すきのしるしのきす
「疲れたなあ……」

 四肢を投げ出すようにソファに倒れこみ、でろんとしているオスカーの顔は、満身創痍そのものだ。一晩中【闇に親しむもの】──つまりはモンスターの類い──と戦っていたというのだから、疲れていてもおかしくはない。目立った怪我や不調は今のところ見受けられず、ただ疲労のみがあるとのことだ。その程度ですんでよかったとニルチェニアは胸を撫で下ろした。
 眠るように目を閉じているオスカーに近寄って、そうっとその頬を撫でてみる。おかえりなさい、と口に出来ない代わりだ。

「……ありがと。良い子にしてた?」

 上半身を起こし、オスカーはニルチェニアを抱き締める。ニルチェニアが声を失ってからというもの、オスカーはこうしてニルチェニアに触れることが多くなった。嫌ではないし気恥ずかしいくらいで済むものの、まだ少しなれない。
 細い瞳がそっと開かれて、アイスグレーがニルチェニアの丸い菫色の瞳をじっと見つめる。唇が触れあってしまいそうな距離にニルチェニアは照れて、ぎゅっと目をつぶってしまった。

「照れてるの?」

 オスカーはくすくすと笑って、ニルチェニアの片目を覆うように長く伸ばされている前髪を払った。露になった額にキスを落として、退け腰になったニルチェニアを抱き寄せる。硬直してしまったのを良いことに、鼻にも唇を寄せた。真っ赤になってしまった頬をゆっくりと撫でる。目を開けてくれないの、とからかうようにオスカーが口にすれば、ニルチェニアの唇が小さく動く。声が出ていなくても、だめ、と言われたのがオスカーには分かった。

「かわいい」

 照れ屋で恥ずかしがり屋で、オスカーが帰ってくるまで不安でいっぱいになりながら、それでも一晩中眠らずに待っていてくれるニルチェニアが可愛くてたまらなかった。オスカーを心配させまいと拭ったあとなのだろうが、頬にはうっすらと涙のあとがある。さっき頬をなでたときに涙が乾いた感覚があったから、間違いないだろう。ひとりぼっちで泣いていたのだ。オスカーが帰ってくるまで。オスカーの無事が確認できるまで。

「ただいま。帰ってきたよ、ニルチェニア」

 おかえりなさい、とニルチェニアの唇が動く。ニルチェニアの瞳が再び開かれる前に、オスカーは小さな唇に自分のそれを重ねることにした。逃げるようなそぶりは見せないものの、やはり照れているのだろう。そうっと握った手は、節くれ立った指に絡められた小さな手は、どんどんと熱くなってきている。軽いキスを何度も贈った。唇をふれ合わせるだけなのに、こんなにも幸せな気持ちになれるなんてオスカーは知らなかった。そっと唇を離し、真っ赤になった目元に名残惜しげにもうひとつ口づける。きゅっと閉じられた瞼は、とうぶん開きそうになかった。

「ニルチェニア……」

 呼んで貰えないかわりに、オスカーはいつだって精一杯の愛を込めて彼女の名前を呼ぶことにしている。その声がいつもの自分の声よりずっとずっと優しくて甘い響きを持っているのに、オスカーは気づいていない。優しくて甘い声だからこそ、ニルチェニアが恥ずかしがるのにも。

 オスカーの背中にニルチェニアの細い腕がおずおずと回される。ぎゅっと抱きついてくるのがどこまでも愛しかった。小さいからだは抱き抱えるのも簡単で、オスカーの腕のなかにニルチェニアはすっぽりと収まってしまった。小さいからだが小さな鼓動を刻んでいるのも今ならわかる。大切なものを閉じ込めてしまうように、オスカーは愛しい身体を抱き寄せた。苦しくはならない程度に抱き締めて、白い首筋に鼻先を擦り付ける。自分が吸血鬼だったのなら、間違いなく噛みついていたに違いない。ただの血と肉と骨のかたまりで、自分と性別くらいしか変わらない普通の人間なのに。それなのに、まるでニルチェニアそのものが魔法でもあるかのように──オスカーを惹き付けてはなさないのだ。

「可愛い。可愛いね、ニルチェニア。……僕のニルチェニア」

 まるごと自分のものにしてしまいたくなる。所在なさげに、恥ずかしげに腕のなかでもぞもぞとする華奢な身体に、オスカーはくすりと笑った。僕の、なんて馬鹿みたいな独占欲を滲ませてしまうくらい、どうにかなってしまいそうなのだ。こうして無事に彼女のもとに帰ってくるたびに、オスカーは愛しさにおかしくなりそうだった。熱に浮かされたような、酒に酔ってしまったような言葉も、ニルチェニアはちゃんと受け止めてくれる。オスカーが注いでしまう愛も、戸惑いながらオスカーに少しずつ返してくれる。見返りを期待しているわけではないけれど、返してもらえるのはやっぱり嬉しい。

 腰に回っていた細い腕がほどかれて、オスカーの両頬に柔らかい手のひらが添えられる。閉じていた瞼がためらうように開かれた。菫色の瞳が、長く伸びた睫毛が、オスカーの心を擽っていく。
 音を含まない言葉が、ニルチェニアの唇からこぼれ落ちた。

 ──目をとじて。

 恥ずかしがり屋だなあ、と内心でにやにやしながら、オスカーは大人しく目を閉じた。腕のなかの体が小さく動いて、オスカーの頬に柔らかい感触を残していく。
 本当なら唇が良いけど、と口に出さないだけの分別はあったし、なにより頬へのキスだけでも満たされてしまう。彼女の精一杯の誠意だと、愛情だと知っているからこそ。それ以上は求めてはいけないとオスカーもわかっている。少しずつ、ゆっくり慣れてくれればそれで良い。

 馬鹿みたいに注いでしまう愛は、彼女の負担になっていないだろうか。そんなことをよく考える。


***


 寝室の扉が控えめに開けられる。寝ている自分を起こさないようにだろう、とニルチェニアは目を開けずに考えた。入ってきたのはオスカーだ。ひたひたと静かな足音だけが薄暗い部屋に響く。オスカーは静かにベッドへと上がり、ニルチェニアの隣に横になった。いつもするようにニルチェニアの身体を抱き寄せ、首筋にまとわりつく髪を払う。肌にふれる指先がいつも優しいのに、ニルチェニアはどきどきとしてしまう。次に何をされるかわかっているからこそ。

「……おやすみ」

 祈るように、懇願するように、オスカーは眠りの挨拶と共にニルチェニアの喉に口づける。もうずっと前に出なくなってしまったニルチェニアの声を取り戻すかのように。かつてのニルチェニアはおとぎ話における【王子様のキス】を鼻で笑ったりもしたけれど、それでも祈るように毎晩口付けてくれるオスカーのことを笑う気にはなれなかった。むしろその優しさに、その真摯さに泣きたくなることばかりだ。どうしてそんなに優しいのとニルチェニアが聞いてしまったとしても、オスカーはいつもの飄々とした笑みで「何でだろうね」と返すだけだろう。それが苦しかった。

 無償の愛とはどんなものか。
 ニルチェニアはそれをオスカーに教えられた。見返りも求めず、注がれるだけの愛。そこには下心もなければ打算もない。ただ、自分の内側から溢れるどうしようもないほどの優しい気持ち。そんなに素敵なものを、自分は与えられてよいのだろうか。

 オスカーはニルチェニアに見返りを求めたことがない。それはニルチェニアにとって嬉しいことでもあり、不安なことでもあった。血の繋がったものですら簡単に自分を放り出してしまったのだ。血の繋がりのないオスカーは、いつまで見返りなしで自分の側にいてくれるだろう。

 オスカーにもらったぶんの愛を返せている自信はなかった。ニルチェニアもオスカーのことは愛している。けれど、彼の愛の方がニルチェニアのそれをずっと上回る気がしてならないのだ。その上、ニルチェニアには彼のように愛をささやくことができなかった。好きだと口に出したいときも、ニルチェニアの唇からは言葉が出てこない。煙と熱に燻されてしまったニルチェニアの喉は、ニルチェニアからすべての言葉を奪っていってしまった。自分の口で伝えたかった「大好き」は、今もニルチェニアの胸の奥でくすぶっている。

 優しい手のひらが何度もニルチェニアの髪をすいた。指先からでも伝わってくる愛に、何度泣きそうになったかわからない。ニルチェニアが泣く度にオスカーは困った顔をしてしまうから、彼の前では泣かないことに決めているけれど。オスカーが抱き寄せてくれたのをいいことに、ニルチェニアはその胸に顔を埋めた。寒いかな、などとオスカーが呟くのに目頭が熱くなる。そうじゃないの、と声にならない言葉を呟いた。オスカーに抱き締めてもらっているから、寒くなんてない。オスカーはいつだってニルチェニアを満たしてくれる。ニルチェニアのちっぽけな身体には余るほどの愛をもって。

 魔女のニルチェニアに、おとぎ話のなかの幸せなお姫様に憧れていたニルチェニアに、オスカーは「お姫様にする」と言ってくれた。自分はもしかしたらニルチェニアの王子様にはなれないのかもしれないが、それでもかならずお姫様にすると。ニルチェニアを幸せにすると。
 オスカーはちゃんとニルチェニアをお姫様にしてくれた。もちろん、ニルチェニアの王子さまはオスカーだ。オスカーは約束を守ってくれた。

 それなのにこんなに苦しいのは、とニルチェニアはオスカーにくっついて思う。涙が出てしまうのはオスカーの纏う薬草の香りが、薬の香りがニルチェニアの鼻を擽っていくからだ。そうに違いないと目をぎゅっとつぶる。

 愛している、と口に出来ないのがこんなにも辛いことをニルチェニアは知らなかった。足を手に入れる代わりに声を失った人魚の姫もこんな気持ちだったのだろうか。


***


 朝日が昇った。
 隣に寝ている愛しい人は、静かな寝息をたてている。それに小さく微笑んで、その瞼にキスを落とした。
 注ぎすぎて溢れてしまう愛も、伝えるすべもなくくすぶる愛も。

 たった一つのキスで伝わることを、二人とも知らない。






 


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