「聖職者がこんなところで油売ってて良いのかい」
「――うん? ああ、俺か。大丈夫、見た目だけだから」
実際は聖職者でも何でもない――と赤いカクテルの入ったグラスを傾けながら、銀髪の青年は愉快そうに口元に弧を描く。
落ち着いた雰囲気――にはほど遠く、店内はジャズや男たちの豪快な笑い声、または別れ話がもつれでもしたのか、女の泣き声と男の困り果てたようなうなり声が喧噪を作り上げている。
バーというよりもっと俗っぽい場所だなあ、と銀髪の青年はぱかぱかとグラスをあけていく。どう考えても速いペースに、店主の男が「飲み過ぎじゃないかね」と気遣わしげな声をかけた。カクテルは浴びるように飲むべきものではない。ついでに、店の中で急性アルコール中毒で倒れられても困る。
カクテルを頼む前はワインやウィスキーを行ったり来たりしていた銀髪の青年は、それでも酔うことなく涼しい顔をしていた。ザルにしたって編み目が粗すぎるのだろうし、そもそもザルと言うよりワクなのかもしれない。
「酒は百薬の長、っていうだろ? 飲み過ぎる、ってことはねえよ」
「薬にも使用限度があるがねえ。その歳で立派なアル中なんて笑えないぞ」
「店主がしみったれたこと言うなって。馬鹿な男が酒かっ喰らって大金落としたと思っときゃ良いんだよ。アンタは正当な方法で金を得る。俺は酒を飲んで上機嫌。――素晴らしい!」
けらけらと笑いながら機嫌良さそうに「同じものをくれ」と銀髪の青年は酒を要求した。はいよ、と店主の男は返してから、「聖職者じゃないなら何でそんな格好をしているんだい」と銀髪の青年に問いかけた。
「趣味」
「はあ?」
「――ってのは嘘。特に理由はないよ」
にこりと目を細めた聖職者風の格好の青年は、店主から酒を貰うとカクテルグラスのふちを人差し指でつっとなぞる。
夜の町でも目を引く白いコートには金の刺繍が品よくあしらわれていたし、青年の言動に反してきっちりとしたシャツ、ベスト、スラックスはやはり白で統一されていていっそ堅苦しい。
この国でそんな格好をする人間がいたとしたら、聖職者かどこかの貴族くらいだから――もしかしたら、目の前の青年は貴族なのかもしれない、と店主の男は思う。
男にしては長い、胸のあたりまで伸ばされた銀髪は左耳の下あたりで一つに結われていて、そこに巻かれた藤色のリボンが青年を優男のように見せていた。実際、どこかの役者のように整った顔立ちをしている。言動からは想像つかないほど品のある顔は、青い目が少し甘さをにじませているし、全体的に優しげな顔立ちだ。
「まあ――強いて言うなら目印かな、俺はここにいるぞっていう」
「目印ねえ」
「もう一杯“カーディナル”をくれ」
「はいはい」
酔っていなさそうに見えて案外酔っていたのかと店主は納得した。目印とはいえ誰に見つけて貰う気だろうか。聖職者の格好をしていて見つけて貰いたい人がいるとすれば神だろうか。
しかし、神に見つけて貰いたいならこんなに騒々しい酒場には来ないだろうし、そもそも聖職者が“枢機卿”なんて名前の付いたカクテルを飲んでいるのはおかしいだろう。
「信じてねえだろ? ま、そのうちわかるさ……」
うわごとにしてはやけにはっきりと。
耳に刻まれるようだったその言葉の意味を、店主は数時間後に知ることとなった。
***
ハイド・ウォーデンは酒瓶を割り続けていた。
別に自棄を起こした訳ではないし、反社会的行為をしてみたくなったわけでもない。
放り投げた酒瓶はガラスが割れたとき独特の、がしゃんという騒々しい音を立てて割れて崩れていく。
あたりには灯火はなかったけれど、月の光を受けてきらきらと散っていくガラス片は星のようだった。
びちゃびちゃと地に落ちるのはアルコールだ。割れた瓶と同じように煌めいて宙に舞っては、ぱたぱたと雨のように降り注ぐ。
「――何なんだ、こいつらは……」
夜の闇に身を紛らわすように、真っ黒な人影がうねうねとうねりながらハイドを追いかけてくる。黒い人影は何体もいたけれど、そのどれもがどう見ても人ではなかったし、その見た目はまさしく影が動き出したようだった。顔だと思えるものはなく、まるで黒曜石から人を削りだしたような見た目のそれは、目もないのにハイドの方を正確に追ってきている。
ハイドの投げた酒瓶は、ねらい違わずにその中の一体の顔を強かに直撃した。ぐっと後ろに引っ張られるようにのけぞった頭が、次の瞬間にはどろりとした動きで緩やかにまた元の位置に戻る。生理的嫌悪感を抱くようなその動きは、人には不可能なものだ。人影が動くたびにずるり、だのねちょり、だの、気持ちの悪い音が夜の石畳の上を滑っていく。
ハイドが走り抜けているこの路地には、多くの酒場が建ち並んでいた。普段なら夜が更ければ更けるほど賑やかになるはずのこの場所が、今や死んだように静まっている。
――何故か。
理由は明白だった。ハイドの後ろにいる奴らが理由そのものだ。
ネトネトした油でできたような黒い人影は、急に現れて酒場の建ち並ぶ路地を震撼させた。ハイド自身、それを見た瞬間になにが起こったのかわからなくなったくらいだ。――否、“何がやってきたのか”わからなかった。
ずるりとした黒い人影は、まるで影を持つ人間の影に成り代わろうとするように人々に手を伸ばし、そのねとりとした体でどんどんと人を取り込んでいった。
とっさに酒場にいた人間たちを避難させることを実行し、ハイドは囮になるべく酒場に残り影の相手をしていたのだが。
いかんせん、数が多い。その上銃も利かなかった。撃ったところで何の効果もなかったのだ。
ハイドの正確な射撃は確かに影の頭を貫いたけれど、頭に開いた穴はすぐに塞がってしまった。コーヒーに角砂糖を落としたときのそれを、ゆっくりと再現したように。
人を取り込んでいたところをみるに触れてはならないのだろうからと距離を取るほかなく、出来ることは避難する人間たちから奴らを遠ざけることのみ。
そうして逃げ回るうちに、ハイドは酒場に取り付けられていたランプの光に影が怯えるような様子を見せることに気づき、熱と光に弱いのではないか、という推測を立てるに至った。
ならば手っ取り早く燃やしてやろうと、酒場町には腐るほどあるアルコールを拝借し――影たちを酒まみれにしている。
ただ、肝心の火種が見つからなかった。先ほどまで点々と存在していた灯りたちは、ハイドが気づいたときにはもうほとんど消えていた。それが何故なのかはわからない。
投げられる酒瓶がなくなった頃、ハイドは酒場のドアを蹴り開けて、何度目かになる酒瓶の調達を行った。申しわけないと思うものの、他にとれる方法はない。
真っ暗といっていい酒場に入り込み、中身の入った酒瓶を探す。
暗闇の中で冷たい瓶の堅い感触を指先に感じた瞬間、視界の端に橙色の点がぽつりと灯った。
壁際にぼんやりとした光とともにたっているのは――聖職者と貴族の格好を足して二で割ったような優男だ。
「――あちゃあ、まだいたのかよ。闇討ちしてやろうってランプまで消して回ったってのに」
参ったなこりゃ――と特に困った様子もない男が、煙草の煙を吐き出しながらハイドを見て片手をあげる。
「コンバンハ。――なんか急いでるな? 手洗いなら外へ出て左、火事場泥棒なら見逃すし、逃げる途中で迷ったんならすぐにここから出て行った方がいい……と言いたいところだが、どうやら火が必要らしいな?」
「は……?」
「軍人サンか。こんな夜までお疲れさまです、いやほんとに」
こんな時だというのにハイドはしばらく男を凝視してしまった。自分より何歳か年下にも見えるその男は、特にあわてるわけでもなく蛍のようにぼんやりと光を先に灯す煙草を旨そうに吸っている。
「煙草吸うか?」
「――いや、それどころじゃない!」
「だろうな。オニーサンの様子見てりゃわかるよ――ああ、酒の匂いがする。……結構酒ぶちまけてきたのか。補填が大変そうだけど、まあ良いよな」
人命救助、人命救助――と特に緊張感もなくのんびりとしている男は「じゃ、行こうぜ」と酒瓶を何本か手にとって外へふらりと出て行った。行くって――と声を詰まらせたハイドに、「なれてるから大丈夫」と男は白いコートを翻す。
「火なら幾らでもあるから、オニーサンには燃料の投下をお願いしたいな」
「……ああ、わかった」
奇妙な男だし、よくわからなかったが――とにかく、現状は理解しているのだろうとハイドは男の様子を見て確信した。纏う空気はひどくいい加減だけれど、その中には隠せない鋭さがある。ハイドと同じように経験があるものにしかわからないような――“手慣れた人間”のもつ空気だ。
「俺、“クルースニク”のニック。ミシェルでも良いぜ、適当に呼んでくれ」
「――クルースニク……」
クルースニク、とはこの国に一定数いるとされている吸血鬼専門の退治屋のようなものだとハイドは聞いたことがあった。同時に、その存在はおとぎ話のようなものだとも。
「そ。クルースニク。俺は吸血鬼専門じゃないけど、まあ売って戦う聖職者だとでも思ってくれよ」
「売って……?」
よくわからないことを呟いたクルースニクは、真っ暗な夜の中に白いコートをはためかせて走り出す。暗い闇の中では、その白はまるで目印のようだった。
――まるで、“俺はここにいる”とでも言うかのような。
「さァて、盛大な酒宴にしてやろうぜ!」
ヒュウ、と軽やかに吹き鳴らされた口笛。まるで宴会のような緊張感のなさにハイドは一瞬面食らって――にっ、と口元に笑みを浮かべた。
割り散らした酒の匂いに酔ったのか、それともこの非常識の塊のような男に乗せられたのか。
まず行動を起こしたのは「クルースニク」のニックだった。
躊躇うことなく黒い影につっこんで、抱えていた酒瓶を宙へと放り投げる。瓶が一番高く上がったところを見計らい、ハイドはそれを狙撃した。月の光を纏ったそれが、雨霰のように影に降り注ぐ。散った酒瓶を見て「すげーな!」と見た目だけなら聖職者のような男が笑い転げる。
笑い転げた拍子にぽろりと火のついた煙草が落ちた。「いっけね」とにやにやしながら、ニックはハイドのそばまで一息で駆け抜ける。煙草がアルコールの水溜まりに触れたとたん、ぱっとその場が明るくなった。バン、と大きな音ともに、熱風が一瞬だけ二人を包む。ハイドの服の裾も、ニックの長い髪も後ろに引っ張られるように夜にたなびいている。
「シャンパンタワーより絶景だな、こりゃ」
「……暢気だなあ、こんな時に」
アルコールに引火したせいで、酒をまともにかぶっていた黒い影はめらめらとその体を火に舐められていく。逃げまどうようにゆらゆらと揺れるその影は、まるで踊っているようだった。
美しい踊り子が踊るならまだしも、炎に包まれた怪物がどろどろと溶けながら踊るのは――悪夢みたいなカーニバルだったけれど。
「はい追加ァ! 頼んだぜー!」
「ああ」
ウィリアム・テルも吃驚だな! とハイドの射撃技術に舌を巻きながら、ニックは遊ぶように影の化け物に近づいては煙草の火をばらまいていく。
「軍人のオニーサンの射撃技術に乾杯!」
ライターで火をつけた煙草を、ぽいっと放り投げるように指先で弾き飛ばすニックの眼前で、燃やされてしゅわしゅわと影の化け物はきえていく。
あとに残ったのは――酒瓶と、愉快そうな男。それから、ほっと一息ついて銃をホルスターにしまった男。
***
「――君は昨日も飲んでいたんじゃないのか」
「昨日は一人。今日は二人。昨日とは全く別のシチュエーションなのでノーカン」
屁理屈にも程がある、とハイドは呆れた顔をしながらニックの酒盛りに付き合った。
事態が収拾した後に、酒場で割った酒の弁償を――と各酒場の店主に申し出たハイドに、「その補填は俺の仕事なんだなあ」とにんまり笑ったのはニックだった。
いわく、“クルースニク”とは仮の姿であり――本来は商人なんだそうだ。だから“売って戦う聖職者”だったのかと理解はしたが、普通は逆だろうとハイドは顔をしかめてしまう。
男前が台無しじゃねえかと訳の分からない自称商人は楽しげだったが、そのニックが割った酒瓶の分を差し引いても有り余るほどの酒をあっさりと運ばせてきたのを見て、「本当に商人だったのか……」と目を丸くしてしまった。
世の中には小説より奇妙な話もあるんだぜ、とは奇妙が服を着て歩いているようなニックの言葉だ。
「この国じゃたまにあることなんだよ。だから――ほら、ソルセリル・システリア卿を知ってるか? あの人が後始末を俺みたいなのに任せてるってわけ。蛇の道は蛇、って話」
「……なるほど」
「だからオニーサンがあの場にいたときはびっくりしたけど、射撃すごいな! 俺あんなに正確に撃てないぜ」
「いや、それほどではない」
ぺらぺらとよくしゃべる男だ、と思いながら、ハイドもつきあい程度にグラスを傾ける。
しばらく男の話に耳を傾けていれば、「助かったぜ」とニックがにっこりと笑う。
「また今度、どっかであったらよろしくな?」
「――その時は普通の酒宴に呼ばれたいものだが」
ふっと微笑んで、ハイドは飲んだくれているニックに別れを告げると、奇妙な出会いをもたらした酒場を後にする。軽い男ではあったが悪人ではないのか――と不思議な愉快さを感じながら、ガラス片で煌めく道を歩んでいった。