「歯ァ食いしばれ」
「歯ァ食いしばれ」
「……食いしばる時間も与えずに殴るのはどうかと思うがな」

 全く、と殴られた頬を撫でながら、黒髪の男はやれやれとわざとらしく肩をすくめた。
 殴った方の女はそれを気にすることもなく――今度は男の黒いシャツの襟元を鷲掴みにすると、鼻先が触れ合いそうな近さで「食いしばる歯もなくしてあげましょうか?」と吐き捨てる。

「イイな、この距離の近さ。少しかがめばお前に口付けることも出来そうだ」
「それなら床にどーぞ」

 気持ち悪、と蔑んだ瞳でそうねめつけたリピチアは、黒髪の男の襟元から手を離すと、ヒールのついたブーツでぐりぐりとその足を踏みにじった。

「床にキスしたらお前の唇は奪えるか?」
「床と間接キスなんてしたいと思います?」

 大まじめな男に不機嫌丸出しでリピチアが答えれば――確かに、と男は愉快そうに笑った。


***


「歯ァ食いしばれ、レグルス」
「血は争えないというが、よく言ったもんだな」

 お前の従姉妹も、昔同じことを言ったよ、と黒髪の男は愉快そうに口元をゆるめる。

 でも、歯を食いしばる時間をくれただけましか。そう小さく呟いて、黒髪の男は切れた口端に滲んだ血を舐めとった。
 殴った方の男――ユーレは、笑うでもなく、かといって憎悪をむき出しにするでもなく――ただ、強い怒りのこもった瞳で黒髪の男を睨みつける。

 憎悪をむき出しにしてくれた方がまだやりやすいのにな、と黒髪の男はネオンブルーの派手な瞳をゆったりと細め、「そう怒るなよ」と口先だけで笑う。

「俺はあの子に“父親を救いたいなら”と前置いて、自分の要望を語っただけさ。動くかどうかを決めたのは他ならないお前の娘自身だ」
「選択肢を与えるってことが、他の選択肢を奪うことだとお前は知ってて言ったんだろ」
「どうかな。――そうかもしれないな」
「――俺が生きても、あいつが死んだんじゃ意味ねェんだよ」
「俺が死ねと言ったところで、死ぬような娘ではないと思うがな」

 そのうち帰ってくるだろうよ、と他人事のように笑った男を――ユーレはもう一度殴りつけた。

 棺に収められ、吐息もこぼさなくなってしまったあの娘が――帰ってくるとは思えなかったから。


***


「ニルチェニア」

 銀髪が美しい医師の男は、白い棺に収められている娘の頬をぱしぱしと何度か叩いた。
 死んだように眠っている娘の顔は、人形のように美しい。血の気のない頬のせいで本物の人形かと見間違うばかりだが――生きている。

「永遠に眠りたくないなら起きなさい」

 精巧な装飾の為された棺から姪を抱き上げ、億劫そうにソファーに転がした医師は、「お芝居の時間は終わりですよ」ともう一度だけ頬を叩いた。
 軽くはあっても叩かれ続けた頬は、そのせいかほんのりと赤くなっている。

 薬が強すぎたのだろうかと一瞬考えて――自分が失敗するはずはないと確信した男は、ゆっくりとあけられた娘の紫の瞳にやはり、と特に驚くでもなく。

「ニルチェニア、起きるのが遅すぎます。君は後少しで立派に火葬されるところだったんですよ」
「あら」
「あら、ではありません。“姪との最期の時間をもう少し過ごしたい”などと見え透いた嘘を僕が言わねば、今頃は骨と化しているでしょうね」
「それはお手間をお掛けしましたわ、ソルセリル叔父様」

 棺が余りにも寝心地が良いのです、と眠そうに笑って、ニルチェニアはゆっくりと伸びをした。

「仮死状態に陥る薬――大変に眠くなりますね」
「眠りとは死に通ずるものがありますからね。――それより早く、あの男の元に帰りなさい。今頃、大暴れでしょうからね」
「そうさせて頂きます」

 それではまた、とスカートを摘み、貴婦人のような礼をした姪に「次はありませんよ」と素っ気なく返し――ソルセリルは姪の後ろ姿を見送った。

 しばらくしたら、きっと黒髪の男がボロボロになってくるだろう。そうしたら、治療費を迷惑料込みでたっぷり取ってやるのが良い。

 


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