色褪せた写真

 人もまばらな夜明けの海沿いを、私は一人で歩いている。漁師たちの漁り火も今はちらほらと消えて、その代わりに朝日が昇ろうとしている。潮風は冷たく、ワンピースの上にはおったストールはパタパタとはためいていた。寄せては返す波の音は、耳に馴染んでしまったものだ。小さく昇り始めた朝日に照らされ、きらきらと煌めく藍色の海に、私は弟の瞳を重ねる。

 私には弟がいる。
 私には弟がいた。

 近くを通りすぎた漁師が、私の顔をちらりと見てはそっと立ち去っていく。誰も私に声をかけたりなどはしなかった。私もまた、そんな漁師たちに声をかけたりはしなかった。彼らもまた、慣れっこなのだ。私がここにいることに。
 
 世間一般では、私には弟が『いた』ことになっている。
 私の中では、今でも私には弟が『いる』ことになっている。

 鳥が鳴くのを、私は海を見つめながら聞いた。この青く深い海の向こう側、どこかの世界に弟がいることを願っている。海の藻屑としてではなく、ただひとりの『レグルス・イリチオーネ』として、自信無さそうに――あるいは、つまらなさそうに不真面目に生きていることを願っている。

 私には弟がいた。

 私には、顔と体格以外にはあまり取り柄のない弟がいる。名前はレグルス。夏に生まれた子だから、その時の星座から取って名付けられたのだという。気弱ではないが――かといって押しが強いわけでもなく、わりとのんびりした子供だったのを覚えている。私の真似をして煙草を吸い始めたのも。
 あいつとは煙草の趣味があわなくて、お前の煙草は臭いからやめろといったら、渋々ながらやめたのも覚えている。あれは確かあいつが21の時だった。そして私が26の時だった。

 私には弟がいる。

 私には、一般的なイタリア男よりは気のきいた口説き文句を言える弟がいた。その弟は、一夜にして有名になってしまった。弟は不真面目な軍人を――海兵をしていた。それから、たった一晩で、海の上から消えてしまった。私はその頃、私の顔を見れば誰もが名前を思い出すようなモデルだった。富はどうでもいいとして、名声を得た、誰よりも有名なモデルだった。
 私の弟は、私のレグルスは、そんな私をたった一晩で追い抜くほどに有名になってしまった。海の上から忽然と消えてしまった成人男性として。

 私には弟がいた。

 夜空のような黒髪と、海のような青い瞳が美しかった弟がいた。ここではないどこかへ、ふっと消えてしまった弟がいた。

 いつのまにか消えてしまうこと。日本ではそれを『神隠し』というらしい。神様が気に入った人間を自分のもとへ連れていってしまうのだという。
 青々とした海の上から、帽子ひとつ残さずに消えてしまったあいつは、何年もたった今も見つかりなどしていない。自分から海に飛び込んだのではないか、という説もあった。一番現実的な案だと思う。少なくとも、現在各地で観測されている『神隠し』よりずっと建設的で、親切な話だ。海をすべてさらえば、弟の遺体が見つかるかもしれないのだから。

 けれど、現実は非現実的だった。あいつは『正式に』神隠しの犠牲者だと断定された。ぽっかりと消えていなくなってしまった弟は、幸か不幸か……『神隠し』の第一号だった、らしい。
 あいつが消えた時刻ぴったりに、馬鹿みたいに眩い光が水平線を染めたのだと、その日の航海日誌に記されていたのが決め手だった。親父は少佐の位置にまで上り詰めていた海軍をやめた。そのかわり、異世界へ拉致されてしまった人たちを探す組織――に、入った。もう一度、あいつに会うために。

 私には弟がいる。

 どこへいったのかもわからない、素行不良気味の弟が。どうして消えてしまったのかわからない、たった一人の弟が。

 『神隠し』にあった人たちはたまに……本当にたまに、こちらの世界に帰ってくることもあった。帰ってきた皆は消えたときよりも幾分か成長した姿で戻ってくることが多かった。あちらとこちらの時間の流れは狂っているのだろうか。
 三ヶ月後に帰ってきた人の中には、三十歳ほど年を取っていた人もいた。
 三年後に帰ってきた人の中には、消えてしまったときと同じ状態で帰ってくる人もいた。

 そして、皆は口を揃えてこういうのだ。

 ――『青い瞳の、黒髪の青年に保護されていた』と。

 それはレグルス・イリチオーネ……つまり、あいつである。『神隠し』第一号として顔をよく知られたあいつは、あいつより後に『神隠し』にあった人たちを、何らかの方法で異世界で保護しているらしいことがわかった。『神隠し』にあった人たちも、【第一号】たるあいつの存在があったからこそ、冷静に生きられたのだと話していた。
 あの愚弟が生きていることにほっとしたのは、私も親父も同じだろう。生きていることが分かってほっとした反面、何故帰ってこないのかと不安にも思った。あるいは、帰ってこられないのかと。

 私はゆっくりと波の寄せる砂浜を歩いていく。あいつが消えた海の向こうに、私の知らない世界を描いて。

 帰ってこないのは何故なのだろう。こちら側の世界は嫌になってしまったのだろうか。それともなにか、退っ引きならない事情があるのか。あいつの考えていることは私にはわからないし、あいつもわからせようとは思わないだろう。でも、それでも誰かが帰ってくるたびに、私、あるいは親父あての伝言はないものかと思ってしまう。

 帰ってこないことについて、不安なことがひとつだけあった。
 あちら側で何年も過ごした人が、ぼそりと私にこぼしたことがある。

 ――『彼は、私たちが老いても、若いままだった』。

 それがどういう意味なのかはわからない。あいつの時間もまた、狂ってしまったのだろうか。


 私には弟がいる。青い瞳に黒い髪の、黙っていれば美丈夫で通用する弟がいる。

 弟と昔にとった写真は、今も私の部屋に飾られている。四隅をピンでとめて、コルクボードに張り付けてある。写真の中のあいつは私の息子を親しげに抱いて、海兵の印である帽子を、息子に被せて笑っている。その写真を撮った三日後に弟は跡形もなくこの世から消えて、私にはぽっかりとした穴のようなものが残った。

 たった一枚しかない家族写真が色褪せる前に、あいつが帰ってくることを私は青い海に願わずにはいられない。生きているならそれでいい、と弁えられるほど、私は大人ではなかったようだ。



***



 ひらり、と何か紙のようなものが落ちたのを、凛音は見逃さなかった。なあにこれ、と拾い上げてから、ああ、と納得する。この人にもそんな人らしい感情があったのか、と何故かほほえましく思いながら、拾い上げたそれをレグルスへと手渡した。

「レグルスさん、これ大事なものでしょ」
「ん?」

 手帳からそれが滑り落ちたことにも気づかなかったらしいレグルスは、凛音に手渡されたそれを見つめて「……これは俺のものか」と自分に言い聞かせるように口にした。はあ、と訝しむような声をあげたのは凛音の方だ。

「何いってるのよ。これ、レグルスさんのお姉さんの写真じゃない。雑誌の切りぬきみたいだけど」
「姉?」

 色褪せた薄い紙をつまみ上げて、レグルスは無表情でそれを眺める。気の強そうな女だな、と少しずれた言葉だけが帰ってきたのに凛音は閉口した。

「……あのねえ、確かにヴァルゴさんは気が強いけど。そんなに他人事みたいに言わなくても。スーパーモデルが姉だっていうの、ちょっと照れるのかもしれないけど、……悲しむと思うわ、そんな言い方されたら」
「モデル? ……ああ、そうか、姉か……」

 珍しくどこかうすぼんやりとした返事をして、レグルスは色の抜けてしまった雑誌の切り抜きをみつめる。何故こんなものが手帳に収まっていたのか、自分でも思い出せない。
 姉か、と小さく呟いた。凛音にはそれは聞こえない。

 父のことはよく覚えている。自分と似たような顔をした人だから、鏡を見るたびに思い出した。姉はといわれれば、顔が靄がかかったようにぼんやりとしている。最後に姉にあったのは――もう、きっと何千年も前のことなのだろう。存在を忘れかけていたのは、確かに申し訳ないことだ。

「……長く生きてるとやっぱり、元の世界のことって忘れてしまうものなんですか」

 凛音とレグルスの会話の行方を見守っていた悠斗が、何かを探るようにレグルスに話しかける。そうだな、とレグルスは色褪せた女を手帳に挟み直した。きっとまた、挟んだことも忘れてしまう日が来るのだろう。

「俺は……君たちと違って、ここに生きた年月の方が長い。相対的に見て、俺たちの世界とこの世界との記憶の量を考えるならば、……やはり、『忘れた』に該当するのだろう」
 
 思い出せている分、まだ手遅れではないはずだがな、とレグルスは続ける。手帳を懐にしまいこんで、いたはずの姉を脳裏に思い描く。結局、浮かび上がったのは雑誌の切り抜きの――色褪せた顔だけだ。
 かつて、こちらに来たばかりの時に――姉の顔を忘れないように、と挟み込んだ自分のことも、レグルスはもう覚えていない。何千年もたっても、まだ紙として残っているほどにそれを大切にしていることも、レグルスは忘れている。

 思い出せない姉の顔に、「人の記憶などそんなものか」と呟いて、レグルスは双子へと向き直った。

「もし君たちがあちら側へ帰るときがあったなら、どうか伝えてほしい」

 ――俺は元気でやっていく、とな。



 


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