カフェオレのお味は

「ああ、ニルチェさん。来てたんですねえ」

 どうぞどうぞと椅子をすすめるリピチアに一つうなずいて、ニルチェニアは椅子に腰を下ろす。すわり心地はよくないけれど、そんなものは気にならなかった。
 元々この椅子は研究の合間に少し休む程度の目的でここに置かれているものだから。
 何かの薬品のにおいとぽこぽこと液体の揺らぐ音がするここは、リピチアの研究室だ。
 本来ならばリピチアが一人で使っている空間なのだし、椅子をすすめてくれただけでもありがたい。

「すみません、お待たせしてて。ミズチさんもニルチェさんがここに来てるんなら、もっと早く教えてくれればいいのに」
「……いえ。勝手に押しかけたのはこちらですし」
「とは言ってもですねー。会議の間中、ずっとここにいたんでしょう。暇じゃありませんでした?」
「全然。ここはいつ来ても興味深いものがたくさんありますし――私も、それを見るためにここにお邪魔させてもらうのですから」

 にこりと笑みを形作って、ニルチェニアは明るい研究室を見回す。
 何かの資料が収められたファイルも、得体の知れないものがホルマリンに浮いている瓶も、奇妙な模型も。
 すべてがニルチェニアの興味をひき、好奇心をくすぐった。

「それならいいんですけど。私も研究について話せる人がいるのはすっごく面白いですしね」
「それならよかった。私、リピチアさんのお話を聞くのが楽しいから」

 はいどうぞ、と差し出されたマグカップを受け取って、ニルチェニアはそれにそっと口をつける。中身は甘いカフェオレだった。

「あ、……リピチアさん、それ」
「ん? いいんですよ。お客さんはちゃんと食器使って飲んでてください」

 対するリピチアの方は、あろうことか三角フラスコにカフェオレをなみなみと注いでいる。
 せめてビーカーにすればいいのにと思いながらも、ニルチェニアは「すみません」と口にする。
 研究室に訪れるたび、リピチアはニルチェニアにいつも温かい飲み物を淹れてくれた。大抵はコーヒーだ。苦いそれはこの研究室に常備されているものであり、実験の状況によってはいくらでも徹夜をするリピチアの戦友のようなもので。
 
「これ、お土産です。おいしいと聞いたので」
「あ、これ! 最近噂になってる銘柄のコーヒーじゃないですか! わー、こんなの貰っても?」
「ええ。目が覚めたいときに、どうぞ」

 ニルチェニアが手土産として持ってくるのも、コーヒーだった。それしか、リピチアが好きなものを与えられないから。

「今日はカフェオレなんですね」
「ちょっと甘いものが飲みたくなっちゃって。ひどいんですよー? 会議に出てるお偉いさんの話のつまらないこと! そのくせ長ったらしいんですもん。もっと要約して話せって感じです」
「……ふふ」
「笑い事じゃないですよー。ホント、あくびをかみ殺すのに精いっぱいって感じで。やってらんないです」

 会議の多いところにろくな場所はないんですよ? とため息をつきながら、リピチアはニルチェニアに「お兄さんとはうまくやれてます?」とのんびりと口にする。
 ニルチェニアはそれにあいまいに微笑みを返すだけで、ああこれはもう少し時間が必要か、とリピチアも微笑みを返した。

 リピチアの上司はニルチェニアの兄であり、ニルチェニアとその兄のルティカルの関係はもろもろあってぎくしゃくとしている。
 そんな上司を見かね、まずはニルチェニアの方から歩み寄ってくれたなら、とリピチアはこうしてニルチェニアと親交を深めていたのだった。
 ルティカルもニルチェニアもお互いに距離を取り損ねているのだろう。
 リピチアが見ているあたり、ルティカルは過干渉しすぎていたし、ニルチェニアは無関心すぎる。バランスが悪いのだ。
 だから、間にリピチアを挟むことでお互いの距離の取り方を覚えていってもらえたら――と思ったのだ。
 リピチアからしてみれば上司もこの少し年下の友人も、大切な人のカテゴリに入れてしまえると思っているから。

 ニルチェニアからしてみれば、リピチアはただの友人なんかじゃない。
 それはもちろん、兄の部下ということだけではなくて。
 いろいろと世話を焼いてくれる上に、こうして話し相手にもなってくれるリピチアは、前にニルチェニアの命を救ったことだってあった。
 探偵として仕事を行っていたときにたまたま出くわした暴漢を、有無も言わさずに叩きのめしたのがリピチアだった。
 強くて知性にも満ち溢れていて、それから飾り気のないこの人のことを、ニルチェニアはずっと見ていたいと思ってしまった。
 だからこうして兄の話やリピチアの研究の話をする風を装って――会いに来ている。

 ニルチェニアはちょっと困った顔をして、いつも通りに話し始める。 

「兄は……毎週欠かさずに、手紙を」
「毎日じゃないところでほめるしかないですねえ……ううん……ちょっと重い感じが否めない……」
「封筒の厚みが小指の第一関節ぶんくらいあって」
「……前言撤回しますね? すっごい重いですねそれ?」

 よくそんな本一冊分ほどの内容を書きますよね、と唖然とした顔をしてから、リピチアは「どうしたんですかニルチェさん」とニルチェニアの顔を覗き込む。
 覗き込んでくる緑色の瞳に、ニルチェニアの菫色の瞳は揺らいだ。
 憧れが恋慕に変わるなどと――あってはならないことだったのに。
 
「何か思いつめた顔してますよ――って、顔赤いですけど……風邪ですか!? よく効く私特製の薬がここに!超不味いですけど!」
「あっ……そ、それはいいです。風邪じゃないですよ。ちょっとカフェオレが熱くて、ですね」
「そうなんですか? ニルチェさん色白だし、そんなものなのかな」

 具合が悪くなったらいつでも言ってくださいね。
 そんな風に優しく笑うリピチアに、まさか「不治の病です」ということもできずに。
 ごまかすように口つけたカフェオレは、甘やかすようにどこまでも甘くて――少し、苦かった。


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bkm


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