空の器を満たすのは

 ──明日は休みですから。

 たまにはどこかに行きましょうか、と優しく笑ってくれたらいのに「大丈夫」と首を振ったのはムニェカ自身だった。

 お互いに夜型の生活を送っていると、どうしても外に出る機会は減ってきてしまう。お店の大半は深夜まで営業してくれないし、ムニェカが深夜でも行こうと思える場所といったららいのの元くらいだ。
 元々外出に積極的なタイプでもないし、何より昼間の陽はムニェカには眩しすぎる。断ったムニェカに気を悪くするでもなく、らいのも「それならゆっくりしましょうか」と言ってくれた。らいのが隣にいてくれればそれでいいムニェカには十分すぎる。これがいい。ムニェカにはこういうのが一番なのだ。

 最近は仕事が相当忙しかったのか、らいのはムニェカのとなりで気持ち良さそうに眠っていた。髪をすいてもらったり抱き締めてもらったりはできないけれど、らいのの穏やかな寝顔はムニェカにとって大事なもののひとつだった。……けれど。

 すやすやと眠るらいのは美味しそうでしかたがない。肌には健康的なつやがあるし、さらされた首筋には薄青く血管が通っているのが見える。うう、とムニェカは呻いた。お腹が空いているからそんなことを考えてしまうのだ、とらいのから無理やり目をそらす。吸血鬼の血が流れるこの身は、こういうときに不便だった。出来ることなら他の女の子たちと同じように、大好きな人の寝顔を穏やかな気持ちで見つめていたいのに。らいのに失礼なことをしている気がしてならない。寝ている相手を美味しそうだなどと。せめて彼が自然に起きるまで、自分は我慢しよう──ムニェカはそう考えた。

 昨日の夜──というか今日の朝方──らいのはたくさんの愛をムニェカに注いでくれた。恥ずかしくなってしまうほど優しいキスをくれたし、嬉しい言葉もささやいてくれた。それに、もっとどきどきする方法でムニェカに愛を伝えてくれたから、ムニェカはいつの間にかくたくたになって眠っていたらしい。起きたときにらいのの肩口にいっぱい咬みあとが残っていたのは『そういうこと』で間違っていないはずだ。

 愛で満たされている間は噛みついても血は欲しくならない。そんな話をらいのにしたような、しなかったような、でも伝わっているような。ムニェカが噛みついてもらいのは怖がらなかったし、怖がる代わりに甘やかしてくれる。だからそういうときの──二人で微睡むように抱き締めあっているときの──ムニェカの鋭い犬歯は、らいのの皮膚を突き破ることなく、戯れにその肌に食い込むだけで終わるのだ。

 ムニェカが未成年だったと知ってから、らいのは少し遠慮がちだった。まるで嫌われたみたいで悲しく思ったこともあったけれど、らいのの行動はムニェカを思いやってのものだ。大人としての責任を果たすべくの行動といってもいい。大人と未成年との適切な距離をもったふれあいに、ムニェカが不安になってしまったのを感じ取ってくれたのだろう。らいのはらいのなりの責任をもって、ムニェカに恋人として優しく触れてくれる。
 これが愛でなかったとしたら、ムニェカには【愛】が何なのか、一生わからないことだろう。

 そんな風にらいのが丁寧に接してくれるからこそ、ムニェカも彼にふさわしい女性として振る舞いたいと思っているのに──なかなかうまくいかない。

 どうして自分は真っ当な生き物として生まれてこなかったのだろう。らいののそばにいるとそんなことを考えてしまう。ムニェカとらいのは決定的に違っていて、それはムニェカにはどうにもできないことだった。

 彼が作る飲み物のように、とムニェカは思う。あの銀色の器で、私とらいのさんを混ぜたりできないのかしら。そうすれば、決定的な違いなんてなくせるのに、と。

 眠っているらいのの指に、自分のそれを絡めてみる。らいののそれは自分のものより温かく、少し太くて長い。初めて手を繋いだときに自分のものとずいぶん違うのに驚いた。そんな手が優しく触れてくるのにもびっくりした。

 好きなのに、と悲しくなってくる。らいのは優しくしてくれるのに、ムニェカはらいのに牙を立てることしか出来ない。らいのみたいに温かい手を差し出せるわけでもなければ、すっぽりと抱き締められるわけでもない。何かから守ってやれるわけでもないし、せっかく「外に行きましょうか」と声をかけてもらっても断ることしかできないのだ。

 ──挙げ句、隣で眠る彼を美味しそうなどと考えている。不心得者と言わずして何と言おう。

 愛で満たされてもそれは仮初めということなのだろうか。ムニェカとらいのとの『決定的な違い』、つまりはムニェカの『吸血鬼』である部分が、愛の代わりに血を求めるのだ。
 若く溌剌としている者の血が不味いわけはないし、愛している者の血であるのならばなおのこと。

 吸血鬼とは理性と衝動との間で揺れ動き続ける生き物だ。

 愛し続けたいと思う理性は、彼の者を食料たらしめんとする衝動を抑え込み、けれど食欲たる衝動は時に愛という理性すらも凌駕する。

「──たったいちどでいいのに」

 たった一度でいいから、邪な食欲などどこかへ追い払って、その首筋に愛をもってキスをしたい。吸血鬼のムニェカではなく、彼の恋人のムニェカとして。永久に叶わぬ望みだったとしても、願うことくらいは。祈ることくらいは。

「だいすきよ、らいのさん」

 絡めた指がそっと握られるのに、ムニェカは儚く笑みをこぼした。
 


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