昼下がりの珈琲
 

 ドアベルがからん、と軽い音を響かせる。
 客の来訪を告げるその音を、この店の店主は瞼を伏せて聞いていた。
 入ってきた人影に店主のニルチェニアは薄く微笑んで、「いらっしゃいませ」とおきまりのそれを口にした。客も馴れたように「また来てしまいました」とにっこり笑う。


 ニルチェニア・メイラーは変わり者だ。
 今は雑貨屋でありながら喫茶店、という気楽で小さな店の店主になっている。数年前は大きな屋敷で、箱入り娘といって差し支えない令嬢生活を送っていた。
 それなのに現在は小さな店の主として、生活に困らない程度の稼ぎを得て生活している。何故か。
 答えは想像するよりずっと簡単だ。「やりたかったから」。

 今まで一つの文句も言わず、退屈で窮屈な生き方を強いられていたニルチェニアは、成人を迎えると同時に家を飛び出した。まさか深窓の令嬢がそんな行動にでるとは、露ほども思わなかった周りの人間は慌てふためいた。が、彼女の父親は鷹揚に笑って「好きなようにやらせなさい」とそれを認めたのだった。今まで自分という物をあまり表に出さず、楽しいのか楽しくないのか、生きているのか死んでいるのか、人なのか人形なのか――とにかく、周りに従ってばかりたった娘が、突拍子がなくとも自分でやりたいことを見つけたのが父親には嬉しかったのだろう。

 そんな彼女の店の名前はフィアールカ。遠い国の言葉で「スミレ」を意味するそれ。店主のニルチェニアのスミレ色の目からとって付けられた店の名は、どことなく異国情緒を漂わせながらも淑やかに耳に馴染む。

 雑貨店としては品ぞろえは多くないし、取りそろえているのは茶器や茶葉、茶菓子に陶器の人形――と、いかにも貴族の令嬢じみている。城下町とはいえ、それほど需要が多いとも思えない品ぞろえで店を構えるあたりは浮き世離れした彼女らしいと言えたし、店が小さいのもうなずける。

 一方、喫茶店としてはそこそこ成功していると言っていい。ニルチェニアが入れる紅茶は茶葉のせいもあって美味しかったし、彼女の作る卵菓子は優しい甘さで良いのだという。深窓の令嬢であったためにニルチェニア本人から何となく漂う、おっとりとした雰囲気は、喫茶店の雰囲気にもよくあって、のんびりとした午後を楽しみたいならもってこいだ。何より彼女の見目の良さが男性客を引きつけた。本人はそれを軽くあしらってしまうけれど。





「ご注文は?」
「いつもの珈琲を」
「紅茶がおすすめなんですよ、このお店。――知ってました? 叔父様」
「ええ。可愛い姪の店ですからね。それくらいは」

 珍しく人のいない店内で、ニルチェニアと和やかに話しているのはこの国の重要人物であるソルセリル・システリアだ。彼は医師でありながらこの国随一の弓の腕を持ち、また政治についても明るいという――人離れした人で。

 天は二物を与えず。

 そんな言葉に真っ正面から喧嘩を売るように、ソルセリルは才に恵まれ、また容姿にも恵まれていた。男だというのに艶やかな銀髪はニルチェニアとよく似た色をしていて、真珠色の眼は柔らかい光をともしている。話さなければよくできた彫像だと思ってしまうほど整うその容姿。何かの魔術でも使っているのか、六十を越えると思われる年齢にも関わらず、彼は未だに二十代そこそこの見た目である。このあたりからして――人離れしていた。

 彼はニルチェニアの叔父だ。彼もまた変わり者として有名で、そのせいか、同じく変わり者の姪をよく可愛がっていた。
 だからこそ、暇を見つけては姪の経営する喫茶店に顔を出すのだ。ただ、頼むのは珈琲と茶菓子が少々。可愛い姪の店だからと必要以上に金を落としていったりしないのは、彼なりの“ちゃんと頑張りなさい”という応援でもある。ニルチェニアもそれをよく知っている。

「紅茶がおすすめなのを知っていらっしゃるなら、珈琲を飲んでいかれるのは何故なのかしら。叔父様、別に紅茶が苦手というわけでもなかったでしょう?」
「ええ。――そうですねえ、紅茶より珈琲を入れる腕前が上がったときには、紅茶を頂くとしましょう」
「天の邪鬼ですわね、相変わらず」
「君へのエール、ですよ。ニルチェニア」

 くすくすと笑いながらニルチェニアは珈琲の豆を挽く。淹れるごとに豆を挽くのがニルチェニアなりのこだわりだったし、案外ソルセリルもそれが好きなんじゃないか――とニルチェニアは思っている。
 ニルチェニアが豆を挽き終わるまで彼は一言も口にせず、ほんのりと漂う豆の香りと、挽いているときの微かな音を目を閉じて味わっているようだった。

 ――相変わらず、絵になる人。

 目を閉じてこの空気を味わう自らの叔父は、身内の贔屓目を抜きにしたって美しい。何をしていてもため息のでそうな美人だというのに、未だに妻も子供もいないとのことだから――世の中とはわからない。

 そんなことを何となく考えながら、ニルチェニアはてきぱきと珈琲を入れる準備を整えた。
 挽いた豆をフィルタに乗せて、熱湯を注いだら後は待つだけ。
 待っている間に交わされるのは、とりとめもない話だ。

「さて、こだわりの珈琲の味はいかほどですかね。前よりはマシになりましたか」
「……それはどうでしょう」

 ガラス容器の中にドリップされている珈琲の滴が、ぽとん、ぽとん、と水面を揺らしながら落ちていくのがガラス越しに見えている。
 ここまでこだわっているにも関わらず――ニルチェニアの珈琲は微妙な味がする。口に出来ないほどマズいわけではないが、普通に飲めるほどのおいしさではないというような――微妙な味。

 ニルチェニアの叔父は、マズいと知っていながらこの珈琲をいつも頼んだし、ニルチェニアの兄は舌がおかしいのか、この珈琲を心から美味しいと褒める。早く二人にまともな珈琲を飲んで貰いたいと思いつつも、ニルチェニアの珈琲は一向に美味しくならなかった。

「何がだめなんでしょうか……」
「豆は? 自家焙煎の良いところを知っていますから、そこを紹介しましょうか」
「いえ……豆も焙煎も、ちゃんとしたところでやっていただいておりますから――やはり、わたしの勉強不足なのでは、と」
「紅茶は美味しく淹れられるというのに、君もなかなか変わり者ですねえ」

 何が楽しいのか愉快そうに笑って、ソルセリルは差し出された珈琲に口を付ける。
 香りは良い。ソルセリル自身は珈琲には何も入れないのが好きだから、ミルクも砂糖も入っていないままで出されるそれは本来なら美味しくいただけるものだ。――が、しかし。

「率直に言って、美味しくはないですね」
「そうですか……」

 あからさまにしょんぼりした姪に、「まあ、前よりは少しマシになったのではないですか」と少し慌てながらも付け足して、「努力は実るものですよ」とソルセリルは慰めを口にした。

「喫茶店なのに、珈琲もまともにいれられないだなんて」
「喫“茶”店ですから、紅茶が美味しければとりあえずは成り立つでしょう」
「そんなの屁理屈ですわ、叔父様」
「ええ。だからこそ、君の淹れる珈琲がまともになるまで私は来る度に珈琲を頼むとします。私一人しか珈琲を頼まなかったとしても、修行にはなるでしょう」
「そうはおっしゃいますけど……」

 悪い珈琲をそんなに飲んでしまって、胃を悪くなさらないかしら、と心配そうな顔になったニルチェニアに、ソルセリルはぷっと吹き出す。マズいのは味だけで成分はほかの珈琲となんら変わりないでしょう、と。

「それに、そんなことを言ったら君の珈琲をうまいうまいと飲んでいるルティカルはどうするんです? 私の知る限り、君の兄はここに来る度に――その珈琲を二杯は飲んで帰って行く」
「兄は胃が丈夫ですもの」

 舌もおかしいし、とこっそり続けられた姪の言葉は聞かなかったことにして、ソルセリルはふふふと笑う。

「相変わらず仲が良いようで結構。……君がここに店を出すと決めたときに激怒した彼を見て、もしかしたら酷い兄妹喧嘩が続くのではと危惧したのですが」
「兄は私のことを心配してくれただけですから。私が私の言葉で熱意を伝えたら、すぐに理解してくれましたわ」
「君のお父上も私の姉も、君とルティカルのあの喧嘩にずいぶん肝を冷やしておりましたよ。私はあれほど困った姉を見たのは初めてです」
「まあ。それでは、お母様とお父様にはずいぶんと迷惑をかけてしまったのね」
「その心配も君たちの仲直りでさっぱりと消えたようですよ。今ではいつ君の店にいこうかと夫婦そろって思案する有様ですから……おっと、これは内緒にしてくれと頼まれたことでした」
「……ふふ、では聞かなかったことにいたしましょう」

 頼みますよ、と悪戯っぽく笑いながらソルセリルは微妙な味の珈琲をすする。

 しばらくして、小さくなったドアベルとともに、夫婦が一組珈琲の香る店内へと足を踏み入れた。

「いらっしゃいませ――あら!」
「噂をすれば何とやら、ですね? ……こんにちは、ご無沙汰しております、姉上、義兄上」

 前半はニルチェニアにしか聞こえないように、後半はニルチェニアの両親に向かって。
 照れくさそうに笑いながら入店してくる夫婦を目にしながら、ニルチェニアとソルセリルは顔を見合わせて笑った。


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