往生際の悪い男

 目の前にいる黒い影に、ルティカルは目を細めた。人の形をしているようだが、輪郭がぼやけていてよく見えない。視力には自信があるはずなのだが、と睨み付けるかのごとくもう一度目を細めた。ピントがゆっくり合っていくにつれて、それが青年であり、どこか陰鬱な雰囲気をもった──人ではないものと知れた。

 その影は静かに近づいてくる。宵闇に獲物を狙う梟のような、そんな静かさだ。けれど、梟のような静かな殺気はない。むしろ、その夜の闇に寄り添う月光のような穏やかさすら感じる。
 危険な者ではないと本能が告げている。だからこそ、ルティカルは身構えることはしなかった。どこか、懐かしさすら感じられた。

「貴方は」

 誰何を問う。黒いコートを身に纏った青年は、ただ静かに「アルリツィシス」と答えた。

「アルリツィシス」
「そうだ」

 青年は答えた。
 どこか、甘い香りがする。花のものとも、甘い菓子のものともちがう。もちろん、果物やその類いでもなければ、香水でもなかった。けれど、それも懐かしかったのだ。とうに召された父と母を思い出す。記憶の糸をたどり、母の棺に花を添えた日のことを思いだし、それからルティカルはああ、と声を漏らした。

「貴方は。……貴方は、渡し守のアルリツィシスか」
「そうだ。ルティカル・スィリブロー・メイラー。……会うのは三回目だな」
「父、母の今際の際。それから葬儀。アルリツィシス、貴方はいつも遠くから、けれどよく見える場所にいた。俺をずっと見ていた。……今度は誰が死ぬ?」

 妹か、と心底不安そうな声に、アルリツィシスはゆっくりと首をふる。

「死んだのは貴方だ、ルティカル・スィリブロー・メイラー。貴方は……戦場で命を落とした」
「俺がか」
「茶髪の女性をかばっただろう。銃弾が左胸を貫いたんだ」

 アルリツィシスの言葉に、ルティカルははっとした。部下のリピチアをかばった記憶が、確かにあったからだ。自分なら大事には至らないはずだという自負もあった。だが、運が悪かったのだろう。左胸を鉛の弾が貫通したとき、指先から冷えていくのを感じた。開いた胸からは血が溢れ、紺色の軍服を染めていく。傷口は燃えるように熱いのに、体はどんどん冷えていく。夢に引きずり込まれるように、ルティカルは青い瞳を閉じたのだ。そうして永久の眠りについた。

「彼女は? リピチア・ウォルターは生きているのか」
「彼女は生きている。貴方がかばったからな」
「そうか。……それは、よかった」

 そうか、とルティカルはもう一度呟いた。

「……妹がいるんだ。体の弱い妹が」
「知っている」
「あの子は……あの子は、俺が死んだことを知ったろうか。体を壊すほど、辛い気持ちを抱えてはいないか」
「貴方の叔父がついている。……知らせを聞いたときは二人ともひどく憔悴していたが。今は……少しだけ落ち着いた」
「そうか……」

 そうか、とルティカルはまた呟く。ずっとそばにいると約束したのに、と嘆きを口にした。

「アルリツィシス。あの子に会いに行くことはできないか」
「……勧められない。夜と冥府の女神ユンナフィルソシュナ様の御元にいくのに、きっと枷になるだろうから。大切な妹の泣く顔など見たら、貴方はその場に縛られるだろう」
「……そうかもしれないな」
「魂が縛られ、そのまま消滅を迎えたら。貴方の魂は休まることなく、永久の闇に消えるんだ。彼女は……貴方の妹は、それを望まないだろう。自分が貴方の鎖になることを、彼女は望まないだろう」
「そうだな」

 諦めたように笑って、ルティカルはひとつ頷いた。寂しげな笑顔にアルリツィシスはぽつりと言葉を漏らす。

「貴方の父も貴方の母も、同じことをいっていた。最後に一目、家族に会いたいと」
「血は争えぬ、ということか」

 はは……、と恥ずかしげに頬をかいて、「もうひとつ頼みたいことがある」とルティカルはアルリツィシスの夜空色の瞳を見つめた。何だ、と柔らかい声が返る。そうだ、とルティカルはまたひとつ思い出した。葬儀の際に、母の棺のそばにいたこの青年に、自分は声をかけてもらったことがあると。

「俺の命を……俺が使えるはずだった命の残りがあるのなら。どうか、どうかあの子に……ニルチェニアに、分けてやってはくれないか」

 アルリツィシスはまたも無言で首をふる。やっぱりか、とルティカルは力の抜けた笑みを見せた。

「きっと、この言葉を貴方は三回聞いたのだろうな」
「その通りだ。ランテリウス・ヴェスナー・メイラーも、その妻サーリャ・メイラーも。貴方の妹、ニルチェニア・スィニエーク・メイラーの延命を願った。自らの命に、余った時間があるのなら、と」

 けれど、とアルリツィシスは首をふる。

「魂が体と離れる瞬間に間違いはない。【余った命】という概念はなく、全ては『死者と掟の書』のままに」

 参ったな、とルティカルは頭をかいた。きっとこういうのを「往生際が悪い」と言うのだろう。それにしても、母や父まで自分と同じことを願ったとは。つくづく、血は争えないものだと実感する。

「……貴方や他者の命に関わること以外で、僕に叶えられそうなことがあるのならば」

 聞こう、とアルリツィシスが言ったものだから。
 ルティカルは迷わず口にした。かつて、彼から聞いた母からの伝言を。きっと、母も父の伝言を彼から聞いたに違いない。それも、母が残し、ルティカルがこれから残そうとしている伝言と同じものを。

 血は争えないのだ。きっと争うものでもない。だからこそ、あの小さな少女を想って、ルティカルは最期の言葉をこの渡し守に託すことにした。優しい眠りの精霊は、きっと妹にルティカルの言葉を伝えてくれるに違いない。

「それなら。……それなら、あの子にこう伝えてはくれないか。『幸せに生きてくれ』と」

 ルティカルの言葉を聞いて、アルリツィシスは穏やかに微笑む。そうして、ルティカルの予想通りの台詞を口にした。

「その言葉を聞いたのも、三回目だ」


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