「そういうのは聞きたくなかった」

 真珠のように丸い月が昇る夜。
 白い外套に白い帽子を身に付けた青年が、とある家のドアを叩く。家の主は白髪の女性だ。

 魅惑的なすみれ色の瞳を持つ、美しい女性だ。
 


***


 とんとん、とドアを叩いた音が聞こえて、ニルチェニアは目を覚ました。今は何時だろうと時計を見つめて、真夜中であることに気づく。今の音は何かの気のせいかしら、と首をかしげた。時間が時間ゆえに、来訪者がいるとは思えない。

 隣にはオスカーが寝ている。ニルチェニアをゆるく抱き寄せるように、抱き枕にするようにしながら寝息を立てている彼は、ニルチェニアが目を覚ましたことにも気がついていない。
 やっぱり気のせいだったのかしら、とニルチェニアは目を閉じようとした。

 とんとん

 また、ドアを叩くような音がする。少し悩んでから、ニルチェニアはオスカーを起こさないように、ベッドから抜け出すことにした。ナイトウェア一枚ではまだ肌寒かったので、近くの椅子にかけていたナイトガウンを身に付ける。身に付けたときに、薬草のような香りがふわっと鼻を掠めたのは、オスカーと同じ部屋にいるからだろうか。薬師であるオスカーがまとう香りとよく似ていた。別に臭いと言うわけでもないし、夏場ならむしろ爽やかな気分になるからと、ニルチェニアはこの香りを嫌ってはいなかった。

 室内用の靴を履いていても、冷えた床が足裏から体温を奪っていく。こんな時間に誰かしら、とニルチェニアはランタンに火をいれて、音が出ないように持ち上げる。その間もとんとんとドアを叩く音は続き、ニルチェニアはようやくドアノブへと手をかけた。ゆっくりと扉を開けて、小指一本が挟めるかどうかほどの隙間から来訪者の顔を見る。

「やあ、こんばんは。夜分遅くに悪いね」
「あら……ミシェルさん?」

 ドアの向こうでにこりとしたのは、銀髪に青い瞳の青年だ。かつてオスカーの師であった──とニルチェニアは聞いている。時折オスカーがミシェルについて話すこともあった。オスカーの話を聞く限り、ミシェルを尊敬しているということも伺えた。

 小指ほど開けていた扉をもう少し引いて、ニルチェニアはぺこりと頭を下げる。

「こんばんは。……珍しいですね、こんな夜中に。何かあったのですか」

 ニルチェニアもミシェルとは何度か顔を会わせたことはあるが、夜分遅くに訪ねてくるような人ではなかった気がする。とはいえ、そんな彼がこんな時間に訪ねてくるということは、何かあったのかもしれない。

「ちょっとね。……ああ、今日はオスカーがいるのか」

 タイミングが悪かったとでもいうような苦笑いを見せた青年に、ニルチェニアは首をかしげる。どうしてわかったの、というようなニルチェニアの態度に、銀髪の青年が小さく笑った。

「ナイトガウンと間違えてない?」

 とんとんと自分の胸を叩いて見せた青年に、ニルチェニアは自分のガウンを見返してみる。

「……あっ」

 よく見れば、羽織っていたのは自分のガウンではなく、オスカーの上着だ。暗い室内で手に取ったせいで取り違えたらしい。恥ずかしい、と顔を赤くしたニルチェニアに「仲がよろしいようで」と青年は笑う。

「まあ、こうも寒いとね。ナイトガウンよりそっちの方が暖かいと思うよ」

 慰めるようにひらひらと振られた青年の手が、「俺の手もこんなに冷たいし」とニルチェニアの手を握る。死人か氷のように冷えきった手に、ニルチェニアも顔をしかめた。

「大変。──何か温かいものでも」

 ニルチェニアが彼を招き入れようとすれば、「君は部屋に戻っておいで」と背後から声がかけられる。オスカーだ。
 ニルチェニアを自分の方に引き寄せて、「あとは僕が」と小さく笑う。ベッドの方が暖かいしね、と付け加えて。

「ごめんなさい。起こしてしまった?」

 申し訳なさそうな顔をしたニルチェニアにオスカーは首を振る。

「ううん。実を言うと君がベッドから抜け出す前から起きてたんだ。なんだか寝付けなくてね?」
「それなら良いんですけど……」

 飲み物くらいは私が出します、と台所へ向かおうとしたニルチェニアを引き留めて、「それも僕がやるよ」と額にキスを落とす。

「ちょっ……と、人前!」
「先生は何かあればすぐ女の子を口説くから。ちゃんと僕の恋人ですって言っておかないと」

 あはは、とからかうように笑ったオスカーに、ニルチェニアは真っ赤になる。口付けられた額を押さえて、照れ隠しのようにオスカーをにらんだ。馴れた様子でそれをいなしたオスカーは、真夜中の訪問者へと向き直る。

「……今晩は、先生。──ニルチェニア、もう部屋に戻っていいよ。寒くないように扉も閉めておいで。先生が帰ったら僕も部屋に戻るから」

 ゆっくり寝てて、とニルチェニアを部屋に返し、「こんな夜中に人を招き入れちゃダメだよ」と茶目っ気たっぷりに続ける。

「吸血鬼だったらどうするんだい?」


***


「この前のアレさあ、ほんと大変だったろ」
「この前のアレ?」

 どのアレだろうと思いながら、オスカーは紅茶を口にする。まだ肌寒い時期だからこそ、温かい紅茶が美味しく感じられた。目の前に座るかつての師は、「ほんと寒くて嫌になるよな」とぶうたれている。寒くなると関節が痛むだのなんだのと文句を言い始めるところは、何千年と生きている者らしい。本当は僕よりずっとお爺ちゃんなんだよなあ、と若々しい師を見てオスカーは思う。

「吸血鬼だよ。よく何とかしたよな、お前も」
「元とはいえクルースニクですからね。先生の弟子でもありましたし」
「とはいってもなあ……お前の叔父さんも言ってたろうけど、【闇に親しむもの】は舐めてかかるなよ? いくら俺が稽古をつけようと、武器の使い方を教えようと、お前自体は普通の人間なんだから」
「分かってますよ」
「恋人残して死ぬような真似はすんなよ? 格好つけたくなる時があってもだ」

 ミシェルのお説教を懐かしく思いながら、「分かってますよ」とオスカーはもう一度笑った。そんな馬鹿な真似はしません、と。
 情けないことではあるけれど、ニルチェニアにはオスカーの格好悪いところも弱味もすべてがお見通しなのだ。オスカーが馬鹿な真似をする前にニルチェニアが引き留めるだろう。そういう賢さをオスカーの恋人は持っていたし、自分の手に負えないものに立ち向かう蛮勇さをオスカーは持ち合わせていない。無駄だからだ。一時の自己満足のためにその後の自分を犠牲にするような、そんな考えはオスカーの中には最初からない。ミシェルもそれを分かっているはずだったが、それでもミシェルは【師】としてオスカーに何度も口にする。

「俺とかソルセリルみたいに、何されても死なねえってんなら良いけどさ。……オスカー、お前はちゃんと《生きてる》んだから」

 殺されるような真似はするなと、オスカーが生徒だった頃からの口癖をミシェルは繰り返す。それが懐かしい。

「それにしたって可愛い彼女作って……いやあ、羨ましい」
「よく言いますね。僕が生徒だった頃から、先生はいろんな人に声をかけられていたでしょう?」

 聖職者にあるまじきことをしていたのも知っているんですよ、とオスカーはニヤリと笑う。クルースニクをやめた今だからこそ、冗談として口に出来るネタだ。

「色街で先生が女性連れで歩いているのを目撃するまで、純真な僕は《先生は寝る間も惜しんで【闇に親しむもの】と戦っている!》って感動してたんですよ」
「ただ遊んでたわけじゃないぞ? 色街なんかには吸血鬼が沸きやすいから、巡回してたんだよ」
「巡回と遊びと、どっちに重きを置いてました?」

 ミシェルはにこっ! と笑っただけで答えを返さない。先生はいつまでも変わらないんですから、とオスカーも笑う。

「で、まあ──それはおいておくとして」
 
 答えに困ったのかそうでないのか、ミシェルが話を切り出した。


***


「珍しいですね、先生。俺に頼みごとでも」

 オスカーは「外は寒かったでしょう」と愛想よく微笑んだ。

「何か温かいものが欲しくないですか? 豆のスープがありますけど、どうします? 今日の夕飯の残りなんですけど、僕の自信作で。あの子も美味しいって誉めてくれました」
「……いや、遠慮しとくよ。それより随分あの子と仲良さそうじゃないか」
「まあ、それなりに。……スープじゃなかったらどうしようかな。満月ですしね。邪気払いに白ワインでも飲みますか?」

 満月の夜には我が物顔で【闇に親しむもの】が跋扈するからと、それぞれが嫌うものを口にするのが習わしとなっていた。例えば、悪魔はタケノコや餅などの【聖なる食べ物】を嫌うとされていたし、赤帽子はミントなどのハーブを嫌う。人狼は香辛料を嫌い、吸血鬼は白ワインを嫌う。そんな言い伝えがこの地方には残っていた。

「うーん。お前の言い様じゃあ、今日はここには泊めてもらえないようだし。酒を飲むのはやめておくよ。酔っぱらって夜道を歩くなんて真似はしたくない」
「そうですか」

 特に気にするでもなくオスカーは青年をソファに座らせた。お前も座れよとかけられた言葉に、「別に平気ですよ」とにっこりと笑う。

「こっちのが首を落としやすいでしょ」


***


「お前んとこにきた吸血鬼が俺そっくりだったってマジ?」
「マジですよ。あの子ですら気付かなかった」

 【擬態】か、とミシェルが難しい顔をする。

「よく見破ったな?」
「何年も先生の側にいましたからね。……丁度、吸血鬼があの子の手を握るところを見ていたんですよ。あいつ、素手で触ったから。……先生は女性に触れるときには手袋着用でしょう?」

 いつもの絹手袋──とオスカーは自分の手を指差す。オスカーの手にもまた、手袋がはめられていた。

「僕の場合は爪に薬を仕込んでいるからですけど、先生は違う。商人と言いつつ叔父と一緒に貴族社会にも難なく溶け込んでらっしゃいますからね。女性に素手で触れるなんて失礼なことはしない」

 よく見てるなあ、とでも言いたげな笑みに、「それに」とオスカーは続けた。

「豆のスープを出しましょうかと聞いたんですよ。そうしたら断られた。吸血鬼は豆も苦手としますから。……単にこちらに気を使っているのかと思って、白ワインも勧めました。それも断られた。《酔って夜道を歩きたくない》みたいな殊勝なことを言ってましたけど、先生に限ってそれはない。断言したって良い。極め付きは来訪時間です。真夜中に女性の家をたずねるような無作法は絶対しないでしょう。ヒモよろしく一昼夜入り浸ることはあっても。尊敬する先生のことですよ、僕が間違えるわけがないでしょう」
「最後のは余計」

 本当にお前、俺を尊敬してるんだろうな? とミシェルがオスカーを睨む。してますよ、とオスカーは返した。

「何にせよ、二人とも無事でよかったよ」
「ニルチェニアにはちゃんと【部屋の扉を閉めて】と言っておきましたからね。万が一僕に何かあっても、招かれない部屋に吸血鬼は入れない。朝までぐっすり彼女が眠ってくれさえすれば、あとはどうにでもなるんです。居間に僕が冷たくなって転がってるか、吸血鬼が灰に還るか。それだけの話で」
「……なるほどな。俺の方ももう少し気を付けておくよ。二人の愛の巣に蝙蝠は要らんだろ。あいつら《手がついてない》子ばかり狙うしな」

 恋人たちの夜を邪魔するなんてなあ、とニヤニヤし始めたミシェルに、オスカーはさらりと返した。

「手なら昨日つけました」


 



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