merry
*
「メリークリスマス、です」
「……え?」
急にかけられた言葉と、差し出された箱――何のことか一瞬わからなくなってから、窓の外に広がる風景を見て思い至った。
煌びやかな光、蝋燭の灯る家。飾り付けられたもみの木、それから、ちょっといびつな感じの雪だるま。
赤い服を身にまとった恰幅の良い男性が、袋いっぱいに贈り物を詰めて子供たちの枕元へお邪魔する日。
クリスマス、とどこか呆然としたようにニルチェニアは呟いた。馴染みのない言葉だ。少なくとも、現在自分が触れている調査書類のまとめられたファイルより、ずっとずっと馴染みのない言葉だ。
――そうか、今日はクリスマス。
すっかり忘れていた――というよりは、そもそも彼女の頭の中に存在しなかったイベントと言っていい。世間一般がそわそわし出してもニルチェニアは全く気にしなかったし、靴下に詰められる贈り物を楽しみに待つような年頃でもない。ただなんとなく、町に人が増えていたな――とは思っていたのだけども。
「……あの、クリスマスとか……嫌いでしたか」
「あっ、いいえ――少し、……そうですね、なんだかこういうのが初めてというか……何というのかしら、自分には関係のない出来事だと思っていますから」
不安そうな顔で見つめてくる恋人の青年に、ニルチェニアは少し笑って首を振った。少なくとも、覚えている限りではクリスマスに嫌な思い出はなかったはずだ。
「関係ない出来事、ですか?」
「ええ――なんとなく騒がしいな、とかそれくらいしか思ってきませんでした」
目の前の青年、フルルシアは不思議そうな、何とも言えない顔をしている。それはそうだろうなとニルチェニアは特に驚かなかった。彼は確か孤児院の出で、それならクリスマスを祝ったことも自分よりたくさんあるはずだから。世間一般ではこの「クリスマス」を盛大に祝うのも、ニルチェニアは知っていた。
「わたし、今までクリスマスを祝った覚えがなくて――忘れているだけなのかもしれないけれど」
「……なるほど?」
少なくとも養父はクリスマスなんてしていなかったなあ、とニルチェニアは記憶を掘り起こした。幼い頃の記憶でも、ある一定の年齢からの記憶はいっそ不気味なほどに鮮明だから、記憶違いなんてことはない。もともと、彼女の養父はクリスマスやらハロウィンやら、そんな行事を重要視するような人ではなかったし、ニルチェニアもそれに倣って無頓着だった。どこぞの誰かの誕生日――というのは知識として身につけたけれど、それだけだ。
「ううん、でもとにかく受け取ってほしいです」
はい、と小さめの箱が手のひらに乗せられる。赤い化粧紙とサテンの緑のリボンが巻き付けられているその箱は、間違いなくプレゼントというものなのだろう。ニルチェニアは珍しくわかりやすく動揺した。
「ああ……ええと、あの、だから――私、フルルシアさんへのプレゼントを持っていません」
――正式なクリスマスを知らなかったので……。
プレゼントを交換する日だったのだろうか、と彼女は首を傾げた。なるほど、それなら子供たちが“サンタクロース”あてに温かい飲み物やクッキーを用意しておくのもうなずける。クッキーや飲み物と引き替えにサンタはプレゼントを置いていく。等価交換とは言えないのかもしれないが、子供にそれを望むほどの馬鹿な大人はいないのだろう。子供の経済力などたかがしれているし――
「ニルチェさん?」
「えっ?」
なんだかぼうっとしてますね、と気遣わしげに声をかけられて、確かにそうかもしれないと自分でも思った。
疲れているんですか、と優しく問われて、子供にするように頭を撫でられる。不思議と嫌な気分ではなかった。普段の彼女なら――子供扱いしているのか、と少し不機嫌さの伴う無表情を作り上げるところなのだけれど。
「プレゼントなんて良いんですよ。――こっちは俺が貴女に贈りたかっただけ……ですから」
「……でも」
「また物事を難しく考えているんですか? もっと簡単なんです、俺の言いたいこととか、クリスマスって」
貰ったら返さないと、という思考が彼女の頭を支配していることくらい、フルルシアは良く知っている。律儀な彼女のことだ、プレゼントに喜ぶ前に困惑することくらい、何となく想像できていた。
「……じゃあ、そうですね。俺にもプレゼント下さい」
「あげられるものがありません」
彼女を納得させるために引きだした言葉は、彼女自身の残念そうな声で何となく遮られた。
クリスマスだし良いかな、とほんのちょっと自分に甘くなってみる。いろんな意味で驚かされてばかりだし、たまには自分が驚かすのも悪くないだろう。照れ隠しで平手打ちとか、もしかしたら蹴りとかされるかもしれないけど、それはそれで甘んじて受ければいい。
「俺、今すごくココアが飲みたくて」
彼女の探偵事務所の中は暖かいけれど、今求めている暖かさはそういうものじゃなくて。
ココアなら入れますけど、とちょっとだけずれた言葉を返したニルチェニアに笑って、抱き抱えるようにして仕事机の安楽いすから立ち上がらせた。ちょっと驚いたように顔を赤くされたけれど、サンタの衣装の赤さにはまだ遠いから大丈夫だ。
「出来たら二人で飲みたいんです、ココア。ニルチェさんがいれたやつがいい」
「……そんなので良いんですか」
「それが良いんです」
不服そうな顔をしながらもココアを入れるために席を立ったニルチェニアに、ふふふとフルルシアは微笑んだ。
隣同士、座りながら飲むココアの温かさとか、甘さとか――たぶん、そんな嬉しさとか、幸せとかをニルチェニアは知らないだろう。彼女の養父が彼女を殊更に愛しているのはフルルシアも良く知るところだったけれど、彼女の養父はココアよりワインを選ぶだろうし、彼女は彼女で素直じゃないから――隣には並ばない。
だから、何となく知ってほしかった。
ココアを運んできた恋人を隣に座らせて、フルルシアはそのスミレ色の瞳をじっと見つめる。きょとんとした顔をしたままの彼女の唇に、そっと自分のそれを重ねた。
――これくらいのプレゼントなら貰っても良いですよね?
何となく、心の中でおうかがいを立ててしまう。
そっと唇をはなせば、目の前にはヒイラギの実にも負けず劣らずの赤い顔。
「――というわけで、俺もプレゼント貰いましたから。遠慮せずに」
受け取って下さいと口にすれば、わたしだけ貰ってばかりじゃないですか――と真っ赤な顔でニルチェニアが口にした。
***
「何というか……その、すまない……目を離したばっかりに。怪我はなかっただろうか」
「いえ、全然……ハイドさん、お怪我は?」
「無い。貴女のクリスマスを台無しにする気はないものでね」
「それなら良かったです」
くすくすと笑ってから、申し訳なさそうな顔に微笑みを返した。そういうところが好きでこうなったわけなのだし、実際に今でも好きなのだから謝らなくてもいいのに――と思うが、口にはしない。口にすればするほど、なんとなく気を遣わせてしまいそうだったから。驚くほど誠実で律儀で紳士なこの恋人のことを、エリシアはとても嬉しく思っていた。
*
クリスマスの夜ともなれば町の雰囲気もいつもとは違って浮かれてくるわけで。
エリシアはパン屋に勤めているわけだけれども、クリスマスと言えば掻き入れ時で。至る所へケーキの配達をして、ようやっと帰路につける――と思った頃に、彼が少し照れくさそうに彼女に声をかけてきた。「よかったら、家で夕飯でもどうだろう」。そんな言葉とともに片手を差し出して。
――この時期は忙しいと聞いたが、体は大丈夫だろうか。
――大丈夫です、いつもと同じ。
――それなら良かった。
すこしぎこちなく始まった会話だったけれど、エリシアはそれが嬉しくてたまらなかった。繋いだ手のひらは温かかったし、会えるとは思っていなかった恋人に会えたのだから嬉しいに決まっている。妹さんに会えるでしょうか、と期待の眼差しを送ればもちろん、と返ってきたから、エリシアが夕飯にお呼ばれするのは決定事項だ。一人で食べる夕食より、三人で食べる方が美味しいに決まっている。
煌びやかに飾り付けられた街路樹の中を通りながら、エリシアとハイドは歩いている。会話はお互いの照れもあってぽつぽつと細切れだったけれど、気まずさなんてどこにもない。照れくささが先行して顔が赤くなるくらいの弊害しか出ていないし、その顔の赤さだって寒さのせいに出来るだろう。
そんな中で、ちょっと諍いの雰囲気を漂わせる場所を通りがかったものだから。
軍人という職業柄、見逃せなかったのであろうハイドが“少し待っていてくれ”とその場をどうにかしようとエリシアの元から離れたのである。
エリシアとて元軍人だ。諸々あって今は辞めてしまったけれど、体がちゃんと動くなら彼と同じようにしただろう。こんなに幸せが降り積もる夜に、諍い事は似合わない。
白く降り積もっている雪は明日の朝には雪だるまとして、飾り付けられた街路樹の元に並ぶのだろう。そんなことをゆるゆると考えていたエリシアに、聞き慣れない男の声がかけられる。
「待ち人でもいるのかい」
「ええ、少し」
そこの裏路地で治安維持活動をなさっています――とは言えずに、エリシアは柔らかく言葉を濁した。
へえ、そうなのと男は軽く笑って、エリシアの手を取った。
「俺も待ち人がいるんだけどさ、そいつが来るまでちょっと屋内にでも、どうかな」
「いいえ、大丈夫です」
もうそろそろ終わると思いますから――とは口にせず、エリシアはひたすらに微笑み続けた。現役だった頃の力や体の動き、キレは今やどこにもないし、今は一般女性と変わらないひ弱さだから、下手に断って男に何かされるのも嫌だった。自分が諍いの元になるのもごめんだったし。
寒い冬は好きではないな、と改めて思う。古傷がじわりと痛む気がするし、そうでなくても体がかじかんでしまう。どれだけコートを厚くしても、マフラーをつけても、どこからか冷たい空気は忍び込むものだ。先ほどまで手のひらにあった温もりを愛おしく思いながら、エリシアはふう、と息をついた。――やはり、白い。
「お姉さん、ガード堅いな……って、うわッ!」
男が仰け反るように驚き、エリシアの頬はやっぱりゆるんでしまった。本当に、助けて貰いたいときに来てくれる人だなあと思ってしまう。あまり頼りきりになるのも良くないのだけれど、それでも嬉しい。
「――私の連れに何か用でも?」
表面上は穏やかに笑っているし、さりげなくエリシアの腰を引き寄せた手は優しいのだけれど、目はあまり笑っていない。ハイドのそんな怖さに気づけたのは、真っ向から対峙した男のみである。笑ってはいるが、その眼光の鋭さは隠し切れていない。どこかで二、三人はしとめていそうな――そんな感じだと男の本能は告げる。
「いやあ、ちょっと世間話を……」
「そうか、今日は雪が降るな。世間はクリスマスだ、君もクリスマスを楽しむと良い。伴侶でも恋人でも、君が喜ばせる女性は他にいるだろう?」
「そ、そうですね」
つとめて紳士的に威嚇――というか、牽制をしてくれる恋人に、エリシアは「あちら側は収まりましたか?」と柔らかく聞いた。穏便に済んだよ、と返してくるハイドにお疲れさまですと労いの言葉をかけて、ねだるようにハイドのコートの裾を引っ張ってみる。
ちょっと驚いたように目を見開かれてから、ふっとその瞳が細められた。甘えてもいいのかな、とエリシアが期待するより先に、エリシアの手のひらが一回りは大きい手のひらに包まれる。
「何というか……その、すまない……目を離したばっかりに。怪我はなかっただろうか」
「いえ、全然……ハイドさん、お怪我は?」
「無い。貴女のクリスマスを台無しにする気はないものでね」
「それなら良かったです」
帰ろうか、と優しい声が降ってきて、エリシアはそれにやっぱり頬がゆるんでしまう。「帰ろうか」なんて。まるで家族みたいで、嬉しい。
「気合いを入れて七面鳥を丸ごと焼いてくれているらしいから、たくさん食べてほしい」
「わ、わあ……まるごとですか」
二人きりの夕食だったらどうするつもりだったんだろう――とは考えなかった。きっと、最初からそうしてくれる手はずだったのだろうから。この兄妹は二人とも、エリシアがひとりでクリスマスを過ごさなくても良いように考えてくれていたのだろう。
手のひらと同じくらい温かい気遣い。ありがとうございます、と口にすれば、穏やかな笑みが返ってきた。