星にさらわれた少女

 狼の吠える声を、男はずっと聞いていた。


***

 冬の夜の冷えた空気が、刺すように肌を撫でていく。首から下は厚い毛皮のケープやドレス、あるいは手袋でおおわれているのに――どうしようもなく、ニルチェニアは寒かった。血が凍りついてしまったのかもしれない、と馬鹿げたことを考えた。まるで、寒空に裸で放り出されたような、そんな心細さを――いや、恐怖だった。その瞬間、ニルチェニアが感じていたのは寒さでも、心細さでも、寂しさでもなかった。そこにあるのは純然たる恐怖で、銀色に鈍く光るナイフの刃だった。

「……あ、アガニ……?」

 アガニョーク。大切な狼の名を呼ぶ。目の見えないニルチェニアをいつも近くで導いてくれていた、兄いわく【真っ白な】狼の名前だ。その名のとおり、真っ暗な、色のない世界で生きるニルチェニアにとっては、灯火のような存在だった。灯火が何なのか、【白】とはどんなものなのか。ニルチェニアには永久に理解できないものだけれど、そうであったとしても、アガニョークは彼女にとっての道標の灯火だったのだ。

 灯火、【だった】のだ。

 彼女の瞳がもし正常に機能していたなら、と青い瞳の男は転がった狼を見つめる。真っ白な毛並みは冬の北国にふさわしく、降り積もった雪に紛れてしまうほどに純粋な白さを持っていた。

 白さを、【持っていた】。

 雪なのか毛皮なのか知れぬ白に、赤く温かな血潮が広がっていく。広がるそばから凍りつき、男の元には鉄の臭いすら届かない。ただ、転がった狼にすがり付き、必死に名を呼ぶ盲目の令嬢は美しいと思った。狼と雪に溶け込むような真っ白な髪。深い紺色のドレスは彼女の肌の白さを引き立てている。寒さに赤く染まった頬も好ましい。
 狼の額に深く刻まれた傷から、まだ血が滴っている。

「アガニ……? アガニョーク、起きて、……おきて?」

 死んだ狼は返事をしない。令嬢は手探りで狼の体に触れた。雪と血と、混じりあった不愉快なものが令嬢の白い手袋を染めていく。嫌だな、と顔をしかめたのは男の方だった。

「汚れるよ、お嬢さん」

 雪のように白い毛並みに触れていた手をとって、地に伏した狼の首の辺りに革靴に包まれた足をのせた。体重をかければ、枝の折れるような音がして狼の首がいびつに曲がる。令嬢の顔もいびつにくしゃりと歪んだ。熱い涙が白い頬を滑ろうとして、流れるそばから凍っていく。綺麗だと男はため息をついた。吐息は、白い。

「そいつは死んだよ。分かるだろう」
「何で……なぜ、」
「俺が殺したのさ」

 邪魔だったからな、と口に微笑みを浮かべる。ニルチェニアにはきっと見えていないだろう、とさらに笑みを深くした。

「【灯火】はひとつで十分だと思わないか? 夜に必要なのはランプの明かりではないんだよ、ニルチェニア。星に愛され、星に疎まれ、星に運命を委ねなくてはならない君に必要なのはランプじゃないのさ、ニルチェニア」

 捕まれた腕を振りほどくことも忘れ、ニルチェニアは凍りついたように固まっている。

「深層の令嬢たる君を、この俺が外に連れだそう。月が迎えに来るまえに、星の名を冠するこの俺が。他ならない君の……次なる灯火になろうじゃないか」

 夜に必要なのは月でも蝋燭でもないだろう。
 芝居めいた口調で狂言を口にし、男はとった手の甲にひとつ口づけを落とした。

「俺の名前は――」

 雪混じりの夜風に吹かれながら、男はネオンブルーの瞳で拐った少女を優しく抱き締める。狼の遠吠えのような風の音が、いやに耳にこびりついた。





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