「今日の公演も素敵でしたよ」
お疲れさま、の一言とともに差し出された薔薇の花束に、アヤは「あ!」と顔をぱあっと綻ばせた。
差し出された薔薇は、アヤが演じた女性、「薔薇戦争」が好んだ色。その意図を理解したアヤは照れくさそうに笑って、花束へと手を伸ばす。
真紅の薔薇は芳しい香りとともに、アヤの腕へと収まった。
「見に来てくれたのね、ニルチェニア」
「ええ、勿論。……都合がついたら必ず行くわ、と前に言ったじゃないですか。わざわざ貴女にチケットまで取らせてしまったのに」
「だってニルチェニア、貴女いつも忙しそうなんだもの。……サスペンスな舞台なら喜んできたんだと思うけどね?」
今回の演目は恋愛色が強かったでしょうとアヤは笑った。
「……確かに、恋愛色は強かったけれど。でも、面白いと思ったわ。サスペンスがなかったわけではないし、なにより貴女が演じているのが私にとっては重要なんですよ、アヤさん」
「そこまで言うの? ちょっと恥ずかしい」
「当然。私、貴女が演じているのを見なかったら音楽にも舞台にも興味を抱かなかったでしょうし……なにより、今回が初の主役なのでしょう? お祝いをしたいから……帰る支度が出来たらわたしとどこかで食事でもしませんか」
「うん、それ良いなあ。お腹すいちゃったし」
ふふ、とニルチェニアとアヤが笑いあっていれば、遠くからぱんぱんと大仰な拍手をしながら、黒い服に身を包んだ男が近づいてくる。
誰だろう?と首を傾げたアヤとは裏腹に――ニルチェニアの方は呆れたような、不機嫌なような、何とも形容しがたい雰囲気を纏い始めて。
「随分とお暇なのね」
と、男に向かって口にした。
男の方はネオンブルーの鮮やかな瞳をニルチェニアにじっと向けてから、「暇を定義する必要があるな」と大まじめにうなずく。ニルチェニアの知り合いなのだろうかとアヤはニルチェニアに目配せし――
「アヤさん、この人と私が知り合いなんじゃないかとおもっているのなら、その認識は改めて頂戴ね?」
有無を言わさぬ口調でそう告げられたアヤはこくこくと頷き、とりあえず、と男の方に会釈をする。
男の方は口元だけをふ、とつり上げ微笑むと、「素晴らしい公演だった」と満足そうに目を細める。
「この劇場を作った甲斐があるというものだな」
「――え、オーナーだったんですか!?」
驚いたアヤに「建物を造っただけじゃないか」とネオンブルーの瞳の男はさらりと返し。
「劇場を劇場として機能させるのは、役者そのものなんだよ。建物だけでは劇場といえない。そこで演じ、あるいは歌う人が劇場を劇場たらしめるのさ。――おっと、もちろん、観客がいなければ劇は成立しない……そうなるとお前もこの劇場を作った一人になるのかもな、ニルチェニア」
「相変わらず回りくどいのね。素直に“面白かった”と一言言えばよいのではなくて?」
「検討しておこう」
最後にアヤの方をじっと見つめた男は、「良い女優になってくれ」と一言残し、来たときと同じように唐突に去っていく。
何だったのだろうと目をぱちぱちとさせていたアヤに、「これから、忙しくなってしまいますね」とニルチェニアはため息混じりにアヤの手を引く。
「なぜ?」
「貴女は有名になるわ……役者のお仕事も今以上に増える。あの人が貴女に声をかけたということは、そういうことだから」
こうして貴女から演劇の話を聞けることも少なくなってしまうのかしら。
残念そうにそう呟いたニルチェニアに、アヤはにっこりと笑って「忙しくなってしまっても、お茶の時間は作りましょう」と薔薇の花束をゆるく抱きしめながらそう返した。
「有名になったとしても、四六時中女優でいる訳じゃないもの」
貴女はずっと探偵かもしれないけれどね?
にやっと笑ったアヤにニルチェニアもふふっと笑って、「推理ものの舞台のお仕事が来たら、呼んで頂戴ね?」と親しい友人に柔らかい表情を向ける。
人のいなくなった劇場には、楽しげな二人の笑い声が響いていた。
***
――楽しそうな笑い声が響いている。というか、“楽しそうな”を通り越してうるさい。
研究所内では静かにして欲しいんだけどなとリピチアは思いながら、一人で十分にうるさい“少年”と、何だか疲れ切ったような部下――それから、青いウサギに夢中になっている少女をみやった。
「ねえ待って……!! ねえ待って……!! あは、あっはっはっはっは……!! ねえちょっとこの子すんごいんだけど、なにこれ、新手の魔法か何か?」
「うるせッスわ、ソレイユ」
「だってほらこれ見てみなよ、錬金術だってこんなこと出来なくない? そもそもする意味はないんだけどさ! すごい青いよ! なんかもうあれ、何だっけ? 城下町で最近流行り始めた石鹸みたいな青!」
「あの石鹸の色超いいよね! 12ダースくださいってお店の人に言ったら“1グロスですね”ってさりげなく訂正された思い出」
「えっ何? シキミ嬢ってばあの石鹸1グロスも買ったの? 何に使うの?」
「観賞用かな!!」
「石鹸なのに使わないんだ! 1グロスも買っておいて!! 超ウケるんですけど! この紅茶と同じくらいウケるんですけど!」
げらげらと一人で腹を抱えて笑っているドレス姿の少年、ソレイユは自分の目の前にあるティーカップを指さす。それに何故かシキミとよばれた少女は得意げな顔をして「ウケるでしょ!」と胸を張った。
全然ウケねえけど、とミズチはティーカップをのぞき込む。
カップの中にはなみなみと紅茶が注がれていた――ただし、驚くほど真っ青だ。
たとえるなら見た目にもこだわった石鹸。もっと言うなら飲んじゃいけない薬品の色。更に言うなら毒々しいネオンのブルー。
飲みモンの色じゃねえスわ、これ……とミズチはティーカップをゆらし、たぷりと波打った水面を見つめる。ソーダ味のゼリーとしてならまだ許容範囲か、と思う。それにしたって色は濃すぎるけれど。
「なんかこの色どっかでみたような気がするんスけど……ああ……」
リピチアが昔作った“死ぬほど眠れる睡眠薬”の色によく似ていた。運が悪いとそのまま天国行きのすばらしい睡眠薬。
睡魔が運んでくるのは一時的な眠りではなく、永久の眠りだったあの薬品。不穏だな、とカップを揺らしながらミズチは呟く。
余計にこの紅茶は飲みたくなくなった。
「私の青と紅茶への愛の結晶がこちらになります!!!」
「結晶じゃねえよ液体じゃねえか」
その真っ青な紅茶をいれた少女に淡々と突っ込みを入れ、「こんなの研究してどうするんスか」とミズチはリピチアを半眼で見つめる。「飲んでみて下さいよ」とリピチアにカップを指さされて、嫌々ながらもミズチはそれに口を付ける。
色の割には味はまともだった。割とおいしい部類に入る気もする、が、色が良くない。徹底的に色が良くない。
どうですかねー? とのんきに聞いてきたリピチアに、渋い顔をしながらミズチは素直な感想を述べた。
「ただ青い紅茶を淹れるだけじゃねースか。飲んでみたけど別に毒性もないし、普通に紅茶だし、ほんとにただ単純に青いだけで。食欲減退の効果は見込めるかもしんねっスけど」
「ただの紅茶をただ淹れただけで青くなるのが問題なんですよ、ミズチさん。青ってこの世に存在しにくい色素なんですよ? わかってます? 解ってますよね、有機物には青の色素がなかなか存在しないことくらい」
「知ってますけど」
青い薔薇を造るのが難しいことはよく知られていた事実だし、有機物に含まれる青の色素は完璧な【蒼】を作り出すには向いていないこともミズチは知っている。ちょっと遺伝子をいじくっただけでは、せいぜい薄紫色だったり、勿忘草色のような程度に収まってしまうことも。
「大体、その紅茶――ソレイユ君、適当なカップにいれてみて下さい」
「おっけー!」
「カップならこれが良いんじゃないかな!」
「これビーカーだけど、まあいいよねー! ありがとシキミ嬢!」
適当なカップどころか、その辺に置かれていたビーカーに紅茶を注ぎ始めたソレイユの手元を注視しながら、ミズチは膝に青い色のうさぎを乗せたシキミに「せめてカップを渡せよ」と苦言を呈することしかできなかった。
「このウサギめっちゃ青い」
「人の話は聞くもんスよ」
ウサギを構い倒しているシキミはミズチの話などこれっぽっちも聞いてはいない。
知り合った数分で人の話を聞かない少女だということは理解できたから、別に気にすることもなかったが。
ビーカーに注がれる紅茶は、普通の紅茶の色をしている。ティーカップの隣に並べられたビーカーと、カップの中身を見比べて、ミズチは「同じモンとは思えねースわ」と言うにとどまった。
「ほら、そこのシキミさんが淹れた紅茶は青くなるんですよ。不思議でしょ? だからといってコーヒーとか、牛乳とか、あるいはジュースとか……紅茶以外のものは青くならないんです」
「青い牛乳とかマジ勘弁って感じっスね」
「ですよね。他人には飲ませたいですけど、自分で飲むのは遠慮したいところです」
「えっ、僕はちょっとそれ飲んでみたい」
「今度絵の具入りの牛乳持ってってやるっスよ」
「そういうのはちょっといいや」
悪魔って腹壊すんスか、とつけたしたミズチに「壊さないかもだけど絵の具は飲みたくないかな」とソレイユは冷静に返し、「紅茶限定なんだね」とシキミに向き直った。
「青が好きで紅茶が好きだったから、たぶんこうなったんだと思うよ」
「ならねーよ」
当たり前のことを言うかのようだったシキミにそんなわけねえだろとミズチはため息をつき、「研究したとこで何かに役立ちますかね」とリピチアに視線を寄越す。リピチアはシキミが淹れた青い紅茶に角砂糖を二つ落とすと、躊躇いもなく口にして「あっ普通においしい」などとのんきに感想を漏らしていた。
「ホント? リピチアさん、それホント? おいしい?」
「うん。普通においしいですよシキミさん。色もなかなか個性的で良いんじゃないですかね」
「やったー! あのね、その色ね、私のすきな青に一番近い色なんだよね! 最近のマイブームな色! 前は人工塗料の蒼が好きだったから、その色を真似て淹れてたんだけど」
「そうなんですか。今回は何を真似て淹れてるんです?」
「最近よく行くマフィアのボスの目の色!」
「ぶっ!!」
勢いよく紅茶を吹き出したリピチアに「きったねえ」とミズチは顔をしかめ、「やっぱロクでもねえな」とネオンブルーの紅茶を見つめた。
***
ネオンブルーの紅茶だ。もの凄く紅茶らしくない色だ。
ネオンブルーだ。すごく見覚えのあるネオンブルーだ。
目の前に置かれたティーカップ、なみなみと注がれた紅茶の色にヨモは目を虚ろにして口元から笑いを漏らした。
目にいたいネオンブルーの紅茶。もはや紅茶とは呼べないような色の代物。そんなものを造ってしまう人間のことを、ヨモは一人しか知らない。
「なんでシキミは変なのとばっかりかち合うんだろ、類友? 類が友を呼んじゃってるの?」
「おや、シキミ嬢と知り合いなのか、モヨ嬢?」
「わりと友達ですね……」
「ほう。それなら君も類か友なのだろう。良かったな」
「遠回しに変人って言ってます?」
「友人か、仲良きことは佳きことかな」
「人の話、聞いてます?」
「君の友人のシキミ嬢程度には」
「つまりほとんど聞いてない……」
こんな男と類になるのはイヤだ、と心で強く叫びながら、ヨモはスケッチブックにさらさらと鉛筆を走らせた。
彼女が紙に鉛筆を走らせる度におぼろげだった紙の上の絵が、まるで画質をあげたかのようにクリアに、鮮明に形作られていく。
頭のとれかけた犬が横たわる絵を描ききったヨモに、「相変わらずのいい仕事ぶりだな」とレグルスは満足そうにスケッチブックをのぞき込んだ。
「死体専門なのが惜しいところか。もう少し一般的なモチーフを題材にしたのなら、君には俺以上に良いパトロンがついただろうにな」
「“理解されなきゃ芸術家、理解されたら大衆娯楽”――とか何とか言ってたのはあなただったでしょう、レグルスさん」
「ごもっとも。確かに俺はそう言った」
「私は芸術家でありたいんですよ。レグルスさんがマフィアであるように。大衆娯楽に落ちぶれようとは思わない」
「そうだろうとも。だからこそ俺は君の描く絵が好きだよ、モヨ嬢」
「ヨモですって」
「俺にとって大切なのは名前ではないよ、モヨ嬢。俺にとって君は“芸術家”であり、重要なのは君の描く絵だ。それが骸であろうとなかろうと、知ったことじゃない」
「相変わらず、頭の変な人ですよね」
画家のヨモとマフィアのボスのレグルスがしりあったのは、とてもじゃないが一般的とは言えない縁によるものだった。
たまたま薄暗い裏路地に「死んでいた」レグルスをスケッチしていたヨモに、「なかなか良い絵じゃないか」とレグルスが声をかけたのがきっかけで。
何故目の前で死んでいる男がもう一人いて、あまつさえ背後から声をかけてきたのかヨモにはわからなかったが、レグルスと言葉を交わすようになってよくわかった。
よくわからないのがレグルスという男であり、そこに理由は存在しないのだ。自分の死体を描いた絵をいたく気に入り、よりによって自室にそれを飾っているような男だ。ヨモにその男の気持ちは分からなかったし、その性格を知りたいとは思わない。
「レグルスさん」
「なんだ、モヨ嬢」
「腕を銃で撃ちとばされた絵が描きたい気分なんです」
「任せろ」
真っ黒なコートから真っ黒な拳銃を取り出し、銃口を迷うことなく自分の腕の付け根に当てて。
レグルスは躊躇わず引き金を引く。
耳障りな音がして、腕が吹っ飛んでいった。
***
鼠色の腕が吹っ飛んでいく。腕か吹っ飛んでいくと同時にまき散らされた緑色の液体に、スダチは露骨にイヤそうな顔をした。
画面の中のゾンビはうめきながら、くずおれながら、地に倒れる。
森の中の洋館に蠢く“歩き回る死体”を撃ちながら進むシューティングゲーム。
知り合いのおっさん司書、ユーレと二人でそれを遊んでいたスダチは、「ボクこういうのはあんまり好きじゃないかも」とゾンビを撃ち抜いた。また、緑色の液体が画面の中で飛び散っていく。
「好きじゃねェって言う割にはなかなか良いんじゃねェの、スダチちゃん」
「ユーレさんこそ、普通のゲームはからっきしなのにシューティングゲームばっかりなんか上手くない? 何やってもフルスコアじゃん」
「慣れてっからな……」
「へ?」
どこか疲れたような、自分を嘲ったような笑いを見せたユーレに「何、ゾンビハンターでもやってたの?」と半信半疑でスダチはたずねた。
画面の中のゾンビの群は、ユーレの的確な射撃でどんどんと数を減らしていく。画面外に潜んでいたはずのゾンビの頭すら撃ち抜いて、「リロードがめんどくせえな」と呟いたユーレの顔には、先ほどまでの疲れた雰囲気はない。
「ゾンビハンターはしてない。俺はスダチちゃんの知ってるとおり、ただの図書館司書だよ。昔、ハンティングしてたんだ。ウサギ狩りってやつかな」
「へー。ユーレさん、結構アグレッシブなんだ?」
「ま、そこそこに」
的であるゾンビの体には弾が当たるものの、腕であったり胴であったりとねらいがバラバラなスダチに対して、何故か射撃慣れをしているらしい図書館司書であるユーレは、的確に頭だけを打ち抜いていった。
スダチはときおり、知り合いの図書館司書であるユーレとこうしてゲームで遊ぶことがある。ユーレの方は娘に年頃が近いからとスダチのことをよく構っていたし、たまに娘関係の悩みの相談をスダチにすることもあった。
スダチからすればユーレは気のいいおじさんといったところで、見た目は若いが中身は年相応というか、下手するとちょっと親父臭いところもあるかなと思うこともある。ゲームで遊んでいても勝つのはだいたいスダチの方だったし、ハンデをつけてもユーレが勝つことはまれだった。
リズムゲームでは目も当てられなかったし、パズルゲームでは操作の仕方もあやふやなユーレが、唯一スダチを圧倒するのがシューティングゲームだ。
シューティングゲームではノーダメージ、常にフルスコアを叩き出すおっさん司書というのはなかなかに謎だ。
「ユーレさん、最近図書館に面白そうな本とか入った?」
「時計塔の内部の画集とかが入ってたかな。あとは今流行りの幻想小説。【clock work】は聞いたことあるだろ」
「……!! それ読みたかったやつだ! 時計塔の話!」
「読みたいから入れろってリクエストが多かったんだよ。【clock work】が人気だったからって時計塔の画集もついでに」
「わー!! 何それ! わー!! すごい気が利いてるじゃん! なかなかやるねあの図書館!」
「利用者あっての図書館だからなァ……」
俺の娘が使ってた頃には推理小説ばっかり入ってたかな、と昔を懐かしむような目をして、やはりユーレはグロいゾンビを撃ち抜いた。エリアボスだったらしいそのゾンビは遠慮も斟酌もないユーレの射撃にあっさりとやられ、ゲーム機の画面には「clear!」の文字が踊る。
「娘さんってボクよりちょっと年下じゃなかった? 推理小説とか読んでたんだ。父親の影響って奴かあ」
「ん? まあ、そんなとこなんだろうな……歳はまだギリギリで未成年だったと思う」
「娘の歳くらい把握しときなよ……」
そんなだから誕生日を間違えて怒られるんだよとユーレを半眼で睨みつけたスダチに、「あれは本当にしくじったよ」と困り切った顔の父親はため息をつく。
「一週間くらい口を利いてくれなかった」
「一週間ならまだ良心的じゃない?」
「そんなもんかなあ。今でもたまになじられる……」
「結構根に持つタイプなんだね」
まあそんなところが可愛いんだけど、と娘バカを発揮したおっさん司書に「そんなに可愛い娘ならなおさら覚えててあげればいいのに」とスダチは呆れたようにため息をついて、「もっかいやろ!」とゲーム機にコインを入れると、迫り来るゾンビに向かって銃を構えた。
***
銃を構えたユーレに、ベータは目を輝かせる。
至近距離で見る本物の銃は、やっぱりモデルガンなんかとは全然違う、と恍惚のため息をついて「少し触らせて下さい……!」と一番手近にあったショットガンに手を伸ばしたのだが。
「これはお嬢さんが持つようなもんじゃねェよ」
笑顔でいなされて、ベータは手を引っ込めた。
弾が込められていない銃に殺傷能力がないのはユーレも知っているはずだ。ベータが触ったところで起こる危険は、せいぜい足に落として怪我をするだとか、その程度なのに。
「銃なんて人殺しの道具はな、持った時点で人殺しなんだよ。遠くから見るか……モデルガンを持ってるか、くらいでちょうど良いんだ」
カウンターの上にずらりと並べられているのは、ユーレのかつての“相棒”たちだ。スナイパーライフル、機関銃、ショットガンにピストル。グレネードランチャーに火炎放射器なんかもあった。ありとあらゆる銃火器が並べられているその様相は、ちょっとした武器屋のようだ。ただし、そのどれにも埃がかぶっていた。まるで、もう使われないことが決まったかのように。
「もう、使わないんですか」
「使うときが来ないことを願ってるから、手入れもほとんどしてねェの。俺がこいつらを使うときが来るのは……そうだな、俺の知り合いがマズい目に遭ってる時だな」
「昔、すごいスナイパーだったって聞きました。他の追随を許さない狙撃手だったって」
武器マニアのベータと、かつて名を馳せた狙撃手だったユーレとを引き合わせたのは、ひとりの【情報屋】の男だった。
ネオンブルーの瞳に底の知れない雰囲気を漂わせた、食えない男。
名乗ることはしなかった情報屋だが、最初にユーレと顔を合わせた時に情報屋の容姿を伝えれば、「あの野郎」と低く唸られて、ベータは戸惑ったものだ。
「昔の話だよ。あん時ゃ腕も落ちてるし、歳をくったから視力も落ちてんだろ、多分」
かけていた眼鏡をちょっと指で押し上げて、ユーレはつ、と手にしていたライフルを指でなぞった。銃に対する愛着と敬意と、それから何か悲しいものが混じったような、そんな顔をして。
「お嬢さん」
「はい」
「武器に興味を持つのは構わねえよ。知的好奇心を満たすのは悪いことじゃない。“限度さえ間違わなければ”な」
一歩間違えれば俺の娘みたいになるぜ、とユーレは少し離れたところでソファに座っていたニルチェニアを指さす。失礼ね、とニルチェニアは薄く笑って、「知的好奇心を満たすのは人生において何よりも甘美な幸せよ」と甘い笑みを浮かべる。
「――そのために捨てなきゃいけないものも、たくさんあるけれど」
ソファからゆらりと立ち上がり、ニルチェニアはカウンターの前に立つベータの隣へと並ぶ。軽い手つきでピストルを手にとって「こういうこと」とその銃口をニルチェニア自身のこめかみへと当てた。
弾が入っていないのは知っているが、それでも肝が冷える。普段は姉のように優しく接してくるニルチェニアが、唐突にそんな行動をとったことにベータは思わず声を上げてしまう。
一方でユーレは無言だったけれど、顔だけはどこまでも渋い。
「何かを知るときはね、何かを知った後の代償を払わされることもあるの。貴女が引いた引き金が、貴女が向けた銃口が、今度は貴女自身に向くこともある……」
お父さんはそれを心配しているのだわ、とニルチェニアはカウンターにピストルを戻した。がつん、と重い音を立てたピストルがいやに恐ろしいものに見えた。
「だから、お父さんは……ユーレさんは貴女に触って欲しくはないのよ。意地悪じゃないの。解って貰えるかしら?」
「えっと……なんとなく、ですけど」
ちょっと困った顔をしたニルチェニアにベータはそう返して、カウンターに並べられている銃を見つめる。
埃をかぶっている方が、確かにずっと良い気がした。
「ごめんな、何か見せびらかして終了、みたいな感じでさ」
「いえ……! 私がどうしても見たいってねだったんですし」
「お父さんもお父さんよ。申し訳ないと思うならそもそも見せるべきじゃないの。私を娘に持っておいて、知的好奇心の恐ろしさを知らないなんて言わせませんからね」
「それ、自分で言うのかよ……」
呆れたような、不服そうな声を漏らしたユーレに、ベータはちょっとだけ笑った。
確かに、こんな家族の住む家には、銃なんてない方がいいだろう。
「全く。こんな父親はおいておいて、劇でも見に行きましょうか、ベータさん。ちょうど私の友人が出演している劇があるの」
「そうなんですか! わ、ちょっと見てみたい!」
「じゃあ決まりね。お父さん、少し出てくるわ」
「俺も連れてけよ!」
その前にカウンターの上のそれをかたづけてちょうだい。
いつものとおりに父親に冷たいニルチェニアを見ながら、ベータはニルチェニアとともに出かける支度へととりかかった。