境界の境目

「ふわあ」

 聞いている者のやる気を根こそぎ溶かしてしまうような間抜けな声がして、ヘンズは思わずつんのめった。続いて、がこっという重たげな音が聞こえてくる。

 ――何だ、今の間抜けな声は?

 妙に子供じみたというか、大学の構内ではあまり聞けないような子供っぽい声だった。思わずあたりを見渡して――一人の少女が地面に転がっているのが目に入った。丁度、ベースボールで走者が頭からベースに滑り込んだような、そんな格好だった。

 少女はどうやら何もないところで転んだらしい。散らばった画材道具が重たくてバランスを崩したのだろうか――なんとなくそんなことを考えていれば、転んだ少女と目があった。ぱっちりとした目がこぼれそうな程に見開かれて、ヘンズは一瞬身構える。 
 いったぁい、とのんびりした声を出しながらも、少女はじっとヘンズを見ている。否、凝視していた。
 取り落としたらしい画材道具にもいっさいの注意を払うことなく――少女は丸い目をさらに丸くしてヘンズを見つめていたのだ。目をそらしたら何となく負けな気がして、ヘンズも黙って少女を見続けていた。

「……助けろって?」

 一向に変わらない事態。どうすりゃいいんだよと口のなかてつぶやけば、目の前の少女は何故かにっこりと笑った。

 ――――助けろってことで間違ってない、のか?

 凝視されているのに気まずく思いながらも、ヘンズは仕方なく少女に近寄って手を差しだし――

「すばらしいっ!」

 謎の力強い包容をうけた。左腕に。

「おっ……おい!」
「いいねー、いいなー、この腕! 筋肉の付きかたも理想的だし、長さも丁度良いかも! 何より骨が良いなあ」
「はっ……?」
「何かスポーツでもしてるのかな――。だとしたら相当ハードなスポーツだろうけれど……」

 恍惚とした顔でうっとりと腕にほおずりする少女を目の前に、ヘンズは今度こそドン引いた。
 ムカデが腕についてしまったときのように、ぶんぶんと腕を振り、少女を引きはがそうとしたのに。

 残念なことに、少女は剥がれなかった――。


***


「っていうのが私とヘンズさんのなれそめー?」
「何で疑問系なんだよ」
「馴れ初めの意味をよくわかっていないからー!」
「リー、お前本ッ当に色々大丈夫なのかよ、起きてるか?」
「毎日夢見心地ですけど、生きてます! ――あ、ちがう、起きてます!」

 えへ! とやはり見ているものの毒気やらやる気やらを根こそぎ奪うようなのほほんとした笑みだ。
 少女――リーのこういうところが本当に狡いとヘンズは思う。やたらめったら引きはがせなくなってしまうから。もっとも、リーも簡単に引きはがされようとはしてくれないだろうが。

 もはや恒例となってしまった「腕への頬摺り」を、ヘンズがあきらめて受け入れることにしてから、おそらく三ヶ月は経った気もする。毎日会う度に頬摺りされていれば、三ヶ月もたった頃には諦めもついてくる。

「仲が良いんだな、二人とも……!!」
「一般的なおつきあいの範囲よ、クラウスさん? ヘンズさんはお友達、わかる? おーとーもーだーちー!」
「腕に頬摺りするのを……一般的……しかも友人とは言わないんだぞ、リー……!」
「クラウスさんめんどくさーい」
「……なっ、そんなことはない!」

 拳を握りしめたまま、その拳をぷるぷると震わせている強面の男性がどこの誰なのか、ヘンズは全く知らない。
 クラウスという名であるのも初めて知った。
 ただ、顔をつきあわせて話してしまっている以上、今更「あなた誰ですか」とは聞けない。

「おっ……俺はな、娘みたいなお前を案じてだな」
「わたし、クラウスさんをお父さんだと思ったことはないよー?」
「うっ」

 なにいってんのー? と間延びした声でざくざくと刺さっていく言葉を、ヘンズは見ていることしかできない。面倒くさい展開に転がりそうなものなら断固阻止しただろうが、見たところ、クラウスとやらもリーも、面倒くさい方向に話を持っていく気はなさそうだった。

「いやあの、マジな話、恋人じゃねえから……」
「そうだよー? 私、ヘンズさんの腕は好きだけどそれ以外は普通」
「リー……それはそれで失礼に当たるからやめなさい」
「嫌いな訳じゃないし、良いと思うのー。うふふ……ほんとに、自分のものにしちゃいたいくらいの腕だよねえ」

 ふふ、と口先で妖しく笑ったリーの目に、ヘンズは薄ら暗いものを感じる。それはヘンズのような人間にしかないはずの“暗さ”だ。
 何でこんな女が、とつい顔を険しくしてしまったヘンズに、「こわいかおをしてるのね」とリーが気の抜ける笑みを向けてきた。


***


 ずる、ずる――。

 何か重い砂袋でも引きずるような音がしたのを、ハンザーの耳はよくとらえていた。運よく行けば今夜の獲物にありつけるかもとハンザーは暗闇に身を隠し、音のするものが通り過ぎるのを道の角で待つ。

 今夜はといえば月が特別綺麗なわけでも、星が殊更に煌めくような夜でもない。至って普通の、月と星の出ている夜だった。

 ――早く来ねえかな。

 ヘンズは時折 「ハンザー」として夜の街を飛び回ることがあった。「ハンザー」……それはヘンズであり、ヘンズではない“殺人鬼”としての一面だ。
 禍々しく鋭い鉤爪を得物に、夜道を行く者を切り裂く殺人鬼――。ハンザーは犠牲者の悲鳴を餌に、どんどんとその行為を肥大させていった。餓えた狼のように獲物に食らいつく様は、彼の犠牲となるその瞬間まで――誰も見ることは出来ない。

 ずざ――ずる……。

 一瞬、時が止まったような感覚がハンザーを支配した。
 物陰から音の発生源を見届けようとしていたハンザーの目は、一度だけ大きく見開かれる。

 砂袋のような音を立てていたのはあろうことか成人男性で、月に照らされたその頭は大きく陥没し――顔の半分をべっとりとした血が覆っている。
 撲殺か、と心の中だけで呟いた。

 問題だったのは死体の状態ではない。ハンザーにとっては死体とは、生きている人間より余程“親しい”ものだから。

 ただ、ひきずっていた人間に心当たりと見覚えが有りすぎたのだ。
 長い黒髪を縛ることもなく、ただうしろに流しただけの髪型も、小柄な体型も、のほほんとした顔立ちも――。

 自分に、詳しくは自分の腕に頬摺りをしてくる“リー・ヘイリー”のもので間違いがなかった。
 面倒くさそうに、おっくうそうに男を引きずるその姿は、月明かりに照らされて奇妙な空気をつくりだしていた。

 マジかよ、と口には出さずにハンザーは呟く。ギャップありすぎだろ、とまで考えてしまう。
 あれだけのほほんとした少女だったのに――。

 通りであれだけ暗い目をしたはずだと納得できた頃には、リーはゆったりと男をいずこかに引きずっていった後だった。

「――あー、次の探すか……」

 さすがに今のリーを手に掛けるような気にはなれず、ハンザーはまた夜の闇へと身を投じる。

 彼と彼女の行くさきを見届けたのは、月の光だけだった。 
 


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bkm


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