ふざけているのだろうか――。
地獄絵図と化したバーのど真ん中、ビリヤード台の上に立って長広舌を揮っている男にニルチェニアはため息を抑えきれなかった。
思えばあの人がふざけていなかったことがない、と思い直し、ニルチェニアは近くにあった革張りの椅子に腰を掛ける。
上等な椅子なのだろう、ゆっくりと体が深く沈んだのがわかった。
菫色のイブニングドレスのスリットから白い足がのぞいたけれど――そんな魅力的な柔肌に気を留める人間がいないほどに、その場は荒れ果てていた。
ごろつきどもが集まるような酒場とは程遠く、入るにもドレスコードが存在するような格式高い店だった、とニルチェニアは銃痕が生々しく残る壁を見つめる。
刻まれた穴からはいまだに細く煙がたなびいていた。
シャンデリアはほとんど落ちかけている。乱射された銃にガラスの破片をまき散らしていたのはつい数分前の話で。
バーのカウンターにいたはずのバーテンダーは――皆、ワインより赤い血を流してくずおれている。
「大惨事ね」
ニルチェニアはワインに口をつける。グラスについていた水滴が、惜しげもなく開かれた胸元に落ちる。
つつ、と豊かな胸のふくらみをいく水滴は白い肌をゆったりとなぞり、深い谷間へと滑って行った。
「――生き残った不幸な諸君」
ビリヤード台に堂々と君臨している男が口を開く。
黒いドレスシャツ、黒いスラックス、黒のベストに黒いコートを羽織った男。
黒い髪を黒い手袋で優雅にかきあげる姿には色気がある。
黒一色で構成されたような男の瞳だけは鮮やかな青で、それが男の甘い顔立ちに毒々しい華やかさを添えていた。
黙っていれば普通の色男なのにと嘆かれるこの男の名は――レグルスという。
無表情ながらどこか上機嫌といった調子で語り始めた男に、場が静まり返る。
もともと静かではあったが――いまや、息を殺して男に見入っているのが【生き残った不幸な諸君】たちだった。
イブニングドレスは無残に汚れ、スーツには血や酒の飛び散った男たちが、絶望的な瞳でビリヤード台に立っている男を凝視しているというのはそうそうみられる光景ではない。
そう何回も見たい光景ではないとニルチェニアは完結し、事の成り行きを見守った。
――ソファに体を沈ませ、あくびを一つ、噛み殺し損ねながら。
「今から面白い話をしようと思うんだが、反対の人間は? ――ああ、人じゃないからと遠慮することはない。人でないものからの意見など、そう聞けるものでもないからな」
当然のことながら、誰一人として声を上げようとはしなかった。
つい先ほど、このバーを紳士淑女の社交場から阿鼻叫喚の地獄絵図に変えたような男に――何か言える気力を持った者などいない。
それを知っていて言っているのだ、とニルチェニアはきれいに塗られた自分の爪を眺める。品のいい紫色だったけれど、ドレスも紫色で爪も紫色というのは少々しつこいのでは、と思わずにはいられない。
塗ったのはビリヤード台に立っているレグルスだった。ここに来る前に塗られたものだ。
塗るならきれいに塗って、と言ったニルチェニアに従って随分ときれいに塗りつけたレグルスに、彼女は「案外器用なのですね」という他なかった。
弄り慣れているのかと問えば「初めて塗った」という面白くもない言葉が返ってきたが、レグルスがそういう人間であることは重々承知だ。
彼は初めてであろうとサーカスで空中ブランコを成功させる男であろうし、熟達していてもクッキーを焼き損ねる男なのだから。
ふう、とニルチェニアは爪に息を吹きかける。
照明に当てられた小さな唇が、リップグロスの艶やかな光をともしていた。
「誰も反対をしない――ということは、このまま続けて構わないという認識でいいな? どうぞ、菫のお嬢さん?」
「さっさと終わらせてもらえますか、レグルスさん? 時間の無駄よ?」
ニルチェニアが場外から声をあげれば、ボロボロな姿の紳士、淑女から一斉に虚ろな目を向けられる。
それにはツンと澄ました顔を作り、ニルチェニアは椅子に腰かけたまま「ごきげんよう」と足を組みながらひらりと手を振った。
「私の顔に見覚えがある方ばかりだと思うのですけれど……ご機嫌は?」
「探偵、お前やっぱり性格が悪いな?」
こんな状態でご機嫌も何もないだろうにとレグルスが鼻で笑う。
ここまでしてくれと言った覚えはないのだけれど、とニルチェニアも鼻で笑った。
全く、とあきれた表情をした後ににこりと毒の滴る笑みを咲かせ、「こんばんは【情報屋】のみなさん」と優雅に唇を動かした。
「【フィアールカ】ですわ、覚えてらして?」
フィアールカ、と名乗った瞬間にざわめいた場の人間に、ニルチェニアは優雅で威圧的な姿勢を崩しはしなかった。
つう、と唇を指先でなぞり、悪魔も裸足で逃げ出すような凄絶な笑みを浮かべる。
死んだんじゃなかったのか、という誰かの呆然としたつぶやきに「残念ながら」と天使のように微笑んだ。
「【フィアールカ】を売ったあなた方には本当に残念なことに……わたくしは生きておりますの。死んだのは、そうね。あなた方が私を売り渡したマフィアのボス……だったかしら?」
「ボスだけじゃないだろう? 人にあれだけ仕事をさせておいて」
「あら? 私は『あのマフィアをどうにかしてほしい』と依頼しただけよ。まさか皆殺しだなんて思わなかったもの。ねえ? そうは思わない?」
不気味なほどに可愛らしく傾げられた首に、ヒッ、と赤いドレスの女が慄いた。
菫色の瞳が怯える顔を一つ一つ眺めていくのを見ながら、レグルスは椅子に女王様然として座っている女がどれほど怒っているのかを知る。
ニルチェニア自体は、売られたことに関しては何一つ怒ってはいない。
それは彼女も「情報屋」である以上、当然起こるべきこととして受け止めているからだ。
どこぞのマフィアのボスが彼女にご執心で、彼女をどうにかしてファミリーに引き入れようと画策したところで、彼女は気にも留めていなかった。
睦言めいた甘言に笑顔で切り返し、適当にあしらって自由に振舞っていたから、それは断言できる。
彼女がひどく怒っているのは――そこに自分の育ての親が巻き込まれそうになったからだ。
甘言や睦言、贈り物では彼女をどうにもできないと悟った一人の男が、あろうことか別の情報屋たちに声をかけ――彼女の養父であるユーレの居場所を突き止めた。
突き止めただけで終わっていれば、とレグルスはため息をつかずにはいられない。
養父の居場所を突き止めた後、「養父がどうなってもいいのか」と脅し文句を口にしたからああなってしまったのだ。
同じマフィアのボスとして、忠告してやるべきだったかと記憶の片隅に残っている男に同情を寄せた。
最期に見たその男は、確かニルチェニアが馬乗りになった後、何らかの言葉をかけてしっかりじっくりたっぷりと精神的に痛めつけていたと思う。
彼女が何をあの男にいったのかは知らないが、男の憔悴ぶりからして相当にえぐいことだったに違いない。
好いていた女に馬乗りされた幸せが薄れないうちに、とその場でレグルスはその男を天国送りにしたのだ。もっとも、職業が職業だけに男の逝く先は天国より地獄の可能性の方が高そうだが。
ニルチェニアは怒らせると――始末に負えないのだ。
徹底的に、計画的に、悪魔的に報復したがる。
怒りの矛先が一度でも向いたなら、精神的に、あるいは肉体的に、社会的に――死ぬことは確実だ。
本来ならニルチェニアもレグルスを駆り立ててまで報復に出るようなことはしなかったのだろう。
――が、今回の件にかかわった者は、レグルスにとっては目も当てられないほどに運が悪かった。
ニルチェニアの養父のユーレは、実をいえば裏社会にいたこともある人物だ。それも結構な腕のある殺し屋、それも暗殺者だったのだから、場合によってはユーレを襲った方がユーレに返り討ちにされることもある。
そういった意味では特に心配もないから、といつものニルチェニアなら社会的に殺す程度の報復でことを収めていたのだろうが。
本当に運の悪いことに、たまたま探偵事務所にいたユーレのところに向かった暗殺者が――ユーレと交戦した際に、ニルチェニアが大切にしていたとある装飾品を壊してしまったのだった。
それがなんだったのか、レグルスは詳しく知らない。
ユーレに聞けば「あいつが生まれてから今に至るまでの『謎』を解くためのヒント……みたいなもん」とユーレは心底恐ろしいといった表情で語った。
それを聞いてレグルスも久しぶりにぞっとしたのだ。
ニルチェニアは『謎』をこよなく愛す女だ。
謎を解くために生まれたといってもいいほど謎を愛し、謎のために生きていた。
幼いころに記憶をなくし、ふらふらと街をあるいていたところをユーレが拾い、育て、いろいろあって今は表向きだけ「探偵」として暮らしているような女だ。
そんな彼女にとって、一番の謎が「自分のなくした記憶」であり――それにまつわる物を壊されたとあれば、どう考えても彼女が激怒するに違いなく。
彼女の怒りの矛先が自分に向く前に事を収めねば、とレグルスは今の今までニルチェニアに付き合っているのだ。
「【情報屋】の皆さんならお判りでしょうけれど――」
ニルチェニアが聖母のような微笑みを浮かべた。
この顔を見るのはいつぶりだろうと遠い記憶をレグルスはあさる。思い出せなかった。
「今夜は帰しませんわよ?」
bkm