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「――ニルチェニアはもういないのですか」

 呆然としている二人の後ろから、冷静な声がかかった。ソルセリルだ。その体には赤い液体がいくつか跳ねていて、彼が手にしているのは弓ではなく矢だ。鋭く尖った矢の先からは血の雫がしたたり落ちている。

「――いないのか」

 今までに聞いたことのないほど低い声だった。それにスペルゴが危機感を抱くより早く、ソルセリルはスペルゴの首を締め上げる。一瞬の出来事だった。ジェラルドもルティカルもそれを目で追えなかったのだから。それからソルセリルはスペルゴの腕から離れて転がっていたリラを、ジェラルドに投げつけるように押しつける。どうして良いかわからずに、けれどジェラルドはリラを抱き寄せた。

 かつて、愛しかった人だ。白い肌も月の光のような銀髪も、菫のような色の瞳も、そこにある。
 バラ色に色づいた頬は健康そのもので、体にも温もりがあった。ゆっくりと胸が上下している。

「……二人とも、その人を連れて帰りなさい。紅玉卿や黒玉卿が君たちを待っていますから」
「白玉卿、貴方は――」
「この男を縛り上げてからそちらに向かうとしましょう」

 淡々と告げているソルセリルの手によって、スペルゴがぐたりと意識を失う。礼服のような白いコートのポケットからロープを取り出したソルセリルは、機械的にそれをスペルゴに巻き付けていた。

「――あの、馬鹿娘……」

 最後に小さく紡がれたそれは誰の耳にも入らない。





 リラを抱いて戻ってきたジェラルドとルティカルに、ルベリオスがぐっと拳を握る。ナリッカがじわりと目に涙を浮かべていた。エリシアは顔面蒼白で、一言も口を開かない。生温くもない風が頬を撫で、その場には何とも言えない陰鬱さが漂っている。
 誰もがあの少女が消えてしまったことを理解していた。

「帰りましょう」

 帰りましょう、と紡ぐルティカルが一番生気のない顔をしている。疲れ切ったこえで、ルティカルはリラの身を案じた。それがある意味での虚勢だと知っているから、ルベリオスはルティカルの顔を直視できなかった。この若き当主がどれほど妹の身を案じていたかは、数時間一緒にいた程度でもよくわかったから。

「その方を夜風にさらすのは良くないでしょうし――俺は」

 ルティカルはぐしゃりと髪をかいた。
 勢いに任せて近くにあった木を殴る。めきりと音がして木の肌に拳がめり込んだ。

「俺は、もう休みたい」

 心からの言葉だ。ルティカルの背をルベリオスがとんと叩く。それくらいしか出来なかった。泣きじゃくるエリシアの背をナリッカが撫でている。

 リンツ家のものだろうか、何人かの魔術師がやはり森の中に潜んでいたのだが、それを相手取っていたのはナリッカやエリシア、ルベリオスだ。飛び出ていったジェラルドとルティカルを狙うようにして、魔法を発動させ始めた者たちがいたのを見逃さなかったソルセリルが確実に息の根を止めていたから、そこらに死体が転がっている。てらてらと光る赤い水たまりが、鉄臭いにおいを振りまいていた。紛れもない惨状。

 星は残酷なまでに美しい。
 月のない夜がこんなに暗いことを、ルティカルは初めて知った。


***


「貴方は――貴方って子は」

 ばしん、と頬を打たれる。
 目の前にいる愛しい姉は涙で頬を濡らしながら、怒りに肩を震わせていた。何で、と間抜けに聞いた青年に、そんなこともわからない子だったの、と酷く悲しそうに女性は顔を手で覆う。

「ボクはリラ姉さんを蘇らせたのに。ねえ、これで一緒にいられるよ」
「だからって……!」
「ジェラルドとも一緒にいられるだろ?」 

 何でそんなに怒っているのかと青年は首を傾げる。
 いらなかった少女は消えた。ジェラルドの隣は彼女のもので、自分も彼女が戻ってきて嬉しい。

 万々歳だ。それなのに何故、リラは泣いて怒っているのだろう。

「私は、誰かの命を犠牲にしてまで――また生きたいなんて思わなかった……」
「姉さん?」
「貴方は、私が死んで悲しくなかったの……?」
「悲しかったに決まってるじゃない、何言ってるの?」

 心底意味が分からない。そんな顔をして首を傾げたスペルゴに、リラはゆっくりと口を開いた。

「貴方は、その悲しみを多くの人に押しつけたのよ」
「え――」
「ルティカル様もそう。ジェラルドもそう――ソルセリル様も、他の方も。ニルチェニア様を悼んでいるわ。私が死んで悲しかったときの気持ちを、貴方は覚えているかしら……それと同じくらい悲しい気持ちを、あの人たちはしているの!」
「だ、だってあの子は誰にも必要とされていなくて……」
「必要とされない子なんていないわ……スペルゴ、貴方が私を慕ってくれたように。私が貴方を弟として愛したように。ニルチェニア様は愛されていたというのに」

 ――貴方が考えを改めるまで、罪を償おうとするまで、私はもう貴方の前に姿を現すことはないわ。

 そう言い切った彼の姉は悲しそうな顔をして、スペルゴに与えられた牢を出て行く。
 姉の出て行く姿を見つめながら、彼は自分のしたことに思いを馳せた。それから、かつて自分が抱いた痛いほどの悲しみを思い出す。

「あ、あああ……っ」

 指先が震えた。喉の奥が熱い。声が掠れて、じわりと吐き気がした。

 脳裏に浮かぶのは、隣に寝転がりながら優しく微笑んでくれた少女だ。スペルゴのことばを疑うことなくしんじてくれた、あの優しい少女。握った手が温かかったことを覚えている。

 少女を助けようとしたその兄。婚約者。その目はスペルゴに対する怒りに満ちていた。リラを見てなお、ジェラルドは心から喜んだ様子もなくて。ソルセリルの低い声、獣より鋭いまなざし。全てが綯い交ぜになって、スペルゴは嗚咽を漏らした。




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bkm


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