ほろ苦い思い出

「タルトタタンが食べたい」

 トラットリアというには少しかしこまった、しかしリストランテというにはずいぶん気軽なこの店で、ルチアーノは常連の青年から意外な言葉をかけられた。

「タルトタタンですか?」
「タルトタタンだ。……ないか?」

 ルチアーノが立っているカウンターの向こうで、タルトタタンを食べたい──と口にしたのは銀髪の綺麗な青年だった。涼やかな顔立ちはどこかの映画俳優かのように整っていて、青い瞳は理知的な雰囲気がある。普段はコーヒーと軽食を頼んで終わりにするこの青年から──いままで菓子を頼むこともなかったこの青年から──りんごの焼き菓子の名前が出てきたことにルチアーノは驚いてしまった。

「あ──いえ。ありますよ。ちょうどりんごが美味しい季節ですから」
「じゃあ、それをひとつ」
「かしこまりました。……コーヒーは?」
「……今日は紅茶にしておこう」

 どこか寂しげに微笑んだ青年に「かしこまりました」とルチアーノはもう一度繰り返す。何かあったのだろうかと考えた。タルトタタン同様、紅茶も初めて頼まれたものだったから。

「紅茶はミルクティーにしますか?」
「砂糖だけで良い」

 普段から満員になることはない店の中、今日はルチアーノとこの青年、クルスだけの空間だ。落ち着いた内装のこの店をクルスは気に入っているらしい。週に何度か訪れてはコーヒー、それからサンドイッチやポットパイなどの軽食を頼んで帰っていく。身なりからして家柄の良さそうな青年だったが、そんな青年が足しげく通ってくれるのが不思議だった。

「クルスさん、タルトタタンお好きなんですか?」
「いや。初めて食べる」

 朝作ったものの、頼まれることもなかったタルトタタンから一ピースを切り出して、ルチアーノはそれを皿に乗せる。艶々した飴色のりんごが白い皿によく映えた。少し温めてから出そうかとオーブンに皿ごと入れて、マッチを擦る。オーブンに火をいれたところで「珍しいですね」と口にした。

「クルスさんが甘いものを頼むなんて。いつもはコーヒーとサンドイッチとかですよね」
「ああ。……少し食べてみたくなってな」
「紅茶も?」
「タルトタタンには紅茶が合うときいたものだから」
「なるほど」

 たまにはそんな日もあるだろうとルチアーノは頷いた。冒険したくなるときだってある。慣れ親しんだものから、見知らぬものに手を出したくなる気持ちはルチアーノにもよくわかった。

「紅茶は何にしますか? 何かこう、こだわりの銘柄がある……とか」
「何だったかな……確か香りの強い紅茶だった気がするんだが……」
「香りの強い紅茶?」

 少し眉を寄せ、小さく呟くクルスにルチアーノは首をかしげた。コーヒーなら銘柄を指定して頼んでくるこの青年も、紅茶にはとんと詳しくないらしい。普段から飲むことがないのだろうな、とルチアーノは戸棚から紅茶の缶を三つ取り出した。赤、黄、青の缶を並べ、クルスの前に並べる。

「香りでわかったりしますかね?」

 右から順にウバ、ダージリン、キーマンです、と言い添えて、クルスの方に缶をそっと滑らせる。赤のウバ、黄のダージリン、青のキーマンと一つ一つ缶を開けていったクルスは、「これじゃないな」と少し困った顔をした。

「ホットティーにすると香りが強すぎて良くない……というようなことを言っていたんだが」
「ああー……えっと、じゃあこれですね! アールグレイ!」
「それだ」

 三つの缶をしまい、代わりに緑色の缶を取り出したルチアーノにクルスがうなずく。一応、と香りの確認も終えて、「これを頼む」とクルスは小さく笑った。

「アールグレイを……この紅茶を好む女性がいてな。その人があまりに美味しそうにタルトタタンを食べていたものだから、おれも食べたくなってしまったんだ」
「そういうことでしたか。ありますよね、そういうの」

 ルチアーノは紅茶をいれながら、オーブンの中のタルトタタンにも目を向ける。ほんのりとバターの良いかおりがしていた。それから、りんごの甘い香りも。

「彼女は普段からこの紅茶を飲んでいるみたいで。……タルトタタンと共に味わう紅茶は、いつもより幸せな味がする、と」
「紅茶がお好きな方なんですね」
「そうなんだろうな」

 語るクルスの口調がいつもよりずっと優しいことに気付いて、ルチアーノはほほう、と小さく笑った。これはつまりあれだろう。恋とか愛とか、惚れた腫れたの甘酸っぱいあれではなかろうか?

「もしクルスさんの口に合ったら、そのひとにここのタルトタタンをおすすめしてくださいよー」
「君は抜け目ないな」

 常連ゆえの気安さで口にしたルチアーノに、クルスもニヤリと笑う。温め直したタルトタタン、いれたばかりの紅茶を差し出したルチアーノに、クルスは「気に入ったら買って帰ろう」と続けた。

「あまり体が丈夫な人ではないから……こちらに来るのは難しいだろうが……タルトタタンとは、手土産として持っていってもすぐに痛んだりはしないものだろうか?」
「ああ……そうなんですね。大丈夫ですよ。一日くらいなら問題ないです。焼き菓子ですし。元々、一晩ほど寝かせてから出すものなので」

 お土産にするときには教えてくだされば焼いておきます、と頷くルチアーノに、クルスはどこかほっとしたようだった。

 クルスがフォークを持ち、キャラメリゼされた飴色のリンゴをそれでそっと突く。柔らかく煮たりんごは、フォークを難なく受け止める。

 クルスの口にタルトタタンが運ばれていくのを、ルチアーノは緊張しながら横目で見ていた。じっと見つめるのは失礼だろうが、しかし初めてタルトタタンを食べる人の反応が気になったのだ。はじめて食べるものなら、美味しい方がいいに決まっている。

「……うまいな。少し懐かしい味がする」
「それはよかった」

 安堵に息をついたルチアーノに、クルスは「タルトの生地がなかなかだ」と続けた。

「少し塩気が強いのが、りんごの甘酸っぱさを際立たせているし……やはりバターの香りは良いものだな。なんとも言えずに魅力的だ」
「嬉しいこと言ってくれますね! 結構タルトの生地に力いれてるんですよ。りんごはそもそも美味しいですから、あと気を使うのはタルト生地だけっていうか」
「彼女と同じことを言う」

 ふふ、とくすぐったそうに笑ったクルスは「あの人も同じことをいっていた」と次の一口。

「タルトの味を決めるのはタルトの生地なんだそうだ。……おれはそんなことを考えたこともなかったが。色々な店のものを食べるうちに、そういう結論を導きだしたらしい」
「おおう……ちょっと手土産に持っていってもらうの、気が引けてきましたね……」
「何故?」

 クルスさんの知り合いってことは、きっとどこかのご令嬢でしょうとルチアーノはたずねる。そうだなとクルスは気軽に返して、それがどうかしたのかと続けた。

「だって名店の味とかめちゃくちゃ知ってそうじゃないですか!? 舌が肥えてるっていうか」
「おれも名店の味ならそこそこ口にしているつもりだが。ここの店のものはひけをとらないぞ」
「クルスさんの場合はコーヒーとかそっち系でしょ! コーヒーに関しては、良い豆を良い業者に頼んで焙煎してもらったものをいれてるだけですからね。違うんですよー! ドルチェになってくるともう作り手の経験値がものを言うというか、名店の菓子職人さんに俺ごときが敵うわけないっていうか……!!」
「そうなのか?」
「そりゃそうですよ……ほら、例えばですけど、俺とクルスさんがここでクッキーを作る勝負をしたとしますよ? 間違いなく俺が勝つと思うんですよ」
「まあな」

 それはそうだろうなとクルスはうなずいた。そうでしょうとルチアーノもうなずく。そこには経験の差があるからと。

「でもこれが、ええっと……そうですね、俺とクルスさんで道行く女の子に声をかけていくとするじゃないですか。たぶん俺は気持ち悪がられますけど、クルスさんはそんなことないと思うんですよ。俺とは違って好意的に接してもらえると思うんですね」
「なぜ?」
「俺とクルスさんはそもそもが違いますから。クルスさんが名店のタルトなら、俺はど素人の作ったタルトみたいなもんで。うーん、我ながらうまく説明できないんですけど、世の中には【ひっくり返せない何か】って絶対あると思うんですよ。この場合、とてもざっくりした言い方をすれば、女の子が夢中になるような立ち居振舞いとか、顔立ちとか……自分でいってて悲しくなりますけど、なんかそういう【魅力】です。俺はクルスさんの魅力はひっくり返せない」
「……ひっくり返せない何か?」
「努力したらお菓子を作ること自体は出来るようになるんです。でも、例えば……誰にでも美味しいと思って貰えるような味付けのセンス。きれいだと思って貰える盛り付けのセンス。デコレーションのセンス。……そういうものは、ひっくり返せないんだと思います。俺がどんなに努力しても、知らない女の子に話しかけたときにクルスさんがもらうような反応は貰えない。持って産まれた【才能】みたいなやつじゃないですか? そういうのって。名店の人たちって、多分そういう才能を持ってて。そういう人の作ったものに常から触れている人に、俺のものをたべてもらうのって、一周回って烏滸がましいというか……」
「……君は自分を卑下するときにはいつになく饒舌になるな?」
「そんなことは……まあ、ありますけど……」

 ハハ、と気まずそうに笑ったルチアーノに、「ひっくり返せない何か、か」とクルスはぽつりと呟いた。そういうものもきっとあるのだろうなと深く頷いて。

「とはいえ、君は自分が思うほど価値のない人間じゃないさ。君は【ひっくり返せない何か】を知っていながら、それでも努力してしまう人間だ。……じゃなかったらこの店は成り立たないだろうな。見た限り、君はコーヒーや菓子以外は専門外だろう? それなのに紅茶や軽食。専門外だからと切り捨てることはせず、店に出ても問題ないほど勉強しているじゃないか」

 一緒に紅茶を探してくれたのは嬉しかったとクルスはにこりとした。ひっくり返せない何かを知っていても、諦めない強さが君の一番の宝物だろうと続けて。

「おれは諦めてしまったから。……君のような人間だったら、ひっくり返せない何かを、それでも埋めるという気概を持てる人間だったなら。そうしたら……もしかしたら彼女も振り向いてくれたかもしれないな」

 知らない女性は振り向かせることができても、一番振り向いてほしい人には振り向いて貰えなかったんだよ。
 紅茶を一口飲んでから、クルスは穏やかに笑う。

「吹っ切れるために、聞いてもらえないか」



***



 クルスとその女性の関係は、遡ればお互いに子供の頃に始まったのだという。いわば幼馴染みというやつで、その女性とクルスは従兄妹の関係にあった。年は五つほどクルスの方が上だ。その女性の兄とクルスは親しく、また従兄妹ということもあり、普段からよく遊んでいたらしい。

「……遊ぶといっても、あの子は体が弱いから。ずっと部屋にいなくてはならなくてな。おれが本を読んだり、一緒に絵を描いたりな。そういうことをしていた」
「なんていうか、お兄ちゃんと妹って感じですね」

 ふんふんとルチアーノは頷きながらクルスの話に相づちを打っていた。店の扉にかかった下げ札を「close」にして、ルチアーノはクルスの話に付き合うことに決めた。多分、今日はもう人は来ないだろう。来たところで「close」の下げ札なんてものともしない人間に違いない。何の因果か、この店に集まる常連はそういうタイプの人間が多かった。

「おれが寄宿学校に入ったくらいから、まあ……あまり会うこともなくなってな。学校を卒業したときに、久しぶりに会ったんだ」

 驚いたよ、とクルスが冷めた紅茶を一口飲む。もう店も閉めたからと、ルチアーノもタルトタタンをつつきながら話を聞いていた。甘く煮詰めたりんごの、少し焦げた部分がほんのりと苦い。キャラメリゼとはいえ、もう少し甘くてもいいなとルチアーノは舌に広がるりんごの甘酸っぱさを味わった。りんごの甘さにほろ苦さとバターの塩気が混ざるのが、たしかになんとも言えずに魅力的だ。

「彼女の居場所は相変わらずベッドの上だったが。記憶の中より、ずっと綺麗になっていた。穏やかに笑うのは昔のままで、おれに向ける瞳も、兄に向けるような。そんなものだった。昔のまま、見た目だけが変わった彼女がそこにいた」
「……でも、恋に落ちちゃったんですか」
「そうだな。……或いは、ずっと昔から好きだったのかもしれない。その時にやっと気づけただけで」

 お久しぶりですと声をかけられたときに、胸がひどく高鳴ったのだという。覚えていてくれたのかとつい口を出た言葉に、ベッドの上の少女はたおやかに笑ったのだという。「またお会いできて嬉しいです」と柔らかい声でクルスに話しかけながら。

「彼女の中では、おれはきっと兄のようなものなんだろう。無条件で甘えてくれて、慕ってくれて、おれはそれが嬉しかった。子供のときより会う頻度は少なくなったが、それでも暇があれば彼女のところにいってしまうんだ。彼女と一緒にいるときは、満ち足りていて……誰にでも優しくなれるような、そんな気分になる」

 なるほど、とルチアーノはうなずいた。その気持ちはよくわかる。ルチアーノにも妹がいるし、妹に甘えられれば可愛いと思ってしまうから。普段わがままでも甘やかしてしまいたくなってしまうから、妹という存在はなかなかにずるい。きっと、クルスにとって、その女性は妹のような存在でもあったのだろう。

「ひどく優しい子なんだ。だから、おれも彼女の前では優しくありたい。そう思わせてくれる子だ」
「良いですね、そういう人。……素敵な人だと思います」
「名を呼ばれることが、手に触れて貰えることが、共に午後を過ごすことがどんなに幸せなことか。気付くことなく人生を過ごすはめになっていたら、と思うと……ぞっとするよ」
「……クルスさんって、案外情熱的ですよねえ」

 クルス、或いは、クルスの想い人にならってルチアーノもアールグレイを飲んでいた。ベルガモットの爽やかな香りが、甘酸っぱいりんごと相まって心地が良い。我ながら上手くできたなと、タルトタタンの最後の一欠片をルチアーノは口に運んだ。

「……そうか?」
「そうですよ。普段はなんか無表情っていうか、なんか淡白っていうか──近づきがたいかなってところがあって、俺も最初はビビりながら接客してたんですよ」
「そうか……?」

 コーヒーの銘柄を指定して頼んだとたんに、目を輝かせて講釈を垂れたのは誰だったか、とクルスは半眼になる。普段はどこか気弱でひ弱な雰囲気が滲むルチアーノだが、コーヒーのことになると人が変わったように生き生きとするのだから不思議なものだ。どこが「ビビっていた」んだと思うクルスの心を知ってか知らぬか、ルチアーノは気楽な笑みを浮かべながらのんびりと口にする。

「好きな人のことをそこまで真っ直ぐ『好きだ』って表現できる人、なかなかいないですよ。どこかしら照れちゃいますし」
「照れがないわけじゃないんだがな……」
「でもちゃんとそう言えるわけじゃないですか。真っ直ぐなの、すげー格好いいと思いますよ」
「……この『真っ直ぐ』な気持ちを伝えたらフラれたんだがな」
「はは……」

 フラれたというクルスの言葉に確かな照れを感じながら、ルチアーノは生ぬるく笑って見せた。フラれたと言いつつクルスの顔が穏やかなのは、きっと悪くはない断りかたをされたからなのだろう。或いは、クルス自身も元々受け入れてもらえるとは思っていなかった相手なのか。

「兄としてしか見られないと言われたよ。残念には思ったが、それでも彼女の【兄】でいられるのなら、悪くないと思う自分がいる」
「お兄さんとしてしか見られない、ですか……」
「これからもずっと、兄でいてほしいと言われた。……優しいのか、残酷なのかわからない言葉だけれど」
「『好き』の種類が少しだけ違ってたんですよ。……その人と、クルスさんと。好きな気持ちの大きさは一緒でも、向ける方向が違ってたっていうか」
「……そうだな」

 すっきりと笑って、クルスはルチアーノに一声かける。

「明日、ここのタルトタタンを彼女に食べさせたいんだ。焼いておいてくれるとありがたい」
「ええっ。……良いんですか。俺の作ったやつで?」
「おれが美味しいと思ったから、あの子に食べさせてやりたいんだ」

 ──君が作ったものじゃなきゃ意味がないよ。

「あの子のことが好きで、あの子のことなら何でも知りたかった。けれど、俺にはあの子の『好き』な味がどんなものだかわからない。だから、それが知りたくてここでタルトタタンを頼んだんだ。でも、今度は。今度は、おれの『好き』な味を知ってもらいたい。……それに」
「それに?」
「タルトタタンを好む妹に、それを買っていくのは兄としておかしくはあるまい?」
「……なるほど」

 それなら兄の面目を潰さないように、美味しく作らないとですね。
 笑顔で応じたルチアーノに「頼む」と言い置き、クルスはどこかさっぱりとした顔で店を出ていった。



prev next



bkm


「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -