翻る外套

「いっ……!」

 重い衝撃を腹に受けて、ニルチェニアは一瞬頭が真っ白になった。吐きそうになるのをこらえて、引いた血の気に身を震わせる。ダン、と鈍い音がして壁に叩きつけられたのだと知ったとき、もう駄目だと思った。ずる、と床に座り込んでしまう。目の前が痛みに霞んで、蹴り飛ばされた腹が熱くなっていた。

「こんな夜更けに一人で歩いてるから、アタシみたいなやつに目をつけられちゃうのよ、お嬢ちゃん」

 真っ赤に塗った唇をなめあげて、鷲鼻の男がにんまりと笑う。筋骨隆々な身体に女の口調が奇妙な倒錯感を持たせていた。失敗したな、とニルチェニアは動かない身体に自嘲気味に笑った。
 最近、このあたりには“通り魔”が出ると聞いていたのに。

「アナタ、柔らかくって美味しそうね。この辺じゃ見かけない感じのお嬢ちゃんだけど」
「……私も、貴方みたいな人って、見るのは初めてよ」

 男の被った赤い帽子が月の光に照らされている。まるで血染めの布のようだと思ってから、「【赤帽子】であっていたかしら」とニルチェニアは諦めたように笑った。血染めの布、が洒落にならないのだから頭が痛い。痛むのは蹴られたお腹だけで十分なのに、と痛みに涙が一滴だけ流れた。

「ご名答。アタシは【赤帽子《レッド・キャップ》】。……やあね、そこまで知っててこんな夜に出歩いていたの? 悪い子ねえ!」
「こんな夜、ね。……本当に嫌な夜ね。……こんな日に死ぬなんて、最悪よ」

 空には大きな満月だけが浮かんでいる。満月の夜には人ならざるものが現れると、昔から言われていたのに。どうしてこんな夜に外に出てしまったのだろうと、今更ながらニルチェニアは後悔したが、それだってもう遅すぎる。男の異常に伸びた爪が鉤爪のように鋭く光っていた。あれで肌を擦られようものならすぐに切れてしまうだろうな、と他人事のように考える。痛みが少なければ良いけど、と朦朧としつつある頭で思って、唇に笑みを浮かべた。

 【赤帽子】。それは、夜道で人を襲うと言われている“通り魔”だった。

 夜に親しいヒトならざるもの。
 恐ろしい外見、あるいはおぞましい習性をもつもの。

 ヒトに悪さをするもの達を、“通り魔”と呼ぶことは少なくなかった。古い言葉では《闇に親しむもの》と呼ばれるらしいし、単純に《モンスター》と呼ぶこともある。その中のどれにせよ、ヒトを襲うことに違いはない。

 “通り魔”の中で一番の悪名を轟かせるのが【渡し守】であり、【渡し守】にあったが最期、明日の日の出は拝めないという話もあった。

 そんな【渡し守】の次に悪名を轟かせるのがこの【赤帽子】だろうか。帽子を赤く染め上げるために人を襲うというその“通り魔”は、運が良かったら全身が繋がったままで翌朝見つけてもらえるかもしれない、という話で。

 【渡し守】も【赤帽子】も、出会ったらいずれにせよ死ぬのかと思ったが、“通り魔”とはそんなものだ。そういう“通り魔”からヒトを守るために【退治者《クルースニク》】などという、化け物専門の狩人のような職業まであるくらいなのだから。

「綺麗なコの血を吸ったら……アタシの帽子ももっと綺麗に赤く染まるかしら。どお?」
「……十分綺麗よ、その帽子。机をふいたあとの雑巾のほうがまだましだけど」

 痛みにうめきながら微笑んだニルチェニアに、鷲鼻の男はくすくすと笑う。

「結構肝が据わってるのね、アナタ。良いわ、良いわね、その強気な感じ! そういうコの叫び声、アタシは大好きよ」
「私は嫌いだけれど」

 出来るだけ長引かせてあげるから。たくさんないてちょうだいね。

 赤い目を爛々と輝かせ、【赤帽子】がゆっくりと近づいてくる。楽には死ねないことを悟って、ニルチェニアはゆっくりと目を閉じた。

 ――まだ謝ってもいないのに。

 諦めたニルチェニアににんまりと笑って、【赤帽子】は舌で唇をなめあげた。無抵抗な獲物をボロボロにするのが彼の愉しみであり、生き甲斐であり、存在理由なのだから。

 帽子を赤く染めるのは彼にとって至福の時間だ。古い帽子が新しい血を吸って鮮やかな赤をまとうのも、帽子から芳しく胸を締め付けるような鉄の香りがするのも。獲物が断末魔の叫び声をあげて死に逝く様をみるときは背筋がぞくぞくと疼く。【赤帽子】はそういう生き物なのだから仕方がない。

「お嬢ちゃん、最期に言い残したことはある? アタシが聞いてあげる。……望みがあるなら今のうちにね。気分がノったら聞いてあげるわ」

 無抵抗の少女の腹部に狙いを定める。首を一息にはねるのも良さそうだけれど、それでは一瞬でつまらない。腹を切り開いてそこに帽子をねじ込むのはどうだろう。きっと赤く、鉄の匂いをより強く纏ってくれるはずだ。何て甘美なひとときか。

「……そうね。兄に謝りたかったわ。そのまま家を出てきてしまったから。きっと心配しているか……怒って寝てしまったか」
「ふうん?」

 喧嘩でもしちゃったのかしら、といたわるような声をかけて、【赤帽子】は残虐な笑い声をあげる。静かな月夜には似合わない、派手でぞっとするような声だった。金釘の飛び出た床の上で踊るタップダンスより、ずっと派手で耳障りな声だった。

「さぞかし後味の悪い思いをするでしょうね、アナタのお兄さんは! ウフフ、喧嘩別れをした妹が次の日にはぼろ雑巾みたいになって発見されるのよお? 忘れられない夜になるに違いないわ!」
「……、やっぱり趣味悪いわね。血染めの帽子なんて被ってる時点でわかってたけど」
「アタシ達とアナタ達じゃ、価値観違うのかもね?」

 それじゃあ始めましょうか。
 鋭く伸びた爪を【赤帽子】がニルチェニアの腹部に押し付けようとしたとき、何か白いものがその頭を蹴り飛ばした。巨木を思いきり殴り付けても出ないような音がしたのに驚いて、ニルチェニアはうっすらと目を開ける。

「な、何……?」
「謝りたいんなら直接お兄さんに言うもんだぜ、お嬢さん」

 そこのカマ野郎じゃなくてな。

 月夜に燦然と煌めくような銀髪をたなびかせ、ニルチェニアにウィンクをしたのは青い瞳の青年だった。貴族か聖職者かというような白い礼服を身に付けているその青年は、羽飾りのついた真っ白なハットをニルチェニアの頭にポンと乗せた。ふわりと甘い香水の香りが鼻を擽る。

「ちょっと預かっててくれるか? あんまり汚したくないもんだからさ」

 「“真っ赤な帽子”よりゃ、ましだと思うぜ」。そんな風に一言付け加えて、青年は蹴り飛ばされた【赤帽子】の目の前に立った。青年の白い外套は月の光を受けて、一点の汚れもなく闇に存在している。その背中に何故か安心感を覚えて、何故だろう、とニルチェニアは頬に流れた涙を指でぬぐった。白くて、大きくて、頼もしい背中。

 ――兄に似ている。

「最近この辺で悪さしてるのはお前か?」
「だったら何よ?」
「俺が駆り出されるからやめて貰えねえかな。出来るだけ仕事したくないんだよ」
「知らないわよそんなこと! それよりアンタ、アタシの邪魔して何様のつもりよ! 色男でも許さないわよ」
「俺様」

 ばしっと吐き捨てて、白い礼服の青年は立ち上がった【赤帽子】に掴みかかる。上背は同じ程度でも、青年はほっそりとしていて優美だ。筋骨隆々とした【赤帽子】に真っ向から向かって立ち回れるとは思えない。優男の癖に、と【赤帽子】が凶悪な笑みを見せても、青年は退こうとはしなかった。

「女の子のお腹に蹴りだなんて笑えねえ冗談だよなあ」
「そうかしら? どうせ死ぬんだからどうだってイイじゃない。ウフ。あのコ、赤ちゃん産めなくなっちゃうかもね」
「お前らのそういうところ、俺はほんとに嫌だよ。好き勝手しやがって」
「……なっ!」

 体格的に不利かと思われた青年は、一瞬の隙なく【赤帽子】の懐へと滑り込む。そしてそのまま、【赤帽子】の逞しい首を片手で掴みあげて、白い礼服の青年はぶらんと宙にぶら下げる。抵抗しようとした【赤帽子】の鉤爪のような爪を一枚一枚剥ぎ取って、ぽいと棄てた。
 爪をもがれるたびに響く、獣のような叫び声に、ニルチェニアも身を震わせる。あの【赤帽子】を易々といなしてしまったこの青年は何者なのか。

「汚い叫び声だよな……綺麗な叫び声なんて聞いたことはねえけど」
「いた、痛いわよォ……! やめ、やめなさい! やめろ!」
「“やるなら徹底的に”ってお偉いさんから言われてるんだよ。聞いたことあるだろ、“ソルセリル・システリア”。俺、幾ら《闇に親しむもの》でも出来るだけ始末したくねえっていったらさ、あの人なんて言ったと思う?」

 言いたくもない、とでもいうように青年は顔をしかめ、「“二度と抵抗出来ないように仕込みなさい”だってよ。あれで俺より年下だって話だぜ、恐ろしいね」と【赤帽子】の首を掴む手に力を込める。

「【死か服従か】。……ま、言いたいことはわかるけど」
「ソルセリル・システリア……って、アンタまさか……?」
「お? 俺の名前、知ってんの?」
「《クルースニク》……! 《クルースニク》のニックね……!?」
「ご名答。確かに俺は【退治者《クルースニク》】のニック……だけど、ちょっと惜しいな。可愛い女の子の前ではミシェルって名乗ることにしてんだ」

 クルースニク、とニルチェニアは目を見開いた。
 “通り魔”を始末するために存在している【退治者】。だからあんなにも易々とこの【赤帽子】をいなすことが出来るのかと納得できる。

「何でアンタみたいなのが白玉卿に……システリアに飼われてるのよ。システリアの手先って訳? クルースニクも堕ちたものね……!」
「何でって……利害の一致だろうなあ。そもそも俺、クルースニクになりたくてなったわけでもねえし」
「じゃあアタシの邪魔をしないで! さっさとこの場から出ていきなさいよ!」
「……とはいっても、だな。俺とあの人の契約は【“闇に親しむもの”がヒトを襲っていたら助けること】だし――それよりなにより」

 ミシェルと名乗った男はニルチェニアの方を振り返り、柔らかく笑う。月の光のような笑顔は、不思議と包み込むような温かさがあった。

「お嬢さんが困ってたら、助けに入るのが紳士ってもんだろ?」
「……何よそれ! ムカつくわ!」
「恨むなら俺を恨め。……で、どうする? 俺はお前のこと、始末する気はあんまりないけど」
「アタシに頭を垂れろって? ふざけんじゃないわよ、どこまでバカにするの? ヒトを襲うのが【赤帽子】なの! アンタ達みたいなやつの勝手な都合であれは悪い、これは駄目……! 誰がそんなの決めたのよ!」
「……そりゃ、ごもっともな話だけど」

 それに関しては神を恨んでくれないか、【退治者】は口にした。聖職者の延長線上にいるような人間からそんな言葉が出たのにニルチェニアは驚いたが、ミシェルは当たり前のような顔をして続ける。

「理由があるとか、それでなきゃ【赤帽子】でいられないとかってのは分かるんだけどよ。俺が今、何でお前をこんな目に遭わせてるのか……お前、わかってねえな」
「アタシが【赤帽子】だから【退治者】のアンタがこうしてるんでしょ? 違う?」
「全ッ然違う」

 ダメだな、とミシェルは面倒くさそうに呟いた。

「理由なしに暴力振るってんじゃねえって言ってんだよ。分かりやすく言ってやろうか。お前が大した理由なく暴力振るうってんならな、俺が同じように大した理由なく、正義を盾にぶん殴る」
「ゲホッ……っと、アンタ……ぁ!」

 どうやら、【赤帽子】の腹に青年の拳が捩じ込まれたらしい。むせる【赤帽子】にニルチェニアはざまあみろとも思えなかった。見ているだけで蹴られた腹が痛む。

「殴られたくなきゃ殴らなきゃ良い。殴られたら殴り返せば良い。分かりやすいルールだろうが。それでも文句あるならこのまま白玉卿んとこつき出すぞ? ……言っとくけどな、俺の方がまだまだ良心的だからな。この辺で進退決めとけよ?」

 本当に死ぬか一生服従かのどっちかだぞ、と深刻に紡いだミシェルの顔は真面目そのものだったけれど。

「……殺しなさい。アンタのいってるルールは理解できるけど、従う気はないわ。それがアタシの生き方だから」
「……男前だなあ。一本筋とおってんのは嫌いじゃないぜ、その唇の赤さはどうかと思うけど」
「オシャレよ。アンタ女心解んないの!? 男前も余計よ!」
「ありとあらゆる意味で大変な生き方してんな、お前……」

 仕方ねえな、とミシェルはため息をついて、首を掴んだ手に力を込めて【赤帽子】を締め上げる。しばらくしてからミシェルが手を離せば、【赤帽子】は地面にどさりと転がった。

「……っと、平気かお嬢さん」
「ええ……」

 廃屋の壁に寄りかかっているような状態のニルチェニアに手は差し伸べず、ミシェルは外套の内ポケットを探る。取り出したのはアクアマリンが留められたペンダントだった。泉の水面のようにやわらかい青の光をともしたペンダントを、ミシェルはニルチェニアの腹部に当てる。じわりと強く光ったアクアマリンから、きらきらと光がこぼれ落ちた。
 こぼれ落ちる光はニルチェニアの肌に溶けていき、その度に痛みがほどけるように消えていくのがわかる。これは、とたずねたニルチェニアに、ミシェルは「昔、友人が作ってくれたものさ」と綺麗に微笑む。

「腕の良い彫金師でね。古代の魔法具だと思ってくれれば」
「そうなんですか。……あの……助けてくださってありがとうございました……」
「どういたしまして。仕事だから気にせず。他に痛むところは? 治すよ」
「お腹を蹴られただけなので、大丈夫です……あの、【赤帽子】……は、」
「ん? んー……アイツには殺せって言われたけど、そう簡単にさらっと出来るものでもないからなあ……生きてるよ。ちょっと絞めてトばしただけ。蹴りたいなら蹴ってくるか、お嬢さん」
「いえ、それは少し……」

 遠慮します、とニルチェニアが首を振れば、だよな、と少し笑って、青年は「こんな夜に外なんて出歩くもんじゃないだろ」とニルチェニアの頭から帽子を手に取り、自分の頭へと乗せる。

「お兄さんとちゃんと仲直りしろよ? 満月の夜なんかに外に出たら、すげー心配するって」
「……はい」
「お嬢さん、綺麗だしな。“通り魔”じゃなくても変なのに絡まれるって。……っと、噂をすれば、かな。……この事はお兄さんにちゃんと話してしっかり叱って貰えよ? ……それから、俺の名前は内緒でよろしく頼む」

 鮮やかに幕引きを行う役者のように、ニルチェニアがまばたきしたときには青年は幻のように消えていた。あの【赤帽子】も。
 どこかに連れていってしまったのだろうかと思ってから、現実味のなさにニルチェニアは頭のなかがふわふわとしていくのを感じる。
 さく、さく、と草を踏みしめる音が近づいて、ニルチェニアは音のした方向に顔をむけた。見慣れた銀髪に青い瞳。あの青年とは違って、険しい顔に逞しい体つき。ニルチェニアのたった一人の兄がそこにいた。

「ニルチェニア……! こんなところに!」
「お兄様……」
「獣のような叫び声が聞こえたんだが、何かあったのか……!? ニルチェニア、」
「お兄様、ごめんなさい……勝手に外に出たりして、」
「良いんだ。……君の気持ちも推し量れなかった俺が悪い」

 地面にへたりこんだままのニルチェニアを抱き上げて、ニルチェニアの兄は「帰ろう」とニルチェニアの体を抱きしめる。

「満月の夜なんかに……心臓が冷えたよ。最近は“通り魔”が出るときいていたし。本当に何もなかったのか?」
「……帰ってから、ちゃんと話すわ」

 兄の胸に顔を埋めて、ニルチェニアはその温かさに安堵した。ふわふわとした頭はまるで夢の中に入りかけているようで。妹の無事を喜んだ兄の腕のなかで、ニルチェニアは静かに眠りにつく。帰ったら今度こそ、きちんと兄に謝らなければ。



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