多世界解釈
【a'】


 さあ帰ろう、と深緑のロングコートの裾を翻し、リピチアは吐き出した息の白さに身を震わせた。二月ともなればこの辺りは遠慮なく冷え込むからと、マフラーをグルグルと巻いてもまだ寒い。連日降り積もる雪は、今夜もその勢いを弱めようとはしなかった。これで風が強かったら吹雪だな、と荒れ狂う雪を見つめながら、家路へと急ぐ。借りているアパートまではそう遠くはないし、これなら車を拾う必要もないはずだ――多分。

「……っはー、さむい……研究棟に残ってた方がましだったかも」

 軍の研究施設を出て数分、さっそく後悔が襲ってくる。このまま十分も立っていれば、きっと凍死できるに違いないと確信できてしまうほどに寒かった。しかし、ここまできて引き返すのも癪だ。こういうときに車があれば良いのだけど、と風にたなびくマフラーを押さえる。この時期は、あまりに寒すぎるからと馬車は走らない。馬が走ってくれないのだ。そういう時の移動手段は大抵は犬ぞりか鉄製の車で、けれどこんな夜には犬も走らないだろう。何てったって、御者が死ぬ。風を切って走れば寒さも二割増しだ。だから、誰も走らない。走れない、ともいう。

 家に帰れば温かいコーヒーもつくれるんだから……! と自分を奮い立たせて、白い雪にブーツを突き立てていく。リピチアの歩いたそばから雪は降り積もり、あっという間にその足跡も消していく。住居に不法侵入するにはもってこいの天気だなあとぼんやり考えた。大自然が味方して証拠隠滅してくれるのだ。こんなに心強いことが他にあろうか。

 それなりに整備された道に出れば、ちらほらと車も走っている。免許さえ取れればなあ、と思わなくはないのだが、免許をとるに至るまでの時間的拘束を考えると、とりたいとは思えなくなってしまう。何より――。

「やあ。こんばんは。白馬じゃないが乗っていくか?」
「こんばんは。お姫様って柄でもないので、むしろ喜んで」

 通りかかった車のうちの一台が、リピチアの隣でぴったりと止まった。夜空を思わせる深い紺に染められた鉄は、リピチアが車を持とうとしない理由のひとつだ。要するに、車を持つ必要がない。迎えに来てくれる人間がいるから。

「わー、助かりました。さすがにこの雪だと死ぬかなと思っていたところだったので!」
「それなら早めに連絡をくれよ、そうしたら地獄にだって迎えにいくのに」
「私のいる研究棟に来てみます? 生き地獄ですよ」
「天使がいるところが地獄な訳がないだろう?」

 ははは、と軽く笑いながら、レグルスは助手席のドアを開ける。にこりと微笑んで、青い瞳でウインクをひとつ。

「俺の隣でよければ。どうぞ、俺のお姫様」
「……どうも」

 どうしてこうも簡単に恥ずかしいことをさらさらと言えるのだろう、とリピチアはほんの少し照れながら、助手席へと乗り込んだ。いつもの通り、座席が深く沈み混む。その柔らかさと車の温かさに欠伸をひとつこぼせば、運転席から優しい声。

「疲れているだろう? ついたら起こすよ」
「……ありがとうございます」

 おやすみ、と聞きなれた優しい声が耳をくすぐった。エンジンの音を子守唄に、リピチアはゆっくりと目を閉じる。眠ってしまったリピチアを愛しげに見つめながら、レグルスはふっと口許をゆるめた。彼女の家についたなら、何か作ろうと考える。研究室にこもっているときはろくに食事もとれていないのだろうし、見たところ、最後にあったときより肌の調子もよくない気がした。
 幸い、この時間ならまだ店も開いている。何か温かいものを作りたいなと思いながら、レグルスは雪道に車を走らせる。吹雪きそうではあるものの、星の綺麗な夜だった。



 なんだか美味しそうな香りに気づいて、リピチアは目を覚ました。火を通した玉ねぎの甘い香りと、焦げたバターのような香ばしい香りが漂っている。よく寝た、と背伸びをしてから、あれ、と目を瞬かせた。

「……家?」

 さっきまで車に乗っていたはずなのに、と体を起こす。どうやら、ソファの上らしい。きょろきょろと辺りを見回す。間違いなく、自分の家だった。ゆっくり眠らせてくれたのだろう。ありがたい、と目元を擦った。
 体を起こした拍子にばさりと音をたてて落ちたのは、黒いコートだ。見覚えがある。レグルスのコートだ。香水と煙草の匂いがふんわりと漂う、いつものコートだ。かけてくれていたのか、とそれを抱き寄せ、何となく頬擦りしてしまう。暖かくて、落ち着く気がした。

「随分可愛いことをしてくれるじゃないか」
「うわっ!」
「目は覚めたか?」

 くすくすと笑いながらリピチアの隣に腰かけたレグルスに、「……驚かせないでくださいよ」とリピチアはレグルスのコートに顔を埋める。赤くなってしまっているであろう頬を、見られたくはなかった。それもわかっているのか、レグルスはリピチアの頭をぽんぽんと撫でているだけだ。きっと微笑んでいるのだろうと予想ができてしまって、リピチアにはそれも照れ臭い。

「台所を借りてしまった」
「……美味しそうな匂いがしますもんね」

 すん、と鼻をならしたリピチアに「オニオンスープと鹿のグリル」とレグルスがわしわしとリピチアの髪を撫でる。ココアのような深い茶色の髪は、さらさらとしていてさわり心地が良い。

「チーズトーストは?」
「もちろん。君の好物だろう」

 甘えるように頬を手のひらに寄せてきたリピチアに柔らかく微笑んで、レグルスは額に口づけを落とした。嬉しい、とはにかんだエメラルドの瞳にレグルスも相好を崩す。普段は飄々としているくせに、二人きりになると様子をうかがうように少しずつ甘えてくる恋人がかわいくて仕方がなかった。だからわざわざ、会える日には自分から迎えにいってしまうのだ。今日だって、本当なら彼女が帰宅してからお邪魔させてもらうつもりだったけれど。

「どうせ、ろくなものを食べていないだろう? たまにはしっかり食えよ」
「うっ。……貴方の料理を食べてしまうと、他のものがあまり美味しくなくて」
「それは嬉しい誉め言葉だけどな……」

 いっそ二人で一緒の家にすんでしまえば良いか、とレグルスは思う。そうしたらリピチアも食事をするだろうし、レグルスもリピチアの食事事情を気にしなくてすむだろう。過労と栄養失調で倒れたこともあるリピチアだ。研究対象にたいしての気配りは行き届いているくせに、どうも自分には疎かになるのが悪いところだった。

「ま、溶けたチーズが固まる前に食事にしようじゃないか」
「そうですね。いつもありがとうございます」

 チーズトースト、と嬉しそうに呟きながら食卓へ向かうリピチアの後ろ姿に可愛いなあ、と呟いてレグルスは笑う。チーズトーストが好物の彼女のために、今回も気合いをいれてチーズとパンを探してしまったが、お気に召すだろうか。気に入ってくれたら嬉しいんだが、と寝ている彼女にかけていたコートをハンガーにかける。少しだけ、消毒薬とインクの匂いがした。リピチアの匂いだ、とぼんやりと思う。


 美味しい美味しい、とまるで久しぶりの食事にありついたようなリピチアをみながら、レグルスは苦笑いしつつもそれを見守る。二人で向かいあって食事をするのは初めてではないけれど、食事をする度に食事に感動するリピチアの食事事情はわりと本気で心配だ。研究職では食事の暇もないのがデフォルトらしいが、それではきちんと頭が働くのかどうか気になるところだ。

「ううっ……相変わらず料理上手ですね……、わたしなんかつい変なものいれたくなるんですけど。レグルスさんのはそんなことがないので安心して食べられるし、美味しいし、チーズ美味しいし! どこのお店のなんですか?」
「内緒」
「えー! 教えてくださいよー!」

 今度デートしたときに行こう、とレグルスは鹿のグリルを口に運ぶ。焼き加減は最高だろう。塩の振り方も悪くない。どうせ食べてもらうなら最高に美味しいものを、と気を使ったのは間違いじゃなさそうだ。

「君、自炊なんてするのか? いやにキッチンがきれいだったが」
「家ではしませんよ。研究室でたまにするんです。調理器具がなくて苦労しますけど」
「……何で調理してるんだ?」
「フライパンの代わりにアルミのバットを使ってる、なんて言ったら貴方は怒るでしょう」
「……消毒をきちんとしているなら許す」

 渋々といった顔にリピチアはけらけらと笑い、「消毒に関してはプロですからご心配なく」とにやりと笑う。フライパンくらいおいておけとこぼしたレグルスには「置いておいても別のことに使われそうですし」とあっけらかんとして答えるリピチアに「研究者は恐ろしいな」とレグルスは肩をすくめた。

 食事も済み、レグルスは熱いコーヒーを自分とリピチアの前におく。揃いのデザインのマグカップはレグルスの方は青く、リピチアの方は深い緑色だ。女性らしいものよりシンプルで簡素なものを好むリピチアに、昔のレグルスが押し付けるようにして贈ったものだ。いつか二人で向かいあってコーヒーを飲めるように、と。そんな願掛けが実を結んだのか、今ではお互いの部屋を行き来するような関係にもなれた。ありがたい話だ全く、と顔には出さずに青いマグカップを手に取る。良い香り、と褐色の水面を見つめるリピチアに、レグルスはふと口にした。

「愛しているよ、リピチア」
「またですか? 何度も言われなくても、ちゃんと覚えてますってば」

 会うたびにいってくれるじゃないですか、とリピチアは恥ずかしそうに微笑む。その顔が愛しくてたまらないのを、レグルスは随分昔に気づいてしまった。だから、何度も口にしてしまう。愛しているよ、と。

「覚えていてくれたのか?」
「こう何度も言われていればね」

 リピチアはにっこりと笑う。食後のコーヒーのカップに、細い指先をかけた。


***

【a】



 今すぐ殺す、と濃紺のロングコートの裾を翻し、リピチアは唇を噛み締める。この男の悪趣味さには辟易とした。前からわかっていたことではあるけれど、それでも辟易とした。なんでこんな男が生きているの、と神を恨んだのはこれが初めてではない。
 この男が生きている限り、リピチアは神を信じないだろう。

「怖い顔だ。綺麗な顔が台無しだぞ」
「……ッ、誰のせいだと思って……! こんな、こんなこと!」

 許されるはずがない、とリピチアは目の前の男を見据えた。悪趣味なネオンブルーは今日も派手に男の顔を彩っている。その目を二つともえぐり出せたなら! と何度思ったことだろう。込み上げる吐き気と嫌悪感にリピチアは呻く。「可哀想に」と黒髪の男、レグルスは微笑んだ。

「お前がそんなに怒るから、この子達が怯えるだろう?」

 なあ、とレグルスは床に倒れ混んでいたうちの一人の少女の髪を掴み、乱暴に顔をあげさせる。うう、と生気のない瞳をさ迷わせながら、茶髪の少女が助けを求めるように虚空へ手を伸ばした。

「やめなさい! 貴方、何をしているかわかってるんですか?」
「もちろんだとも。暇潰しさ。何ならお前も混ざるか?」
「そんな趣味も暇も柄も持ち合わせておりませんので、お断りします!」

 茶髪に緑色の瞳の少女ばかりが拐かされる事件が頻発している、と聞き及んだとき、リピチアには何だか嫌な予感がした。被害者を調べてみれば、すべての少女が失踪の直前にとある男に出会っていることもわかった。罠だと知っていたし、わざと見せられた尻尾だと言うのも理解していた。そこに、隠す気のない隠された意味があることも。
 要するにこれは、【リピチア・ウォルター】……つまり【自分】に向けられたメッセージであり挑発であり、あるいは悪趣味すぎるラブレターなのだと。

 どれくらい悪趣味かはこの現状を見ればわかる。広い部屋のなかにソファがひとつ。そこに悠々と座る男が一人と、生気のない少女たちが十数人。みな揃えたように同じ色の瞳と、同じ色の髪をしていた。リピチアそっくりのエメラルドグリーンの瞳に、ココアブラウンの髪だ。髪に至っては長さまでご丁寧に揃えられている。皆一様に同じ青い服を着せられているのに吐き気がした。趣味の悪い、ネオンブルーのワンピースだ。それも、所々に血か何かのシミがついている。何が行われているかなんて、すぐにわかった。リピチアがそれを察することも、レグルスは知っていたはずだ。だからこそ、悪趣味すぎるのだ。

 ソファの上で優雅に足を組み替えて、レグルスは低く艶やかな声を薄暗い部屋に響かせた。

「案外すぐ来てくれたな。もう少し時間がかかると思っていた」
「さすがに危ないと思ったのでね。本来なら上司に許可を取ってから乗り込むべきですが……今回は報告で済ませました。そのうち、うちのボスも来ますよ」
「何だ、お前のところは総出で来てくれるのか? それなら連絡をくれよ、地獄にだって迎えに行くさ。車でね」
「それなら取調室に来てくれます? 生き地獄を見せてあげますよ。……それに生憎、貴方の連絡先を知らないのでね!」
「なら、交換しようか」
「お断りします!」

 にやり、と嫌な笑いを見せてレグルスはリピチアによく似た茶髪の少女の肩を抱く。ああう、と呻き声ともつかない少女の声にリピチアは顔をいっそう険しくさせた。

「さらった子達に、何をしたんです?」
「聞きたいか?」

 聞かない方が精神衛生に良いと思うがね、とレグルスは微笑む。ぎり、とリピチアはさらに奥歯を噛み締めた。なんでこんなやつが生きているのか、やはり理解に苦しむ。どうして誰もこいつを殺さなかったのか。なぜ、殺せないのか。

「お前が望むと言うなら語ろうか。簡単なことさ。単純な飴と鞭だよ。おとなしく従ったら【ご褒美】。抵抗したら【お仕置き】。……一般人の精神を破壊するには十分すぎたようだがね」
「……なぜ、」
「そんなことをするのかって? ただの暇潰しさ。最初に言ったろう? 【お前も混ざるか?】と」

 お前に似た子ばかり連れてきたけれど、君が来たならもうお払い箱だな、とレグルスは微笑む。慈愛すら感じられるその微笑みに、背筋が粟立ったのは隠せなかった。

「随分可愛い反応をしてくれるじゃないか。お前が怯えるとはな。演技であっても嬉しいよ」
「相変わらず、やっぱり頭がおかしいんじゃないですか?」
「狂気にこそ正気は宿るもので、正気にこそ狂気は隠れるものさ。お前にとっての狂気は俺にとっての正気であり……何を挙げても対称が【おかしい】ことの証明にはならない。そうだな、これは言わば愛さ。君に対する、俺の深い愛だよ」
「不快な愛の間違いでは?」

 これ以上は話すのも煩わしい、とリピチアは吐き捨てる。そんな様子をみてもまだ余裕の表情を崩さず、レグルスは恍惚として口にした。

「愛しているよ」
「耳が腐るくらい聞きましたよ、それ」

 会うたびに言われるその忌々しい七文字を、リピチアは忘れたことはない。いつかその口を縫い閉じてやろうと何度思ったことか。

「覚えていてくれたのか?」
「出来ることなら、全部忘れたいんですけどね!」

 リピチアはにっこりと笑う。ホルスターにしまいこんだ拳銃の引き金に、細い指先をかけた。


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