきてね……」
「もちろん」

 必ず来る、とアルリツィシスは伝え、うとうととし始めた少女のために小さく子守唄を口ずさむ。アルリツィシスが歌い終わる頃には、あれだけごねていたニルチェニアも穏やかな寝息をたてていた。

「また来るよ、ニルチェニア」

 彼女を起こさないようにそっとベッドから抜け出て、アルリツィシスはニルチェニアの額に口づけた。



***



「君は本当に寝ないな」
「一日中ベッドで寝ているもの」

 眠くなんてならないのよ、と笑ったニルチェニアに「まったく」とアルリツィシスは優しく苦笑した。
 『眠りの精霊』と『深窓の令嬢』の出会いから何年たったろうか。あの頃と変わらずにアルリツィシスはニルチェニアの部屋を訪れ、ニルチェニアはアルリツィシスに寝物語と子守唄、そしてアルリツィシスに添い寝をねだった。

 幼かったニルチェニアは今や『ちゃんとした』令嬢となっていて、毎夜訪れる精霊に子守唄や寝物語をねだり、添い寝されるような娘には見えなくなっていた。

 ふにふにと柔らかかった腕はほっそりとして。アルリツィシスの背丈の半分にも満たなかった小さかった体は、いつの間にかアルリツィシスの背丈まで頭二つを残すほど大きくなった。

 けれど、それでも彼女は同年代の少女たちより華奢で小柄だ。『死と掟の書』を有する渡し守と会話ができる、ということはつまりそういうことだ。健康的な人間にはアルリツィシスは見えないものだから。

 アルリツィシスのために広いベッドの半分を開けて、かけていた毛布を少しめくって。ここへいらして、というようにニルチェニアがぽんぽんと自分のとなりの空間を叩く。
 いつもしているようにベッドサイドの椅子に自分のコートをかけてから、アルリツィシスはニルチェニアを見て逡巡する。

「ニルチェニア、その……」
「なあに」

 ノースリーブのインナーからさらけ出た自分の腕を撫でながら、アルリツィシスは言い淀んだ。
 ニルチェニアと出会ったばかりの時は『人の決まりごと』など知りもしなかったが、何年と過ごしてしまっては知らずにいる方が難しい。しかもニルチェニアは令嬢だ。子供の頃はそれでも良かったのだろうが──。

「添い寝は、君くらいの歳の子にするものじゃないと知った」

 子供の柔らかさとはまた違った柔らかさを持ち始めた少女に、アルリツィシスは何の気持ちも抱けはしないし、彼女とアルリツィシスはあの頃のまま『眠りの精霊』と『寝たがらない少女』だけれど。
 彼女とアルリツィシス以外の人間はそれを良くは思わないだろう。彼女の叔父がよい例だ。

「その……君も大きくなっただろう」
「添い寝するには小さなベッドでしょうか?」

 ニルチェニアは精霊に敬語を使うことを覚えた。幼い頃からの仲だからか、ニルチェニアの言葉からは敬語の大半が抜けてはいたけれど。
 それでも、もう子供ではないのだ。
 子守唄を歌うことも、寝物語を聞かせるのも、本来ならば。

「──それとも……あなたの前でも、大人でいなくてはだめかしら」

 月光の下で青白く見える少女が、そうっと微笑んだ。

 わからずに駄々をこねるのは子供のしるしだけれど、わかっていて駄々をこねるのは大人のしるしだ。アルリツィシスの目の前にいる少女は『わかっていた』。自分の横たわる寝台が小さくないことを。

「……大人でいる必要はない、が」
「あなたの前ではわがままな子供でいたいのよ、アルリツィシス」

 あの頃の舌足らずな発音はもう無い。精霊の名もきちんと呼べる。それでもニルチェニアはアルリツィシスに甘えるのだ。さびしいから、と小さく笑んで。

「……君に寄り添って眠るのは、今日が最後だ」
「それなら、ずっと起きているわ。朝日が登っても。日が沈んでまた夜になっても。眠らなければずっと『今日』だもの」
「君はまたそういうことを……」

 くすくすと笑ったニルチェニアに「そういうことをするなら今日から無しだ」とアルリツィシスはつんとする。彼女と過ごす内に自分もずいぶんと「人の仕草」を身に付けたものだな、とぼんやり思った。

「そういう意地悪を精霊さんがしてもいいのかしら。一晩中わたしが泣いてもいいの」
「夜泣きか。あやすのは得意だよ」

 招かれたようにニルチェニアの隣に寝転び、アルリツィシスは寂しがりな少女をそっと抱き締めた。アルリツィシスに体温がないのをニルチェニアは知っているだろうに、まるでアルリツィシスの体温に安心したかのように目を閉じて微笑む。

「こうして背中を撫でれば、君はすぐに泣き止むことを僕は知っている」
「物知りね、精霊さん」

 ふふ、とくすぐったそうにニルチェニアは頬を緩め、アルリツィシスにそっと抱きついた。

「……いつか、子守唄も歌ってもらえなくなるのかしら」
「君がもう少し大人になって、綺麗な宝石の似合う女性になったなら」

 ニルチェニアはアルリツィシスの胸に額を押し付ける。アルリツィシスは長い髪をゆっくり撫でた。

「……寝物語も聞かせてもらえなくなるの?」
「君がもっと大人になって、僕の姿が見えなくなったなら」

 細い腕がアルリツィシスをぎゅっと抱き締める。アルリツィシスもニルチェニアを抱き締め返した。

「……いつか来てもくれなくなるの?」
「君がずいぶん大人になって、その体が重くなったなら」

 その時は、とアルリツィシスはいつかの夜のようにニルチェニアの額に口づける。

「その時は、僕が君を連れていこう」





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