コールタールの夜、アスファルトの星2
「情報屋のお二人には聞きたいことがあってね。少々手荒ながらここへ招待させていただいたんだが――」

 部屋の居心地はどうかね、と白髪交じりの男が優しく笑う。ただし、目だけは笑っていない。
 見覚えのある顔だなと東は記憶をさらった。たしか、どこかの組織の幹部だったか。見た目は知的なのに実際は武闘派の筆頭だったはずだ。女遊びも激しかったと記憶している。

 東はちらりと隣に転がっている女を見やった。まるで死体かのようにフィアールカはぴくりともしていない。
 元から白い肌だというのに、無機質な蛍光灯の光が当たるせいで、顔色がいっそう悪く見えた。

「そちらのお嬢さんはまだ目覚めないのかね」
「俺たちに相当強い薬を嗅がせたでしょう?」
「それもそうか。――おい!」

 床に転がったままのフィアールカと東を見下ろしていた初老の男は、後ろに控えた黒服二人に視線だけで何かを命じる。
 は、と短く答えて一度席を外した男の一人が、少ししてから青いバケツを持ってきた。

 何をするのかと東が問うよりも前に、バケツの中身を勢いよくフィアールカに浴びせる。飛び散った水しぶきは東の顔も濡らした。

「安心したまえよ、ただの水さ。――しかし、随分なお嬢さんだな。まだ起きないのか。君も少し目を覚ましてみるかい」

 大きなお世話だと言う間もなく、笑い声と共にバケツで水をかけられた東は、小さく舌打ちをして口に入った水を吐き出した。フィアールカは、全身がくまなく水浸しになった頃にようやっと目覚めた――ふりをする。
 ごほごほとむせたあとに事態が把握できていないような顔をして――それから縛られている自分に驚いてみせる。

 相変わらず演技が巧いなあ、と東は表情を崩さずに一連の流れをやってのけたフィアールカを見ていた。フィアールカの演技につき合うのは三回目だ。

「……冷た……ここ、は?」
「おはよう、“フィアールカ”。今日はお友達の青年と一緒に招待させて貰ったよ」

 ぐしょ濡れの女は一瞬だけ絶望的な顔をしてから――東を視界に入れて、「東さん!」と驚いた声を出す。もちろん演技だ。

「どうして君たち二人が呼ばれたのかはわかっているね? 君たちの知り合いのレグルスについて情報が欲しかったんだよ。手荒で申し訳ないが、協力してくれるだろう?」
「レグルスの……情報?」
「悪いけど、俺たち二人はレグルスさんについての情報なんてそう持ってないぞ。知ってるだろ、あの人について集めた情報なんてアテにならないってこと」
「知っているとも。だから個人的にあの若造と話したことのある二人を呼んだのさ」

 顔や背格好くらいは分かっているだろう、と続けた初老の男に、それしか分からないわとフィアールカは呟いた。しおらしくみえるが――それも演技だろう。分かっている。

「本当にあの人……レグルスは訳が分からないの。どの情報が正しいのかも分からないわ。……だから、“情報屋”としてはそんな不安定な情報、売りたくないの。信用問題ですから」
「それは結構な理由だね、フィアールカ。だがよく考えてくれないか。誰が“買う”と言った?」

 え? と東の隣でフィアールカが間抜けな声を出す。
 つかつかと初老の男はフィアールカに近寄ると、床に転がったフィアールカの髪をひっつかみ、頭をぐい、と持ち上げた。髪を引かれる痛みに、ほんの少しフィアールカが顔をしかめる。

「残念だがフィアールカ、これはビジネスじゃないんだよ。分かるかい? 売買が成立するのは、“お互いが同じ立場に居てこそ”だ。お嬢さん、君は今床で寝そべるしかない。対して私は無抵抗な君の喉笛をかき切ることも出来る……」

 ぐっしょりと水で濡れ、張り付いてしまっている白いワンピースの襟元を押し下げながら、男はフィアールカの白い首筋をすっと人差し指でなで上げた。
 フィアールカがくっと息を詰めたのは、東の気のせいではない。今までになくまずい状況なのだと思わざるを得なかった。

「待てよ、彼女を殺してもレグルスさんの情報は得られないぞ。俺より彼女の方があの人に詳しい」
「ほう?」
「俺は酒場であの人に声をかけられた程度だからな。その点、彼女の方はもっと俺よりあの人と話してるし、あの人と多く時間を過ごしてる」
「つまり?」
「彼女を殺すのは貴方にとって不利だということだ。レグルス・イリチオーネの情報を得たいのなら、尚更」

 もちろん、と初老の男はフィアールカの髪を掴んでいた手をぱっと放す。

「殺そうとは思っていないよ、最初からね」

 人質は無事でこそ意味がある――。
 淀んだ笑みを浮かべた男に、フィアールカがひっ、と小さくうめいた。

「それにしても彼女を庇うとはね。商売敵はここで殺しておいた方が後々に楽なんじゃないかね、東くん。同じ“情報”を売り物にする者として、邪魔だと思ったことはないのかい?」
「今のところは無いな」
「良かったね、お嬢さん。ご友人に感謝したまえ」

 ずぶ濡れで縛り上げられた状態の女は、濡れた床に頬をつけてむせている。
 どこまでが演技なのか、東には分からなくなってきていた。

 ごほごほと忙しくむせては、時折思い出したようにか細く息を吸う。
 もはや話すどころではないフィアールカを見咎めてか、「喘息持ちかい」と初老の男はいぶかしんだ。
 フィアールカは弱々しく首を振ると、「縄と床」と口にする。

 首筋に濡れて張り付いた白い髪が、妙に艶めかしかった。

「ねえ、もし貴方が紳士なら……」

 ねだるような響きとともに紡がれる言葉には、聞き覚えがある。東が何回も聞いてきたフィアールカの“おねだり”は、今回もまた使われるらしかった。最初に彼女とともにさらわれたときはこの“おねだり”に居心地が悪くなったりしたものの――三回目にもなると慣れてくる。

「せめて、体をおこして貰えないかしら……うつ伏せは、ね?」

 潰れてしまって、むねがくるしいの。
 最高に甘えた響きのそれが、きちんと演技なのだと東は知っていたが――どうも、言葉選びが直接的な気もした。

 ぐしょ濡れな女が抵抗できるはずはないとたかをくくったのか、それならと男が体を起こしてやれば、フィアールカはふう、と息をついて壁にもたれかかる。濡れてしまった白いワンピースは、所々フィアールカの肌の色を透かしながら、体の線を浮き上がらせるように張り付いている。
 思わず目をそらしてしまった東とは裏腹に、そんなフィアールカを上から下まで眺め回したのは初老の男だ。女好きという情報に違わぬ視線に、ユーレさんが知ったらただじゃすまないだろうな――と考えるほかない。

「すまないね、手荒な扱いをして」
「いいえ……もう一つお願いをしても良いかしら――駄目なら駄目でかまわないのよ、でも、今は丸腰だもの」
「言ってみたまえ」

 ちょっと躊躇うように目を伏せたあと、フィアールカはねだるように上目遣いで菫色の瞳を男に向ける。

「手の縄だけ、とって貰えないかしら……それから、濡れたままは恥ずかしいから、何かお借りしたいわ。あの人の情報なら、それからお話しします。どこまで正確に話せるかは分からないけれど」
「……まあ、そんな格好ではどこへとも行けないだろうしな。足は取らずとも良いのだね」
「逃げられては大変でしょう?」

 妥協したのだというポーズを見せて、フィアールカは望み通りの待遇を得た。腕の縄を取り払ってもらい、厚いバスタオルを体に身につけたフィアールカは、「そんなにあの人に会いたいの?」と初老の男に目を向ける。

「会いたい訳じゃないさ。この手で始末してやりたいだけでね」
「そうなの。――じゃあ、会わせてやろう」

 にたりと笑ったフィアールカの目が、まるでネオンライトのような鮮やかすぎるブルーに染まったのを――東は信じられない顔で見ていた。


***


「ほんとにここ屋敷かよ、迷路みたいな作りしてんな」

 二手に分かれてしまった道を見ながら、ユーレは呆れたように呟いている。鎖砂は「面倒だよねえ」と言いつつも先ほどからにやにや笑いを消すようなことはしていない。

「二手に分かれたときは俺たちも二手に分かれるべきだと思うが――どうするよ、今回の現場責任者兼、どうせ今回も諸悪の根元のレグルスさん?」
「ああユーレ、お前は友人の俺をそんな風に思っていたのか」
「友人の覚えはないからやめてくれ、お前と親交があると思われたら俺の人間性が疑われる」
「えっ何、ユーレとレグルスって友達じゃないの?」
「冗談キツいぜ、サスナちゃん」

 そんなのは真っ平ごめんだとユーレは吐き捨てて、どうするんだよ、とレグルスのすねを軽く蹴る。友人だと思っていた奴に裏切られるだなんて人生最悪の日だ――と大仰に、そして無表情に嘆いてみせてから、レグルスは目を細めて答えた。そこに少しの愉悦が見え隠れするのに気づくものはいない。

「“二手に分かれる”のはあまり得意じゃなくてな……まあ間違いなく左の道を行けば東君に会える」
「根拠は?」
「全ての道はありとあらゆる場所に繋がるんだよ、ユーレ。遠回りしようがショートカットしようとな。俺は問題の部屋に泳いで行くことも出来るし、このまま向かうことも出来る……つまりはそういうことさ」
「つまり右でも左でも構わないんだろ。お前に聞いた俺が馬鹿だった。くそ、こんなことしてる間にニルチェに何かあったらお前の首切り落として土の中に埋めてやるからな」
「安心しろよ、ニルチェニアは“絶対に傷つかない”」

 自信満々にそう言い切ったレグルスに、ユーレは妙な顔をする。

「――どういう意味だ?」
「本当に“それ”、ニルチェニアだったか確かめたのか、ユーレ?」


*** 


「良かったな、どこの誰とも分からぬ初老の爺よ」
「――な、どういう……?」

 目を青く光らせたフィアールカがバスタオルを黒服の男相手に投げつけたときには、フィアールカが立っていた場所には黒いコートの青年――レグルスが悠々と立っていた。銀に黒を混ぜたような髪からは水がしたたり落ちていたし、黒いコートは上から下までぐっしょりと濡れている。だが、なぜ?

「あの本物の“フィアールカ”だったらまず手の縄をとらせてから言葉巧みに足の縄も取らせていただろうし、お前の股ぐらにキツい一発をお見舞いしていただろうな。みっともなく前屈みにうずくまることにならなかった幸運に感謝しろよ。勿論、俺を拝み倒してくれて構わない」
「お前は……?」
「あァ、自己紹介が遅れたな。俺は“ドン・ルポーネ”って呼ばれてる……あんたが会いたくてたまらなかった、レグルス・イリチオーネさ。――やあ東君。最後にあったのは酒場以来だな。元気にしていたか? その様子を見るとすこぶる元気とは言えないようだが」
「誰のせいだと……というか、何でレグルスさん……?」
「俺の知り合いの可愛い娘だと勘違いして、俺を庇ってくれた東君にひとつ情報をやろう。いやあ、中々格好良かった。俺、手品大得意なんだよ。種も仕掛けもないやつ」
「……は?」
「日本には忍者がいるよな。俺、忍者は結構好きだ。腹切りの次の次の次くらいに。分身出来るところとか、特にな」

 微笑むこともなくそう言ってのけ、レグルスはあっさりと足を縛られたまま黒服の二人を蹴飛ばした。勢いをつけて逆立ちをしながら両足で正確に人の顔を蹴り飛ばす人間をみる事なんて、そうそう無いに違いない。まるでマジックでも見ているようだった。

「つまり、何なんだ……?」
「俺はイタリア人だがな、あえてナポレオンの言葉を引用してみようと思う。“我輩の辞書に不可能はない”。俺がよく使う伊和辞典には“不可能”は載っていたが」

 何が言いたいのか全く分からず、放つ言葉は支離滅裂――先ほどまでのフィアールカがレグルスの変装か何かだったのだろうとはギリギリで納得できた。それから、目の前にいるレグルスがレグルス以外の何者でもないだろうということも。支離滅裂という言葉が服を着て歩いているような男が他にいるわけがない。いられても困る。

「絡みつかれるなら、縄じゃなくて美人にお願いしたいものだな」

 黒服二人を怒濤の早さでなぎ倒し、隠し持っていたらしいナイフで足の縄を切ったレグルスは、東を無理矢理起こすと手早く縄を切っていく。

「あの、まだ後ろに銃を構えてる人がいるんですけど――」
「問題ない。どうせすぐに俺が来るよ」

 縄を切り終えたレグルスは、そのまま東を突き飛ばし――

 ドン、と。

 初老の男が撃った銃弾にあたり、倒れた。

「放っておけば、訳の分からないことをグダグダと……ここでお前も終わりだな、レグルス――ッ!?」
「――自分の死に目にあえるなんて最高だな、倒錯的だ」

 ドン、と。

 蹴破られたドアとともに、銃を持った男は吹っ飛んでいく。
 現状の認識が追いついていない東に、ドアを蹴り破った黒コートの男が無表情で声をかけた。ドアと一緒に蹴られた男は、背中から壁にぶち当たり――むせている。

「やあ、東君。最後にあったのは今以来だな」
「あ、どうも……?」
「生きてるー?」

 何事もなかったかのように話しかけてくるレグルスの後ろから、ひょこりと顔をのぞかせた鎖砂。よく知った少女の顔に、今見ている光景が夢ではないことを東は実感する。突き飛ばされたときに打った尻が痛かった。

「――主演男優賞モノの演技だったろう?」
「……フィアールカさんはもう少し慎み深いと思いますよ。それから多分、貴方を“レグルス”とは呼ばない」
「ほお。……今後の参考までに聞いておこうか。そういえば“レグルスさん”だったな――トチった」

 レグルスはほんの少しだけ唇の端を持ち上げた。巻き込まれた仕返しにと東が少々意地悪を言ったのを理解したのかどうなのか――。それはきっと、レグルスにしかわからない。

「さ、それじゃあ目的も達成したことだし、帰るか」
「帰るって、このままで?」

 東の問いにレグルスは「後始末は俺がしよう」と真面目ぶって答え――「自分のケツくらい自分でふけよ」と妙に怒ったユーレがその頭を容赦なく叩く。

「じゃあユーレ、青年少女の引率は任せた」
「東さんがいたからついてきてやったけどな、お前俺まで騙したこと忘れるなよ。人の娘の姿まで借りやがって」
「減るものじゃないだろうに」

 さっさと行けよ、とひらひらと手を振り、鎖砂に東、ユーレを体よく部屋から追い出したレグルスは、部屋の隅で動き回る死体でも見ているかのような目の初老の男ににっこりと笑いかけた。

「――冥土のみやげに良いことを教えてやろう。俺は生憎“人でなし”でね。――ありとあらゆるものを“分析”し、“分解”し、“構築”出来るんだ。……ところでお前の顔を“分解”してそこに俺の顔を“構築”したらどうなるんだろうな?」

 こつん、こつん、と革靴を響かせて歩み寄る黒コートの男の姿を、武闘派で知られた男はまるで死神でも見るような目で見つめ――

「俺のために死んでくれ」

 悲鳴すら起こらなかった。


***


「レグルス、ピースピース」
「一度殺されてそのうえ男を姫抱っこする羽目になるとはな……人生最悪の日だ」
「なら下ろせ!」
「イヤだ」

 真顔でピースサインを作りながら鎖砂の持っている携帯のレンズに視線を向けているレグルスは、暴れる東を平然とした顔で“お姫様抱っこ”していた。
 何で俺こんなところにいるんだろう――そう思いながらもユーレはその場から離れられなかった。もうしばらくしたらあのしょうもない男の頭を殴らなくてはいけないからだ。このままでは誰もレグルスを止めやしないだろう。

「ところでレグルス、“後片付け”はどうしたんだ?」
「東君の知り合いに“ご馳走がある”と連絡してもらったし――爺の方は簀巻きにして捨てに行くよ。丁度、一緒に捨てに行ってくれそうなアテもあるし。……ところで東君、星を見に行かないか?」
「それが“真夜中に死体を遺棄しに行こう”って意味ならお断りです」
「残念だ、たった今アテがなくなった」
「そりゃ何よりだ」

 あんまり他人様を巻き込むんじゃありません――とユーレはため息をつきながら、レグルスの隣にピースサインを作りながら並ぶ。

「鎖砂さん、俺も記念写真」
「案外ユーレも楽しんでるよねえ」
「ユーレさんはまともだと思ってたのに!」

 けらけらと笑いながら撮られた写真が、後々に各の携帯に送られることになるのは――そう遠くない未来の話だ。
 


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